第29話「本当に、楽しかった」

 西の空がけていた。

 真っ赤に染まった空の色との対比でもはや真っ白に見える太陽が、水平線とのせま距離きょりを真っ黒にあぶりながら落ちようとしている。


 真正面から受ける、強烈な茜色あかねいろの光線。そのまぶしさに目を細め、ボクたちは波打ち際を歩く。打ち寄せる波が濡らす黒い浜に足跡を刻み、数呼吸の後にそれを消される。


 そんな無限の繰り返しの中で、一歩一歩、く。


「楽しかったねー!」

「そうだね……」

「今日一日で色んなことしたね」


 海側を歩くしおりの足が、何度も何度も波に洗われる。


「二人で二人乗りの自転車に乗ったでしょ。ホットドッグを食べて、海まで走って、泳いで、スイカ割りして、ボートに乗って、サメにおそわれたわ」

「とんでもないサメだったね」

「あはは」


 そう。とんでもないサメだった。


「男の子を海で拾って、海の家で美味おいしいものをいっぱい食べて、また泳いで、子どもたちとビーチバレーして、仲良くなって、一緒に乾杯までしたわ」

「そうだね……」

「本当に楽しかった!」


 白い肌を夕日の赤に照らされた彼女が、眩しく微笑ほほんだ。太陽の光を直視する以上に目がくらむような笑顔だった。

 その笑顔が本当にうれしそうで、本当に無邪気な分だけ、ボクの中に罪悪感が生まれる。


「本当に、楽しかった……」


 これで、本当によかったんだろうか……。


「ね」

「えっ」


 胸に渦巻いた重い感情の濁流だくりゅうに飲まれかけていたボクを、その声が冷ました。


「えいっ」

「わあっ!」


 握り合っていた手に力が込められ、腕が突然にぐいっと引っ張られる。心がふらついていた分足元が揺らいでいたボクは簡単にバランスをくずし、波が白い歯を立て続ける海に向かって千鳥足を踏んだ。


「そーれ!」

「ひゃうっ!」


 女の子の力にあらがえず、ボクは暗い色を見せている浅い海に顔から飛び込んだ。硬い海面が音を立てて顔と胸にぶつかり、顔が沈んで鼻と口に海水が入ってくる。


「けほ、けほけほ」


 頭から海水をしたたらせてボクは立ち上がる。


「び、びっくりしたなぁ」


 海水が染みた鼻の裏がひりひりと痛い。口にも入った分を少し飲んでしまった。


「だって、ふたりとも汗だくで砂まみれなんだもん! 洗わなきゃ!」


 彼女もまた、自分から海に飛び込んだ。腰まで届かない浅瀬に体をするんと潜らせ、クロールで泳ぎ出す。

 ゆるい円を描くように短い距離を泳ぎ、海面から彼女は身を起こした。


「夕方になると、やっぱり冷たいね」


 背を伸ばして浜に上がる彼女の髪から、夕日の光を受けてきらきら、きらきらと輝くしずくがいくつも落ちる。

 それが宝石の粒をいているようにしか見えなくて、ボクの心が一瞬、詰まった。


「――これで、泳ぎ納めね」


 最後の波で踵を洗われ、栞は、海から離れた。


「キミ……」


 パラソル下のビーチチェアにかけていたタオルで、彼女が体を拭い出す。ボクも彼女の足跡を踏むようにして、もう意味をなさなくなったパラソルの下に入った。

 少し、風が出ている。陸から海に吹く乾いた、冷たい風だ。


「体が乾くと、ちょっとべとつくね……髪の毛も……」

「そうだろうと思って、真水を用意しておいたんだ」


 クーラーボックスから大きいペットボトルを取り出して、ボクは栓を外した。


「これで髪を洗えばいいよ」

「わ、用意がいいんだ」

「洗ってあげる。頭を下げて」

「ありがとう」


 しゃがんだ彼女が頭を垂れた。払われた髪の下から現れたうなじの線の色っぽさに少しドキッとさせられる。一瞬の動揺を飲み込んで、ボクは彼女の髪に真水をかけた。

 髪の塩気を少しでも洗い落とし、濡れタオルでふたり、体を拭く。


「一本だけジュースが残ってた。飲む?」

「よかったぁ。少し海水飲んじゃったの。飲む飲む!」


 最後の一缶のタブを開ける。ボクの手からそれを受け取った彼女は、にこりと笑って口をつけ、飲み始めた。

 こく、こく、こくと彼女の喉が鳴る。ボクはその様を見守る。


 もう、彼女から一秒も目を離したくなかった。

 あと何秒、彼女を見つめていられるか、わからないんだから――。


「ああ、美味しかった。――はい」


 グレープジュースの缶を口から離して、栞はボクにそれを差し出した。


「まだ半分残ってるよ」


 ボクは缶を受け取った。

 彼女が口にした、最後の飲み物の缶を。


「ありがとう……」


 彼女の言葉通りその中身は半分残っていて、それを飲んだ分だけボクの目から同じ量の涙が零れそうになったが、それはこらえた。


 まだ、泣く時じゃないから――。


「じゃあ、シートを出して、座りましょう」

「うん」


 波が打ち寄せるぎりぎりに二人でビニールシートを広げ、ボクたちはふたり、そこに並んで腰を下ろした。


 正面には、深い群青ぐんじょうに挟まれて敷かれた黄金の絨毯じゅうたんのように輝く海。

 彼方には黒く焦がされた太い水平線。オレンジ色に燃え上がる低い空。

 そして――ホワイトゴールドにきらめく、拳ほどの大きさに見える確かな夕日。


 ボクたちは肩を寄せ合って、それを見つめた。

 沈むことで全てに終わりを告げようとする、最後の灯火を。

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