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芳野まもる

『明晰夢』注解 [2017/07/11]

夢は現実の影であるか、夢は現実の光であるか。


第一部(=明晰夢)[※]は、希望か、しからずんば絶望であって、前者の否定ないし破局が、直接、後者の肯定となる。我意の無制約な行使の可能性としての自由概念は、没落した。第一部において、希望とは結局のところ、現実において満たされない願望、夢を叶えることであるというように、現実の反転として規定されており、したがって不幸な、悲惨なものとしての現実が希望に先行して、これを規定していたのである。いまや(第二部では)、これは放棄されなければならない。願望とは、ひとたび満たされてしまうと、無に帰すような何かである。これは、ひとつの願望が満たされると、また別の願望が湧いてくるといったような、ありきたりな思想ではない。願望は、個別的にも、総体としても、欠如であって、欠如しているという感情、欠如に耐えることは苦である。苦からの解放がもたらすのは、無感覚であり、退屈である。希望は苦の消滅と共に根拠を失って没落する。希望は、主観的・心理的に規定されたものとしては、いずれにせよ没落する。絶望か、しからずんば退屈かの結末しかないからである。


※『明晰夢』は当初、『夢幻』と題される作品群の第一部をなす予定であった。これは後に廃案となり、第二部は分割されて『冥府』と『メシア』として独立した。


希望は客観的なものとして規定されなおされるが、これは二重のプロセスである。まず、絶望の根拠たる現実を前提するのではなく、前提を変えようとする。現実がそれ自体で希望の実現であるべく望むのである。そして、「神々の退屈」は、こちら側でも、現にあるものではなく、あるべきものとしての現実を志向する。この企図は本質的には政治的であるが、まさにそうであるがゆえに、要するに自分が現実世界の王ではないということによって、またもや現実とは分離した領域においておのれを実現しようとする。そのようなものとして、第一のものは、理論である。理論は、現実に対置されたものとしては、形而上学である。そして、形而上学的に規定された世界が表象される。この完全無欠の、最善の世界が、第二のものである。この世界は、またもや決定的な仕方で現実世界から遊離している。それは、あるべきものとしての現実ではあるが、現にあるものではない。それにもかかわらず、それは真理として妥当する。これは、プラトン哲学において、イデアが、「真なる世界、真実に現実的なる世界」として考えられるのと同じである。しかし、そのようにして観念的なものが実在的なものへと転倒することによって、現実的なものの闇がますます濃くなる。人間がヌーメノン(仮想的世界)の住人たるためには、人間であることをやめなければならない。しかし、人間であることをやめたとき、仮想的世界は、希望でもなんでもなくなってしまう。その世界と、その世界の住民たる人間ならざる者は、人間から見ると、もはや理解ができないものとなる。ここでもまた、現実との離反が、没落の決定的な原因となる。なぜならば、現実の現にあるあり方を規定している当のものこそが、人間の人間としての現にあるあり方だからである。人間が人間であることを否定すれば、同じことであるが、人間であることをやめることが成就されれば、人間にとっての善もまた消滅し、無に帰してしまう。人間であることの否定は、世界否定、世界から目をそむけることと同じく、虚無を帰結する。だがむろん、人間はどこまでいっても人間である。ここで、すべての理念と計画は無に帰したかに見える。実際そうなのである。これは、ニーチェが「神が死んだ」と言ったときに考えていたことと、同じである。(副次的ではあるが、次のことは、注記されてもよい。ニーチェ以後の時代において、形而上学を死守すること、それを必要不可欠なものとして示すということが、仮想的世界の異次元での実現にとって、この作家の理想にとって、決定的に重要なことであった。しかし、作家は、この敵対者の思想と同じ思想に、回り道を経て、最終的には到達してしまったのである。どういう原因で? おそらくは、形而上学の本質において、論理的に必然的に、最終的にはそうなってしまうのである。)いまや、われわれの手元には、生の無限の肯定という、手あかのついた、筋の悪い飛躍しか残されていないように見える。これが、ベルグソン、そしてサルトル以下実存主義者においていかに破滅的な帰結を持ったかは明らかである。約言すれば、哲学することは、もはや不可能であるということになったのである。こうなるともう、道徳は、理論以前の段階に逃避せざるを得ない。難しい問題に頭を悩ませることなく、無邪気に生きるという「幼児」へのニーチェ的憧れが強力に頭をもたげてくる。これは、一見したところ、かなり危険な思想である。ここでまたもや、現実からの逃避が新たに生じてくるのである。人間が現実から逃避することなく、現実のうちに安らっていたかにみえる「古き良き時代」が新たな理想となる。もちろん、そのような世界がかつてあったのかどうかは、疑わしい。理想と現実が融和した世界に、またさらに現実が現にあるものとして対立しているのである。これは、またしてもひとつの形而上学であり、抽象である。幼児のようにふるまう大人ほど危険な人間の在り方はない。これはニヒリズムの最も危険な、そして時代的に最先端の現象形態であって、現に今起こっていることなのである。こうして、われわれは現代の、われわれの時代に到達する。現在に到達する。現在の克服は、ニヒリズムの克服なのである。これが課題なのである。引き続いて起こることは、容易に想像できる。救世主の待望、新たなナポレオンの台頭。しかし、この記述、ないし「黙示録」は、われわれのさしあたっての課題ではない。新しい扉を開くのは、いま構想を述べたのとは別の物語である。


夢は人類の希望にして、現実を映す鏡である。


【付記1】地獄の描写に関しては、それが現実の一部分であることが明白である。それでは、現実と地獄とを分かつものは何なのか。結局のところ、神による道徳的な審判という思想を抜きにしては、地獄の本質を語りえないのである。まずもって、それは罪人の世界であり、罪人たちがその罪に応じて等しく罰せられる世界なのである。してみると、天国と地獄は、相互に分離された世界ではなく、一つの世界が同時に天国でもあれば地獄でもある。その人の行い次第で、世界は天国にもなり、地獄にもなりうる。(もしそうでないとすれば、善行も罪も犯していない人々、両者を同じ「割合」で犯した人々は、天国にも地獄にもその居場所がないであろう。天国でも地獄でもない場所が要請されなければならない。これは、明らかにおかしな主張である。)


【付記2】不穏な思いつき。ある人Aにとっては、Bは天国に行くに値する人物であった。Cにとってはそうではなかった。Aにとって存在する天国にはBがいるが、Cにとって存在する天国にはBは存在しない。天国からの使者「彼は、生前、あなたにとって善い行いをしました。あなたにとって、悪いことはひとつもしませんでした。彼は、あなたにとっては善人そのものでした。彼は、他の人々に対しても、あなたにとって善い行いをしました。たしかに、彼は、あなたが思い描く天国の住人でこそありましょう。しかし、あいにくわたしどものところには、彼はおりません」「ある者にとっての善という考え(功利主義の前提)がまちがっているのです。彼がそこにいないということが何よりの証拠ではありませんか。しかし、あなたはそれを信じないでしょう。だから、もっと控えめな表現で言います。あなたの考えは、わたくしどもの教えとは相いれないのです。あなたの遵奉する道徳は、せいぜいのところ、地上でのみ通じる教えであり、そこからは、いかなる異世界への道も通じていません。そこには、入口も出口もありません。そこには、異世界への扉など、ありはしないのです」



※※『夢幻プロット』より抜粋※※


不完全な明晰夢:夢うつつ。夢とも現実ともつかないどっちつかずの意識。こうして第二部の夢とも妄想ともつかない世界へと移行する。


・ストーリーは重層的に進行させる。

●思考と感情の不一致(下記、1、2に応じる)

暴漢の夢以後、女性に対して不信を抱いており、これが屋台の夢のつながったのだと解釈できるようにしてもよい。罪の意識は、頭では根拠がないものとして斥けられるが、夢の世界では実体化してくる。夢の中の人々が自分を変な目で見ている、自分に疑いの目を向けている(屋台の夢以後)。

注:ただし、以上は、こういう読み方もできるというくらいの重要性しか与えないほうがよい。そうした興味は、芸能人のスキャンダルを暴こうとするときの人々に熱狂に似ている。ある程度漠然としたままで放置されたほうが、そちらへと駆り立てられよう。しかしながら、

●理念(下記、3,4,5に応じる)

なによりも重要なのは、第二部への移行を準備することである。理念は超感性的なものである、ということを指摘することが本質的である。理念は、現実世界のコピーとしてあくまで感性界として描かれる世界の中では到達できない。

注:この思想はかなり難しい。しかし、まったく理解できないのは、かわいそうである。何かを持ち帰ってもらいたい。だから、

読者の異なる興味のそれぞれに対して、それなりの答えが用意されるほうがよい。だが、理念をはっきりつかんでおかなければ、第二部の世界がなぜあのようなものとして描かれるかは理解不能だろう。


・「限界の向こう側」の5つの意味:1.死(自殺による)、2.妄想(精神病による)、3.形而上学(カントの思想による。直接の意味はこれである)、4.メタフィクション(やや冗談めいたおまけ、物語というものの本質)、5.別の世界(第二部への移行)。


注:1.普通の人にむけて、2.医学の知識がある人にむけて、3.哲学の知識がある人にむけて、4.フィクションに詳しい人、あるいは作家にむけて、5.すべての読者にむけて。

1.死は、第二部の幻想(天国と世界)が死後の世界を描いたものではないかという疑いにつながっていく。

2.妄想は、第二部の夢と幻想の境界をあいまいにする。「医者として、彼を向こうの世界に行かせるわけにはいかない」岡田27。

3.形而上学は、第二部の徳と幸福の一致という理念につながっていく。

4.メタフィクションは、本来おまけのようなものであるが、第二部における、戯曲における観衆への語りかけの形式を正当化する。

5.別の世界は、これからの展開の予告として、「そのドアを開く」ことを暗示する。


【付記】

さらに次の意味が追加される。

・記憶

・信仰

・ループ


見覚えのある扉という表現から、「記憶」の扉を開くという展開が演繹可能である。続編(第三部?)として構想されてはいたので、5に属するが、過去は強い意味で「別の世界」であるわけではない。

「信仰」の世界もまた、それが現実世界のいかなる変革も要求しない場合には、主観的な変容に過ぎず(「自分は変わっても世界は変わらない。ただ変わったように見えるだけだ」)、別の世界を立てるわけではない。立てるとしても、そこに歩み入るわけではない。

最終的に作品の冒頭に置かれた詞によって、作品全体がループ構造をもつ可能性が示唆された。具体的には、「扉」と「きみ」という用語を介してである。さらに、不老不死であるということが、たんなる理想ではなく事実であるとすれば、主人公は現代の人間ではないかもしれない。つまり、ループは実在的であるかもしれない。このことは、以下の含みを持つ。科学主義的理想への急進的批判、つまり過酷な現実世界で生き続けなければならないこと(悲劇)※。ひとつの解釈としては、不死であるだけでなく、「不老」であるということが重要であり、自然な死を受け入れた友に対して、友の死後もなお、老年的超越に至ることなく、生き続けなければならなかった※※。

※これによって、きみは本当はいないかもしれないという謎めいた示唆がある程度合理的に解釈されうる。

※※このことは、あまりに隠された読み方であり、はっきりとした示唆が与えられなければならないかもしれない。


最終的に、作品の副題は「理想的世界への扉」として規定された。このことは重要である。

これはほぼ、「別の世界」が理想的世界であることが明記されたに等しい。

・フィクションとしてのフィクション:例えば、将来可能な(未知の科学技術の恩恵を被る)、理想的世界。おそらくディストピア的性格を持つ。

3と5は当初から完全に分離されていたわけではない。見覚えのある扉は、「いつか来た道」、あるいは、歴史上・思想史上、幾度も出現した、おそらく「死にかかっている理想」(「死滅しつつある異教の倫理」(ローゼンツヴァイク261))を想起させる※。第二部への草稿にはすでに次の要素が見出される。カント的、ストア的倫理学の形而上学。信仰(倫理的実践は神への信仰なしには不可能であると言うこと)。ディストピア的世界への未知の科学技術による架橋、つまり、理念的世界(ヌーメノン)を地上に引きずり下ろすこと。

※功利主義が拒絶されなければならない。


夢幻世界 すなわち、5つ、ないしそれ以上(のプレリュード)


・詩

・死への扉、すなわち虚無、あるいは死後の世界?

いわゆる臨死体験、『明晰夢』における自然の情景に似た描写? そこから、何らかの・・・橋?それとも川?

地縛霊。父親殺し。過去の罪を暗示するものか?

「船代はあるか」「急に旅に出ることになったので」

最終的には連れ戻される

延命措置、あるいは植物状態 自分はそれを上から見ている。自分はまだ死ぬことができない。いつ死ぬことになるのかもわからない。見知らぬ老人が「自分」の傍らに座っている。

※技術的な延命は、もしかすると無限に続く生を生み出すかもしれないという観念から、不老不死という観念へと連想によって移行したと解釈されてもよい


・夢幻世界への扉、すなわち夢、あるいは妄想の世界?

上記植物状態において見続けている夢と解釈されてもよい。

 ・天上の序曲

 ・神話的プロローグ 前作の謎解きであるが、たんなる余興である

 ・美の饗宴 「おそらく『目覚めた』その瞬間から、人間は生殖争いの渦に巻き込まれる」

  ※思春期以前の無垢な世界へと戻りたいという憧れがあるのかもしれない。その憧れによって次のステージに移行したと解釈されてもよい

・過ぎ去った世界、古き良き理想、あるいは故郷

 保守主義、右翼思想への批判

・道徳的に完全なる、最善の世界、すなわち将来可能な理想的世界、ユートピアか、それとも(ディストピアか?※)

「人類の理想は共産主義などではない」「いまだかつてこの地上で実現されたことがなかった、偉大なる古き教え。プラトンからストア派を経てカントにまで至る、異教の道徳哲学。完全無欠の道徳的原理、それは、道徳的な成果主義である。正しき人にこそ幸いあれ。この教えは、「徳福一致」とも呼ばれるが、これは誤解を招く呼び名である。道徳的にふるまうことは、幸福であるための必要条件にすぎない。動機が不純ではダメなのである。この教えの一番の要点は、幸福になることが行為の目的とされては絶対にダメだということなのだ。」「幸福になりたいと願わないことが幸福であることの必要条件だなんて、矛盾している」道徳ポイント=幸福ポイント。「そう、まず無理なのです。現状では、ひとにぎりの聖人と呼ばれる人たちだけが、善行の対価としての幸福ポイントを独占しています。ところが、彼らは自分の幸福になんて興味がないから、成果をおしげもなく分け与えてしまうのです。そうやって、心の貧しき者どもは、救いを得る。社会はますます宗教的な様相を帯びてきますが、誰もかれもが禁欲的というわけではありません。努力しているふうを装いますが、自分にはできっこないとあきらめているんです。」「ひとつの重大なパラドックスは、こうです。いいことをすると気持ちがいいのですが、気持ちがいいことを喜んではいけない。」「宗教なんて入る余地がありませんよ。だって、神のために善行を行うのでは、幸福にはなれませんから」「誰もかれもが幸福になるために神を信じるわけではなかろう」「幸福発生装置の導入以後、誰も宗教を信じなくなったことは事実です。そして、このことは、ほとんどひとつしか解釈の余地がありません。要するに、期せずして、証明されてしまったのですよ。幸福への望みなしには、誰も神なんて信じないということがね。」

  左翼思想への批判 監視社会への警鐘でもある。



 ・自己との対話

※最高善の思想を擁護したかったのだが、その具体的なイメージがユートピアであるとは到底思えない。ここにある呪縛。その正体は何なのか。(もしかすると、批判・否定したいと思っている思想によって批判自体がその前提からからめ捕られ、呪縛されてしまっている?)


・記憶の扉? あるいは、神の視点から見た現実世界の記述

他人の思考が声となって聞こえてくる。もしかすると、主人公の過去かもしれない。

前衛主義に対して、常識道徳を基礎づけたいと思っている。信仰の必要性を強調することになろう※。

「わたしはおまえに命じる。『命ある限り、生きよ』と」

※…右と左、そのいずれも否定してしまうと、その対立を超えた、無垢な状態に「紛れ」を求めざるを得ないのである。ここにあるのはニーチェそのものである。

故郷の説に似ているが、ここでは、プリミティヴな思想としてあるわけではない。


・終局 刑務所での作業中の夢、あるいは退屈しのぎの空想?

「おい、起きろ。おまえ、いま眠っていただろ」

「おまえにはこの作業は退屈かもしれんが」「やることはきっちりやれ。ぼさっとすんな」

「……すみません」

 ※小説とは結局のところ作者の空想以外の何物でもないことをそっと示唆して、あっけなく終わる



古代の神殿のようなところ。岩でできた寝台の上に、ほとんど骨と皮だけになった男が横たえられている。


すまないが、誰か水をもってきてくれないか。喉が渇いて死にそうだ。

わが主よ。どうして御命が絶たれたりいたしましょう。・・・一切の水と食料を絶ち、・・・わたくしども死すべき者どもの苦痛を一身にひきうけられたのです。御姿は、どんな衣装より高貴であり


だったらどうしてあなたはそんなに肥え太っているのか。言っていることとやっていることが、まるで逆ではないか。


ああ、わが主よ。どうか、眠り続けてください。万事はうまく行っております。地上のことは、わたくしらにお任せください。主はいと高貴なる眠りの内に、主のしもべどもに安らかなる夢を見させたまわんことを。主はわたくしどもの救済の星であらせられなければなりません。


霊薬(ファウスト)。

これによって、喉の渇きは癒えよう。しかし、その杯に入っているのは、毒ではないのか。あなたがたは、わたしの苦しむ様が見たいと言うのか。この堅い寝台の上で、苦痛にのた打ち回る様子がそんなに見たいと言うのか。そうしてわたしだけを苦しめておき、自分たちはすべての苦痛から免れる、その口実を得ようと言うのか。


おお、わが主よ。どうか、主のしもべどもの願いを聞き入れたまえ。


魔法の炎で信者どもを焼き尽くす。


「とりあえず、なにか飲んで、食べたいな」

「それなら、外に行きましょう。近くにいい居酒屋を知っています」


高貴な嘘は、いつか破綻する

厚い氷が溶けていくように、それは徐々に人々の心の内に起こったので、いつという質問には正確にはお答えできませんが、おおむねそれは19世紀末から20世紀初頭にかけて始まったとされています。

溶けたと思ったら再び凍りついて、その繰り返しで、いずれは完全に溶ける日もくるのでしょうが。それはまだまだ先のようです。


いまは25世紀の終わり。もうすぐ26世紀にならんとしています。


嘘だな、それは。ぜんぜん変わっていないじゃないか。街の様子など、以前のままだ。いや、それどころか、むしろずっと過去にいるような気さえする。そうでなければ、この無性に懐かしい感じは、説明がつかないではないか。


人間は生来、保守的ですから。帰巣本能とでも言いましょうか。右往左往して、疲れたあげく、帰って一息つきたいと願うところが、とどのつまり、その人の故郷なのです。掃き溜めの中に生まれ育ったとして、誰がそこに帰っていきたいと思うでしょうか。ちりあくたを払いのけ、古いものを新しくつくったのです。


おれの故郷は、田園が広がる穏やかな田舎だったが、いまではもう、それはおれの記憶の中にしか存在しなくなってしまった。都市化の波がすべてを押し流してしまったのだ。生活は便利にはなったが、

街を歩いていると、見知らぬものたちの中に、過去の遺物が点在するばかりで、記憶の迷路の中に迷い込んだ気さえする有様だ。


やめろ。その子供をおれから遠ざけろ。とても見ていられない。


人間が死ねば無になるならば、無こそがおれの故郷だ。

しかし、おれはそこに帰っていきたいとは思わん。


自分が現にそう望んでいるということ以外、裏付けを持たない願望は、

断じて希望などではない。ただの欲望だ。

ここには、そうあってほしいという欲望以外の何物もない。

魂は、凍り付いた外皮に閉じこもって、外側へと一歩も出ていない。


やれやれ、どうやらこの辺りが潮時のようです。

時期が来たら、またお目にかかりましょう。(退場)


懐かしさに浸って、なんでもかんでも正当化されたように思うのは、大きな間違いだ。

それはかつて世界がそうであったということの確認にすぎん。

(そうであったという事実から、そうあるべきだという判断は導けない。)

これは悪魔の仕業。悪魔の誘惑、まやかしにすぎん。

(蛇が光から色を借りるごとく、真実在から仮像をかりつつ、人間を戯言に引き込もうと努める、あの力の一部だ。)

打ち破れ。この世界は偽物だ。


そのとき、世界は、鏡の表面に張り付いたものであるかのように、

鏡像は、それを映し出す鏡もろとも、目の前に粉々に砕け散った。


ぼくはそのドアを開いた。どのドアを? そのドアをである。

とにかくぼくはそのドアを開いた。

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