シャ・ノワールの水曜日

霧嶌十四郎

Ⅰ.水曜日のアールグレイ

 アイス・ティーはアールグレイだった。

 カプチーノを愛しているかもしれない君に紅茶の話をするなんて、無粋ぶすいだろうか。それでも街角のカフェレストランで注文した食後のアイス・ティーがアールグレイだったことは、ちょっとした事件なのだ。

 良く晴れた真夏の水曜日は火曜日と変わらずに猛暑で、僕の注文は先週と変わらずボンゴレ・ロッソ。それなのに、丸底の背の高いグラスの中でほんの少し揺れるアイス・ティーがアールグレイというだけで、今日の予定がまるごと、つまり世界は変わってしまったのだ。


 ――そうか、彼は、だからアイス・ティーを頼むのだ。


 僕が「水曜日のカフェ」と呼ぶ「シャ・ノワール」は小柄な女性の店主が一人でりしている街角の小さなカフェレストランだ。流行っていると言うほど流行っていなくて、さびれていると言うほど寂れてもいない。洗練にはほんの少しもの足りないが、子ども部屋のように散らかってもいない。たとえば、シャンゼリゼを澄まし顔で歩く黒猫の気分なのだ。ほんの少し気取った小綺麗な日常。だから水曜日は、アイロンをかけたシャツを着たくなる。


 店の一番奥の四人掛けのテーブルに、それなりに小綺麗なTシャツと夏向きの涼しげな半ズボンにビーチサンダルを合わせた青年が小一時間ほど居座っている。僕と彼とは少なくとも顔見知りで、僕は彼を「アイス・ティーの男」と呼んでいる。彼が僕をどう呼んでいるかは知らない。


 アイス・ティーの男が水曜日のカフェに現れるようになったのは梅雨つゆの始まり頃だった。彼はたいてい、僕がランチメニューを眺めているあたりにやってきて、一足先にアイス・ティーを注文する。彼はひじをついて窓の外を眺めながらアイス・ティーを待ち、アイス・ティーが届くと一口飲んで、また外を見る。僕は彼にアイス・ティーを届けた帰りの店主を呼び止めてボンゴレ・ロッソと食後の紅茶をミルク付きで注文する、いつもだったら。


 おせっかいな僕はノック式のジェル・インクのペン先をカチリと引っ込めて胸ポケットに差し、右手にアイス・ティーを、左手に手帳を持って席を立った。そしてきわめて友好的に、柔和にゅうわな表情でアイス・ティーの男の斜向はすむかいで足を止める。彼は窓の方にそっぽを向いたまま、僕のことを気に留めなかった。彼のアイス・ティーの氷はほとんど溶けて、冷たいアールグレイは金色の夕暮れのような色に変わっていた。


「君がなぜアイス・ティーを注文するのか、僕なりに考えてみたんだ」


 二十代半ばを過ぎた年頃の青年はちらりと僕をにらんで自分のアイス・ティーに視線を落とした。


「君は世界を変えようとして、だからアイス・ティーを飲んで窓の外を見る。どんな風に変わったか、確かめるためだ。そうじゃないかい?」


 僕は不審者と思われぬようつとめて人のさそうな声色で話しかけながら椅子に座り、ほとんど飲み切って氷が残るばかりのグラスをテーブルに置いた。アイス・ティーの男は僕の氷に視線をやってから、自分のグラスをつかんで薄くなったアールグレイをゴクゴクと飲み干してしまった。

 

 彼は左手にゴツゴツしたフォルムの黒いスポーツタイプのデジタル腕時計をしていた。まだほとんど新品のようだった。ひげも綺麗にってあるし髪も短く切りそろえられて、彼はア ールグレイレイ伯爵の名にふさわしく、小ざっぱりしたおしゃれな男に見えた。

 

「……残るのは、空のグラス」


 彼は飲み終えたグラスを静かにテーブルに置いて、にやりとひきつったように笑った。


「もう一杯?」

「いえ、もう、十分」


 立ち上がったアイス・ティーの男は想像していたより小柄だったが、姿勢は良かった。カードで会計を済ませる彼の背中には自信と物憂ものうさが同居している。レトロな響きのドアベルをコロンコロンと鳴らしながら、青年は去って行った。

 

「夕立が来そうですよ」


 空のグラスを回収にやって来たオーナーが僕に言う。外を見ると、確かに怪しい雲がゆっくりと迫っていた。残っている客は僕だけだった。

 

 「来週彼が来たら、おかわりのアイス・ティーを出してやってよ。そうだ、パンケーキを追加しよう」

「もう十分って言ってましたよ。はちみつとメープルシロップは?」

「彼は空のグラスなんだ。チョコレート・シロップの気分だね」


 彼女は手に持ったグラスを少し見つめてから「少し待ってくださいね」と厨房へ消えて行った。

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