第一章 枯草は燃える 3

 狼族は狩りの種族だ。

 瞬発力に、そして持続力にも優れている。


 丁字染の突進はおそらく七割程度の力加減で、この後の流れは縹の手に委ねられたと言っていい。

 縹は姿勢を低くして、横に跳んだ。取っ組み合いを避けた。


 これがただのじゃれ合いであれば、普通の狼族なら取っ組み合いを選ぶ。

 力比べで遊ぶようなもので、まあ、お互いの上下関係を微妙に決定づける儀礼的な意味合いもあるのだが、実際のところはその方が楽しいからだ。

 だがそれでは魅せる立ち合いにはならない。

 縹はそう判断したのだろう。


 手脚を使って疾走する狼族は美しい。

 これが月夜であれば尚更であったろうに。


 少なくとも狼族はそう感じる。

 猿族の鉛丹はどう感じているだろうか?


 美しさには普遍性があって欲しい。

 枯草はそう思う。

 少なくとも猫族フェリニスを愛らしいと感じるのは、すべての種族に共通した認識なのだから、美しさにも同じようなものがあって良いはずだ。


 縹は丁字染に捕まらぬよう左右に体を振って陽動しながら、狭い一角を走り回る。空間が狭いために追われる側に不利な追いかけっこだが、縹はひらりひらりと丁字染の腕を躱す。

 最初は余裕な表情を見せていた丁字染が、真剣な表情へと変わっていく。


「どういう状況か、解説しろ」


 鉛丹が枯草のところにやってきてそう言った。

 真剣な眼差しは二人の追いかけっこに向けられたままだ。


「腕っぷしだけで言うならァ縹は丁字染には敵いやァしません。そこで縹は正面からの取っ組み合いを避けたんでさ」


「だがあれでは時間の問題に見える」


「たしかに追われる側が不利に見えますがね、縹は今ンとこほとんど体力を使っちゃァいませんね。丁字染のほうはそろそろ苦しい」


「運動量にそれほど違いがあるようには見えないが?」


「体温でさ」


「体温?」


「俺らは一定以上の体温で運動すると急激に体力を消耗しやす。縹はぎりぎりのところで抑えてますが、丁字染は完全に超えてまさ。とは言えまだ縹が油断できるほどでもねぇですね」


「なるほど。狼族は短距離持久力と長距離持久力に大きく差があるとは聞いていたが、そういうことか」


「そこの、なんつーんですかね。境目を感覚的に分かってる奴ァ、腕っぷしのどうのを置いておいて、手ごわいでさ」


 じゃれあいにせよ、喧嘩にせよ、殺し合いにせよ、自分が得意とする分野を相手に押し付けることが勝利の鉄則だ。だからこそ体力的に劣ると思っていた相手が自分より持久力を発揮するだけで戦略は破綻する。


 ただし最初の一撃はそれ以上に重要だ。

 当たり所が悪ければそのまま勝敗を決するし、そうでなくとも痛みは肉体の動きを、精神の集中を阻害する。

 丁字染は体力有利を捨ててでも最初の一撃を相手に当てることに集中し、縹はその前に体力優位を取ろうとしている、というのが現状だ。


 この戦いだけを見ればいまだ五分と五分。次に自分と戦うことを考えたら体力を残している縹が厄介だ。


「で、どっちが勝つ?」


「あんまり言いたかないですが、縹ですねェ」


 狼族の聴力を考えれば、この会話は二人にも聞こえている。

 枯草のこの発言を聞いた丁字染は憤るだろうし、結果的に枯草の発言によって丁字染は負けるが、まあ、それがなくとも縹が勝つだろうと枯草は思っていた。


「断言できる、と? 俺には先に一発決めたほうが勝ちそうに見えるが」


「ええ、ですから縹が先に一発決めるんでさァ」


「丁字染にはまぐれ当たりもありえないと?」


「無い、でしょうねェ。なんでかは聞かないでくだせェよ。勝敗を左右するンで」


 縹の立ち回りには余裕がある。次戦を見据える余裕が。

 つまり彼にはなんらかの奥の手があるのだ。それをまだ使わないのは、隠したまま枯草との戦いに臨めるならそうしたいのだろう。


「では賭けるか?」


「止めてくだせェ。賭け事は嫌いじゃねェですがね、知った顔から勝つと分かってる勝負で毟り取るのは性分じゃねェんで」


「損な性分だ。そういう時はうまく掛け金を釣り上げるべきだ」


「猿族の方はそう、でしょうねェ」


 個人差もあるが、種族差というのはそれ以上に大きい。

 狼族は賭け事が苦手だし、猿族は得意だ。

 それは賭けそのものだけではなく、賭けを用いた駆け引きも含まれる。

 鉛丹にとっては、この賭け事はおそらく勝っても負けても利があるものなのだ。それが何なのかまではわからないが。


 一方、追いかけっこを続ける二人にも動きがあった。

 縹の陽動に慣れてきた丁字染が障害物として置かれた建造物に縹を追い込んだのだ。この勝負ではどこからどこまでを使用するか明確な基準がなかった。

 縹は建物の中に逃げ込んだ。入り口はひとつ。縹に逃げ場は無い。丁字染は迷わず建物の中に飛び込んだ。


 次の瞬間、乾いた破裂音が運動場に響いた。

 別の場所で鍛錬していた訓練生が驚いて動きを止める程の大きな音だ。


「銃声? にしては大きいな」


「俺たちゃ銃は使えません」


 枯草は見せつけるように手のひらを鉛丹に示して見せた。

 地を蹴り、爪で引き裂くことに特化した狼族の手のひらは猿族のように器用ではない。引き金のような構造を引くことはおろか、銃を手に保持することも難しいのだ。


 そして建物の中から、力を失った丁字染の襟首を咥えた縹が姿を見せた。

 丁字染は気を失っているだけのようだ。


「なにか仕掛けを持ってたんでしょうねェ。狭い部屋の中であの音量を不意打ちで食らえば、目を回すでしょうから」


「耳が良すぎるのも問題だな」


「ええ、まったくで」


 縹は二藍の近くに丁字染を下ろした。

 服を軽く整えて、枯草に目線を向ける。


「さァて、やろうや、枯草ァ」


「休憩しなくていいのか? 縹」


「ちょうど暖まってきたからな」


 縹の言葉は別に強がりというわけではなさそうだ。

 枯草の見立てでも縹の体力はまだ戦うのに十分なほど残っている。

 それでも有利不利で言えば明らかに枯草が有利だろう。

 だが鉛丹は狼族の公平な試合が見たいわけではない。彼は枯草たちに必要な能力があるかの確認がしたいだけだ。そういう意味では休憩を挟まずに戦うというのは、より実戦的と言えるだろう。


「それじゃ始めるか」


 そう言って枯草は縹に歩み寄る。

 普通の歩行速度。普通の歩行姿勢。狼族の戦闘姿勢は二足歩行ではなく、四足だが、枯草は二本の足で前に進んだ。

 縹は困惑している。

 戦闘開始が宣言されたにもかかわらず戦いの始まった空気が無いからだ。


 縹は後退を選んだ。

 枯草の速度に合わせたゆっくりとした後退だ。

 縹は自身の戦闘能力への評価が低い。丁字染との正面戦闘を避けたことや、奥の手を用意してあったことからも明らかだ。おそらく奥の手といっても一つではあるまい。だがそのうち一つが音を出すなにかがあることはすでに分かった。

 少なくとも枯草が丁字染と同じ失態を演じることはない。


 その一方で縹の戦闘能力が低いわけでは決してない。

 丁子染との戦いで序盤、縹が丁子染を翻弄していたことからも明らかだ。

 正面切っての殴り合いは派手で印象深いかもしれないが、虚実入り乱れた動きで相手を翻弄できるというのも立派な強さだ。


 枯草と縹の相対距離はおよそ七メートルというところだろうか。

 一足飛びに飛び掛かれる距離ではあるが、一瞬でとはいかないくらい。

 相手が飛び道具を持っているのであれば危険だが、ステゴロであれば、相手の動きを見てから対処できるくらいの距離。


「どうした枯草ァ、おめぇらしくもねェ、ビビってんのか?」


 いまだに腕を上げすらしない枯草を縹が挑発する。

 おそらく縹は枯草が戦闘姿勢にならないことを、なんらかの罠だと考えているのだろう。縹自身がそういう搦手を多用するからそう思ってしまうのだ。


 実のところ、この二足歩行で両手を下げて歩くのは、枯草が最近練習している戦闘姿勢である。

 見た目としては普通の町歩きに見える状態でありながら、構えた戦闘姿勢と変わらぬ攻撃速度が出せないか枯草は試行錯誤している最中であった。


 狼族にとって二足歩行は自然な姿勢とは言えない。

 猿族や猫族、蜥蜴族などは二足歩行が自然な体つきをしているが、狼族は違う。

 肩の位置や肉の付き方の関係で、腕を振って歩くこと自体が難しい。ゆえに狼族は両手を前にだらりと下げて歩くことになる。しかも足を出すと手も自然と動いてしまう。あまり見栄えの良いものではないので、枯草は手が動かないように訓練した。


 枯草は上半身を動かすことなく、足のみで歩く。

 この歩行姿勢は猿族の目から見ても悪いものではなかったらしく、“狼族にしては”と頭に付くが、賞賛されたこともある。だが最大の利点は訓練の結果、二足歩行時でも腕が自由に動かせるようになったことだ。

 つまり枯草はこの歩行姿勢からでも、腕を使った攻撃ができる。


 距離を取ろうとした縹の判断は結果的にとは言え、正解だ。

 枯草は不意打ちで縹との立ち合いを終わらせようと狙っていた。

 二藍との立ち合いは簡単に終わらないとわかっている。

 縹が丁子染との立ち合いでそうしたように、枯草は体力を消耗せずにこの立ち合いを切り抜けなければならない。


 ある程度前に進んだところで枯草は足を止めた。

 じりじりと後退していた縹も足を止める。

 動から静へと移り変わる移行の時間、瞬きほどの時間だが、縹の緊張が弛緩する瞬間を狙って、枯草は右足を振り上げた。


 蹴ったのは空気、ではなく、足元の小石だ。

 指の先ほどの大きさの小石は命中したところで痛手を与えられるわけではない。毛皮に覆われた狼族であれば尚更だ。

 だが目や口の中、鼻の頭のような部分に当たればその限りではない。そうではなくとも大抵の生き物は頭部への不意な飛来物に対して反応を示さずにはいられない。なんの反応も示さなかったのだとすれば、それが見えなかったのだ。


 縹は気付き、そして伏せた。

 枯草の蹴った小石は縹の顔よりずっと上を通り過ぎる。


「あっぶなァ。石ィ使うなよ」


「禁止したのは鋭いものだァよっと」


 蹴り足をそのまま第一歩目として、枯草は大きく前に踏み込んでいた。

 二歩で縹との距離を詰め終わっている。

 言葉のやりとりの最後にはもう枯草の蹴りが縹を捉えていた。

 矢、というよりは槍のような一撃が縹の頭部に直撃する。


 縹の体が三メートルは吹っ飛び、地面を転がった。


 狼族の蹴りは筋肉や骨格の関係上、振るのではなく、蹴り飛ばすものになる。


「おいおい、死んでないだろうな」


「あれくらいは平気だ、です」


 鉛丹と二藍の声が聞こえてくる。

 丁子染と縹の時に枯草がやらされていた解説を今は二藍がやらされているらしい。口下手な二藍にとってはとんだ災難だが、外野に余計なことを言われるのはやはり気分の良いものではない。とくに丁子染は枯草の言葉で平常心を乱されたところがあるだろう。


「追撃するべき場面ではないのか?」


「普通ならそうするますです」


 二人の言うこともわかるが、おそらく追撃しようとすれば縹はなんらかの隠し玉を使ったはずだ。

 不用意に接近するべきではない。

 枯草はさりげなく小石のいくつか落ちている辺りに移動して、縹が起きてくるのを待った。




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