第2章【2】
食事を終えて片付けが済むと、シリルはまたダイニングテーブルに着いた。そばにはローレンスが立ち、テーブルにはカトラリーが並んでいる。ただカトラリーの使い方を教わるだけなのに、シリルは肩に力が入るほど緊張していた。
「ナイフとフォーク、スプーンの基本的な使い方はできているようだから、あとはマナーを頭に入れるだけだな」
シリルの前には飾り皿が置かれ、その周りにナイフとフォーク、スプーンが合計で十一本、左前に小皿が設置されている。この光景だけはなんとなく知ってはいたが、実際にどれを何に使うのかと言われるとさっぱりわからなかった。
「カトラリーは料理に合わせて外側から順に使う。料理を食べ終えたら皿に置いておくんだ」
「一緒に下げてもらうんですね」
「そうだ」
ローレンスがスープスプーンからパンスプレッダーまでひとつずつ説明するが、何ひとつとして頭に入らない。何せ、三つのフォークについては大きさが違うだけである。飾り皿の向こうにもひとつある。前菜用のフォークと果物用のフォークが入れ替わっていても、まったく気付かずに食事を終えることだろう。
(そこまで求められるとしたら、社交界になんて出られないな……)
実際に手に取って順番に使う練習をしていると、前菜用のナイフを手にしたとき、フィッシュナイフを柄にかけて床に落としてしまった。シリルが呆気に取られているうちに、アイレーが素早く拾って新しいフィッシュナイフをテーブルに置く。
《 使用人ってすごいな…… 》
《 アイレーは私と同い年なのにね~ 》
心の中の独り言のつもりだったのにミラに語り掛けていたことに驚きつつ、シリルはアイレーに礼を言う。気を抜いていても意識が繋がるようだ。それだけ深い
「きみは身長に対して手が小さいみたいだな。サイズが合っていない」
そう言いながら、ローレンスがするりとシリルの手を撫でる。突然に触れられたことで、シリルはその手の優しさに少しだけ心拍が跳ねた。視線を上げると、すぐそばにローレンスの顔がある。シリルはどぎまぎしていることを隠すため、うーん、と首を捻った。
「でも、どの家にも子ども用があるとは限らないですよね」
そうだな、と頷いたローレンスが手を離すので、シリルは内心でほっとしていた。ローレンスの行動の真意がわからず、不意を突いた接触に少しだけ心が落ち着かなくなっている。
「招待された食事会なら用意されるだろうが、パーティでは一般的なサイズの物を使わないといけないときもあるだろうな」
一般的なサイズのカトラリーに比べると、シリルの手はより小さく見える。この屋敷での食事の際のカトラリーは、シリルのために用意した物のようだ。シリルは小さく息をつき、ミラに語り掛けた。
《 こうなって来ると、箸だけで食事できる文化がありがたく感じるよ…… 》
《 離れてみて初めてわかるありがたみねー 》
元の世界が恋しいとはどう曲がっても思わないが、懐かしく感じているのは確かだ。文化がかけ離れている上に、身分まで変わってしまった。さらに爵位も継ぐことになると考えると、シリルはどうしても憂鬱に思ってしまう。
《 貴族は身分じゃなくて身に付ける習慣だと言われているわ。これから貴族として暮らしていくうちに慣れて来るわよ 》
《 うーん……。まあ、頑張るよ 》
頑張りだけでどうにかなればいいのだが、とシリルはまた小さく息をついた。
「僕もいずれ、ラト家の人間として社交界に出る必要があるんですよね」
「そうなるだろうな」
「ずっと平民として暮らしていた僕にこなせるんでしょうか……」
「すぐに社交界に出ろとは言わない。自信がつくまで練習すればいい。ラト家としても、テーブルマナーすらできていない者を社交界に出すわけにはいかないからな」
ローレンスは冷ややかな表情をしているが、その言葉はどこか優しさが感じられる。BLゲームとして最終的に主人公と恋仲になるのだから、きっとその「垣間見える優しさ」に惹かれるのだろう、とシリルは考えていた。ただクールなだけの者に惹かれることもあるだろうが、クールさ以外の魅力もあるはずだ。おそらく姉が語っていたのはそういうことだったのだろう。
「トラインがひと通りのマナーを知っている。空き時間に教わるといい」
「はい……」
壁掛け時計の鐘が鳴るので、ローレンスが顔を上げる。
「僕は授業がある。きみの家庭教師は明日から来るはずだ。今日は自由に過ごすといい」
「はい。ありがとうございました」
ローレンスはにこりともせず去って行く。このシリルが置かれた状況も相俟って、前世の記憶がなければ怯えていたことだろう。そもそも、シリルは悪役令息である。レイン・ウォーカーは、ローレンスと相容れることはなかったのだろう。その結果が世界の破滅だとしても、シリルにはローレンスを責めるつもりはなかった。
「ちょっと疲れたんじゃない?」
ミラが優しく肩を叩くので、シリルは苦笑いを浮かべる。
「結構。ちょっと中庭で休憩しようかな」
「いいわね。行きましょ」
カトラリーの片付けに取り掛かるアイレーに見送られ、シリルはミラとともに中庭を目指す。ダイニングと中庭が近いことがこんなにもありがたく思うことは、この先もうないかもしれない。
「ミラ、ちょっといいか?」鎧を身に纏った青年が呼ぶ。「警備のことなんだが……」
「ええ。シリル、中庭から離れないでね」
「わかった」
ミラを見送り、中庭に繰り出す。芝生の広場に出て行けば、すぐにジョンが嬉しそうに駆け寄って来た。ジョンは賢い。シリルの体が小さいことをしっかりと理解し、勢いをつけて飛び付いて来ることはない。実家のタローは紫音が大きくなってから飼い始めたため、遠慮がなかった。それもいまでは懐かしいことだ。
『ここの暮らしはどう?』
「まだ慣れないな……」
『一気に身分が上がったわけだからね』
「うん……」
『嫌なことがあったら僕に言うんだよ。シリルが望むなら、全部ぶち壊してあげるから』
「うーん……頼もしいんだかなんだか……」
「シリル?」
ミラが駆け寄って来るのでシリルは顔を上げる。話し合いは終わったようだ。
「誰と喋ってるの?」
「えっと……独り言」
ミラは不思議そうに首を傾げるが、独り言であることに変わりはない。
そういえば、とシリルはミラを見上げた。
「ローレンスはシナリオ上ではオールヴァリを名乗ってたよね?」
「そうなの? 私が書いたシナリオではラトだったはずよ」
「僕もベータ版までしかやってないけど、オールヴァリって言ってた気がする」
「ふうん? まあ、シリルが引き取られればローレンスがラト家に居る必要はなくなるから、実家に帰るのかもしれないわね」
確かに長篠美緒の設定資料では「ローレンス・ラト」になっていた。それがどうなってオールヴァリを名乗ることになったのかはわからないが、美緒とともにシナリオ制作していた人がミラと同じように考えたのかもしれない。そう考えるのは、誰にとっても自然なことだろう。
(会ってまだ数日なのに、なんで寂しく感じるんだろう……)
男兄弟が欲しいと考えていた時期を思い返すと、例え対立する可能性のある攻略対象だとしても、なんとなく寂しく感じてしまう。大勢が居る場所で暮らすのが久しぶりだからかもしれない。すっかり忘れていた気持ちだ。
「現時点で世界の再生はどれくらい進んでるの?」
「残念ながら私にはわからないわ。その辺りは神に任せるしかないわね」
あの穏やかな少女の声の神は、いまどこで闘っているのだろうか。この世界に介入しているのだとしたら、いつか会える日が来るのだろうか。シリルはそう考えて、また少し寂しい気持ちになっていた。
「私たちはこの世界に居るだけで再生の動力になっているし、気にする必要はないんじゃない?」
「まさに神頼み……か」
「ええ。シリル・ラトとして生きることに集中するといいわ」
「うん……そうだね」
シリルは、これから自分がどう生きていくのかわからない。シリル・ラトとして、どう生きていくのが正解なのか。胸を張ってシリル・ラトを名乗れるようになれば理想的だが、それだけの自信はない。まだシリル・ラトになって間もないため、これから変わっていくこともあるだろう。人生を途中で投げ出した人間でも、人生が短いようで長く、長いようで短いものであることは知っている。日々の暮らしが人生を大きく変えることも知っている。いまはきっとそれで充分だと、自分を納得させた。
――……
うたた寝から目を覚ますと、星座が瞬いて流れ堕ちる天体が眼前に広がった。
星々は醜く、色とりどりに輝いて、こんなはずじゃなかったと呻いて散って逝く。
揺り椅子に深くもたれ、溢れる雫をそのままに、煌めきの光景を眺め星屑を吐き出す。
鮮明な赤の向こうで弾けて飛沫を上げる虹がドロドロと溶けて血溜まりを作った。
ああ、美しい光景だ。だから、頭の中から出て行ってくれ。
大嫌いなあの子の歌が耳を突き刺す前に。屑が詰まって息が止まる前に。心臓が砕ける前に。
恐怖で足が竦む前に。
これで最期だから。
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