第3話 哲学カイガ―

 私を助けた彼は川上くんと言って、奇しくも中学時代の初恋相手と同じ名だった。どことなく雰囲気も似ている気がしたが、ただそんな気がした、というだけの話だった。


 男女で喫茶店など行くのも気恥ずかしく、そうかと言って、このまま別れるにはあまりに鮮烈な出会いだったので、私たちは学校が大好きな放課後の学生みたいに、精神科の待合室に居残っておしゃべりをした。


「少林寺って、少林サッカーのあれですか?」


 川上くんは私と同い年で、私と同じ病気の精神障害者だった。仕事はしていない、と自嘲気味に言ったが、よくよく聞いてみると、市内にある少林寺拳法の道場で、週に二度、子供たちに拳法を教えているらしかった。


「少林サッカーのあれとは、違いますね」

 川上くんは冗談めかすでもなく淡々とこたえた。

「へー」

「高校時代はサッカー部でしたけど」

「ほら!」

 私たちはそんな感じで、初対面にしては内容の薄すぎる会話を楽しんでいた。


「岩井さんは何部でした?」

 私が彼を川上くんと呼んだように、彼は私を岩井さんと呼んだ。

「高校のときは、銃剣道同好会」

「どこの高校?!」

「嘘です」

「なんだ」

「中高大と、ずっと美術をやってました。水彩です」

「もしかして、美大のご出身とか?」

「哲学科でした」

「嘘?」

「本当です」と私は笑った。「ショウペンハウアーの肖像画とか描いてましたね」

「嘘っぽい」

「桜餅のイデアの絵とか、ペシミストの見る夢の景色とか」

「哲学絵画ですね」

「少林サッカーならぬ」

「哲学カイガー」

 あははは、と私たちは笑った。実際には、ふふふ、という感じだったかもしれない。


「少林寺は長いんですか?」

「今年で十五年になります」

「嘘?」

「本当です」と彼は言った。「病気がひどかったころは、不登校なのに道場に行って、取り憑かれたようにサンドバッグを叩いていました」

「私も平日に『いいとも』とか見てよく死にたくなったな」

「わかる!」川上くんは軽く吹き出して笑った。「僕は『はなまるマーケット』と『おもいッきりテレビ』にも死の匂いを感じる」

「そうめんも鬱ですよね」


「あの、また会いたいです」藪から棒に言われて、

「はい?」思わず間の抜けた声が出た。

「……失礼しました」

「嘘ですか?」

 私がちょっとだけちょけた感じで訊くと、


「岩井さん次第です」川上くんはおもむろにふわりと立ちあがった。「もし少林寺に興味があったら、月金の19時に道場へいらしてください」

「どこにあるんですか?」

「ファミーズの裏」

「近」

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