第5話 トラの倒し方

 道場は本当にファミーズの裏にあった。高い生け垣に隔てられた古色蒼然とした建物で、私はずっとお寺か神社だと思っていた。表に回るといかめしい門があって、木の看板がオレンジ色の光で照らされている。わけもわからずに一礼して、こわごわと足を踏み入れた。


 飛び石の続く苔むした庭で、よく手入れされた草花が、石燈籠の火明かりに影を揺らしている。出し抜けに、ポチョン、と鳴った音に驚いて振り向くと、小さな池で緋色の鯉が泳いでいた。


「こんばんはー」


 大きな靴箱にスニーカーを入れて、私は木製の戸の外から挨拶をした。返事がないので、たのもー、と呼びかけるジョークを思いついたが、もちろん思いついただけだった。


 続いてノックをしてみる。と、静々とドアが開いて、小さな道着姿の男の子が現れた。黄色の帯を締めているが、階級も戦闘力も私にはわからない。聖徳太子の冠位十二階では、たしか真ん中くらいだったと思うのだけれど。


「こんばんは」


 私のお腹ほどの高さの少年は、私に向かって合掌した。

 え、という声を呑み込んで、こんばんは、と頭をさげる。なぜか手練れだと思われたくて、私はジャッキー・チェンのように、グー&パーで拱手を返した。私がどこの誰なのか、そんなことを訊くこともなく、少年は私をなかへ招き入れた。


「こんばんは!」


 広い板の間に入った瞬間、十数名の練習生が一斉に動きを止め、私に向かって合掌した。なるほど前に立って指導をしているのが、病院で会った川上くんだった。てっきり小さな子供相手に教えているのだと思っていたが、練習生のなかには、すでに身体のできあがった屈強な中高生(?)の姿もあった。さすがに拱手する気にはなれなくて、わたしは、こんばんは、と頭を下げた。


「あの、急に押しかけて大丈夫でしたか?」 

「平気ですよ」川上くんはにこやかに言った。「もうすぐ全体練習が終わるので、申しわけありませんが、少し後ろで見学なさっていてください」


 私は頷いて、へこへこと会釈をしながら端を通った。茶帯を締めた青年が、どうぞ、とパズルのピースみたいな四角いマットを敷いてくれる。私はお礼を言って正座した。私の横には、大きなサンドバッグが吊りさがっていた。壁には打たれたら骨を砕かれそうな樫の棒に、積み上げられた防具とミット……。なのに正面には、お寺のような祭壇があった。謎の言葉が記された掛け軸に、瞑想する僧の像、妖しく揺らめく蝋燭の火。


「こんばんは」

 

 縁側へ続く後ろの戸から、一人の老人が入ってきた。老人とは言ってもかなりの長身で、作務衣姿の恰幅もいい。もしシルエットクイズを出されたなら、私はミルコ・クロコップと答えただろう。あるいはヒクソン・グレイシーとか。


「道場長の新藤です」年老いた先生は私の横に腰を下ろした。

「岩井です。急に押しかけてすみません」

「滅相もない。いつでも誰でも大歓迎ですよ。岩井さんは、武道や格闘技の経験はおありですか?」

「中学の授業で柔道をやったくらいですね」

「柔道ですか。少林寺にも投げ技はありますが、少し勝手が違いましてね」

 

 先生は懐からお茶のペットボトルを出して床に置いた。

 練習生たちは川上くんの号令に合わせて、型のようなものを繰り返している。


「岩井さん、このペットボトルを倒してみてください」

「倒す?」

 

 先生はこくりと頷いた。私は戸惑いながら、フタのあたりをそっと小突いた。ペットボトルは音を立てて転がった。


「結構です。それでは立ちあがって。今度は私を倒してみてください」

 

 先生は私を立たせると、自身も目の前に仁王立ちした。


「……え?」

「柔道の技を使ってもいいですよ」

 

 私は、失礼します、と断って、こわごわと大外刈りをかけようとした。が、対格差はあるわ技は下手わで、まったく倒すことができなかった。先生は、ははははは、と陽気に笑うと、


「ペットボトルは倒せるのに、生きた人間は倒せない。両者の違いはなんだと思いますか?」

 

 おもむろに私の手首をつかんでひっぱった。

 私はバランスを崩してたたらを踏んだ。


「そう、人間には足がある。転びそうになると足が出る」

 

 先生は私の手首をつかんだまま、上下左右に揺さぶった。私は必死にバランスを取った。


「そうそう! 人間には関節がある。半端な崩しでは吸収される。つまり人間を倒すためには、関節の遊びを取り、足の出ないほうに崩してしまう。関節と足を封じてしまえば、人はペットボトル同然に倒れる」

 

 は? と私は思った。関節と足を封じてしまえば――、という説明は、牙と鉤爪さえ封じてしまえば、トラなんて子ネコ同然に倒せる、というのと同じくらい滅茶苦茶な理屈に思えた。が、次の瞬間、私は魔法にかけられたように床に突っ伏していた。何をされたのか、私にはまったくわからなかった。

 

 先生が私の手首をつかんだまま起こしてくれる。私は立ちあがって、咄嗟に流れ込んでくる印象を見極めようとした。私は触覚や声や人の言葉に、色にも似た形容しがたい印象を覚えることがあった。それは決して言語には置き換えられないけれど、相手を理解する上で役に立つ感覚ではあった。


「……ん?」

 先生は目を眇めて私を見つめた。「岩井さん、ひょっとして見える人ですか?」


「え?」

 私は思わず訊き返した。この感覚を気取られたことは今までに一度もなかった。


「これで基本を終わります」

 川上くんが前で言って、練習生たちがわらわらと散る。

 先生は川上くんに向かって、

「優実、岩井さんに簡単な技を教えてやって」

 そう言い置くと、軽く手をあげて出ていってしまった。


「優実って言うんですね」

 私はそばへ来た川上くんに言った。彼は道着姿で、名前入りの黒帯を締めていた。使い古されているのか、結び目の端が白く擦り切れている。


「そう言えば岩井さんは?」

「テイラーと言います」

「嘘ですね」

「志帆です」

「そうでしたか」

 

 いい名前ですね、岩井さんのイメージに合ってる気がします、川上くんはそう言ったけれど、実際に発音したりはしなかった。


 彼はそれから、私に簡単な護身術を教えてくれた。指先で素早く相手の目をはたく極悪非道な技に、足の甲で相手の股間を蹴りあげる極悪非道な技、至近距離から相手の顎を掌底で打つ極悪非道な技……。付け焼刃には違いないが、実際に習ってみると、ずいぶん強くなった気がするものだ。あとは家に帰って『はじめの一歩』でも読めば、私は人類最強になれるかもしれない。


「岩井さん、ちょっといいですか?」

 ノリノリでミットを蹴っていると、先生が顔を出して私を呼んだ。川上くんに促され、私は裸足のまま縁側へ出た。


「あとは任せていいか?」


 先生が尋ねると、川上くんは頷いて部屋へ戻った。私は先生に促され、隣に足を投げ出して座った。先生は昔ばなしを聞かせるように語りはじめた。


「我々は心と体を同時に鍛えます。心と体は、分かちがたい一つのものです。だから体を鍛えれば心が、心を鍛えれば体が、自ずと統制できるように相成る。それは少林寺拳法に限らず、あらゆる武道が、あるいは道を行く者たちが、追い求める普遍的な境地です。普遍的であるが故に、生まれながらに知る者もいる」

 

 先生は息をついて先を続けた。


「岩井さん、あなたはいい眼を持っている。花を見れば花に、蝶を見れば蝶に、空を見れば空となる。彼を見て我を知り、我を見て彼を知る。我々はそれを〈心眼〉と呼びます」

「心眼?」

 

 先生は、うむ、という感じで頷いた。


「私がそれを?」

「気づいているものと思いましたが」

「何かこう、尋常ならざるものがあるとは思っていました」

 

 私はシリアスなトーンでおどけてみせた。

 先生は少しも笑わずに頷くと、


「優実を助けてやってください」細い目を見開いて言った。

「助ける?」

「あいつのなかには何かがある。自らの尾を呑み込む蛇のような。そいつを見つけてやってほしいのです」

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