病室と少女

 真っ白な壁に、真っ白な天井。鼻腔をつんとつく消毒液の匂いに身動きの取れない体。

 此処が病室だと気づくのに光岡はすこし時間がかかった。見たことのない清潔感あふれるシーツにふかふかのベッド。布一枚の隔たりの向こうには光岡と似た境遇か、それともそれ以上の人間が横たわっている。

 そう思っていた。

 光岡は勢いよく隔たりを開けると、空のベッドしかなかった。

 他もそうだ。誰もいない。

 空のベッドが自分の分を含めて四つ。

 たまたまなのか、はたまた仕組まれたものなのか。

 光岡は当然前者だ。

 たまたま放り込まれたのだと思っていた。

 厨房の頃はジジイどもがいる病室でひと暴れしたものだが、こうも静かだと暴れる理由が見つからない。

 刺激物がないこの病室に光岡は一刻も早く脱出したかった。

 生きることも死ぬことも許されない空気は、光岡にとってとてつもない苦痛なのである。

(美人なナースさんがお世話してくれるなら話は別なんだけどなぁ)

 動くことを渋る体を無理やり起こして、ペタリと足をつく。冷たい床に裸足のまま、よとよちと廊下に出る。病室というより監獄のような自動開閉ドアに光岡は面食らった。内側からでは開かないのだ。

 頭にきた光岡はドアを蹴るが打ちどころが悪かったのかひぃひぃ言ってのたうち回っている。

 なにくそと思い光岡はガンガンと乱暴にドアを叩くが、開かない。

 なまむぎなまごめなまたまごーっ!

 ちんからこいっ!

 あばらんちゅらーっ!

 訳のわからないことを叫んで息切れを起こした。

 すぅと、光岡は淡い廊下の照明を浴びた。

「?」

 耳が痛くなる廊下だった。

 よく耳を澄ますと空気清浄機のファンが低く唸っている。

 左右を見ても似たような景色。

 無機質で溝に入ったゴム性の手すり。

「あっ」

 ナースコールの存在を思い出した光岡は己が横たわっていたベッドに近づき、コールボタンをグッと押し込んだ。

 あとはナースが来るのを待つだけとなった光岡は窓があることに気がついた。

 光岡は窓に近づき、見下ろす。

 喧騒と欲望に身を任せた街に、光岡は見覚えがあった。

「横浜?」

 誰かが、立っている。

 自分より二回り小さい女の子だ。

 ばっと振り返ると、そこにはなにもなかった。

 人の気配もパタリと消えている。否。初めからそこには何もなかった。

 光岡は廊下を覗く。

 誰もいない。何もなかった。

 このまま誰かが来るのを待つか。

 自分の心臓の音がうるさく感じる。

 ばっ、と。光岡は振り返る。何もない。自分が映るガラスだけ。

 そしてまたばっ、と振り返る。

 見えないところに自分んが想像する一番嫌なモノが肩を掴んできそうな気がして、油断すると首を掻っ切られそうな気がして。光岡は、せめて何か防御するものがないか探した。

 備え付けられている収納箱は空っぽ。

 カーテンは、視界を塞ぐだけで余計に恐怖心を煽る。

 掛け布団だ。

 これなら後ろから刺されても殴られてもダメージを軽減できる。おまけに体温もこもるから冷えた体には優しい鎧だ。身動きが取れにくいのが難点だがいざとなったら相手の視界を塞ぐこともできる。

 光岡は布団を被り、決意した。

 震えが止まらないがじっとして怯えることは光岡にとっては屈辱極まりないことだった。

 光岡は、歩き出す。

 怯え切った顔に壁から背を離さずゆっくり、ゆっくりと悴む両手を擦りながら進む。

 終わらない螺旋階段。

 墓場のような安置室。

 似たような景色が続く病棟。

「無限地獄かァ?」

 沈黙の暴力。

 何かをしないということも立派な暴力であることを光岡は悟りつつあった。

 角に差し掛かった光岡。

 何かを踏んだ。

 何かが流れている。

 光岡は左足を上げて、足の裏を覗く。液体だ。透明の。しかも嫌というほど嗅いだツンとくる匂いだ。

「消毒液?」

 視線を上げて、肩を上下に揺らした。

 誰かが立っていた。

 すらっとした背筋。豊かな胸。あの嫌味ったらしい余裕の笑みは光岡がよく知っている顔だ。

 バーで光岡を刺した女だ。

 光岡は飛び出し、少女に食ってかかる。

 少女を押し倒して、馬乗りになり身動きを拘束する。しかし抵抗の意を示さない少女は人形のように光岡を瞬き一つしないで眺めていた。後頭部からゴッと鈍い音がしたが構わず光岡は叫ぶ。物理的な貸し借りはこれでなくなったと思った。焦る気持ちが先行した光岡は恥も尊厳も忘れて慌てて問い詰めた。

「テメェなんで俺のこと刺しやがった!」

 女は答えない。

「女子供でも容赦しねぇぜ」

 女は答えない。

「こんな体でもな、お前を犯すことなんざわけねぇんだ!」

 光岡は怒声を浴びせるが女はピクリとも動じない。

「聞く、聞け!」

 光岡は啖呵を切った。

「お前は誰だ!」

 曖昧にうなづく少女に激昂しかけるが、様子が変わった。

 笑い始めた。心底幸せそうな低い笑い声を上げたのだ。

 光岡が彼女の瞳を覗くと、おかしなことが起きた。

 連続する風景に

糸を引く唾液に脳みそが絞られそうな頭痛に光岡は立てなくなった。

「クソ。神経ガスか?」

 嘔吐をもよおしながらも

「精神攻撃……サイコショック」

 一種の催眠術

平衡感覚を狂わせる。激しい頭痛、吐き気、痙攣が光岡を精神的瀬戸際まで追い詰める。

 少女は静かに瞳を閉じる。


「ぷふぁっ! はァはァ……」


 跪き、光岡は見上げる。

 冷たい、小さな体の少女は老婆のようなしわが得た声を出した。


「……あの子の名前は、8419219号。私の自慢の息子」


「……あんた俺を殺しに来たのか?」


「違う。頼みに来た。二人っきりで。静かな場所で」


「何が目的だ」


「あの子を葬ってほしい」


「……そりゃいい。無駄な二酸化炭素が消えてせいせいする」


「あの子は死を恐れている。

今の私ではきっと逃げて東京の地下に住み着く。そうなったら精神はどんどん退化していき、寒さを凌ぐために剛毛が全身から生えて、大きなエネルギーを摂取するためにヒグマより大きな体になってに人を喰らう。

それはあの子の本望ではないはずだ」


「……あんたも、あいつと同じようにガキだな。俺もだけど」


「ベッドから三十秒離れただけで死んでしまうあの子がようやく生きることができる。ようやく人間らしく死なせることができる」


「けっ。大人ってのはいつもそうだ。誰もテメェなんかのガキになんざなりたくねぇんだよ」


「人類は生まれた瞬間に人類を攻撃するように作られている。

 たとへ話し合いでもそれは変わらない。

 人は水にも油にもなり得る。

 同じ種族でも、利己的な遺伝子が絆を中和したとしても根本的には変わらない。

 終わらない暴力が私たちを自然界に導く。

 寄生獣と呼ばれようとも自然の異端者である我々は自分の首を絞める権利がある。

 私はそれに従わなければならい、と」


「私の実験のテーマは自殺への恐怖心を軽減すること。

 子供の恐怖体験を数値化させてギロチンのような合法的に手に入る薬を開発していた。

 けど実験に嗅ぎつけた政府が東京湾の海上プラットフォームを奪取。私の実験データは全て消却された」

私は、自身の身体を改造して今の姿を手に入れた。そして、医者という地位も確立した。

 亡くなった遺体から様々な実験を繰り返し精神科学、つまり魂の抽出に成功。魂とは脳が特定の電気信号を受け取って反射する記憶だということ。

 人の歩く、呼吸する、えとせとら。

 そもそもの遺伝子の記憶を書き換えることによってあの子は歩くことができた。

 ただ、自我は他人の魂と融合し、自分を自分と認識できなくなった。攻撃するかされるかで判断している。

 果ては、空間をねじ曲げる超能力にも目覚めた。

 軍に発見されれば直ちに処分。そして、蘇生され私と同じように殉職した兵士の記憶を書き込み、前線に送るだろう」


「おーこわ」


「……あの子を葬らなければ」


「あんたあのガキの母親だろ。弱みくらい知ってんだろ」


「俺だってあいつをぶっ殺したい。仲間の大切なもんをぶっ壊されたから。そしてあんたも息子をぶっ殺したお。いわば俺たちは目標共同体。おーけーいいぜ。あんたの息子さんぶっ殺してやんよ」


「………弱点は首筋に埋め込んだ緊急用バックアップだ。あれさえ起動させて仕舞えば脊髄が自爆するようプログラミングされている」


「なんでこの病院には誰もいない。ナースさんも出てこねぇしよぉ」


「ここはあくまで仮想空間。君は今頃不正病院のベッドで治療を受けているだろう。

 ……ここの仮想空間も、あの子のために設けた遊び場だったのだがな。もうここに来ることはないだろう。また連絡する」


 ぱっ、瞬きをした瞬間空気ごと抜き去ったかのように名前の知らない母親は消えていった。聞き取りづらかったが小声で「お先に」と囁いて。

 置いてけぼりにされた光岡はイライラしながらぶつくさと文句を言った。「クソっ。大人はいつもこうだ」



 光岡は、目を覚ました。

 白い天井だ。

 チューブに繋がれた体は不思議と軽く、視線を下ろすと小汚いシーツに横たわっている自分と認識できた。

 そしてうつ伏せになって寝息を立てている少女。

 バーで遭った女だ。

「おい起きろ」


「ん、なぁにアンタ……ここどこ?」


「何ってお前が連れてきたんじゃねーのかよ」


「はぁ?」


 光岡が疑問をぶつけるより先に少女は何かに気がついた様子で前のめりになって馬鹿でかい声で、「あ。あんたどっかで見たことあると思ったらピーナッツ光岡じゃない」

 窄む光岡をそっちのけで捲し立てるように喋る少女。

「噂は聞いてるよ。ねぇあたしにもピーナッツ売ってヨォ」

 なぜだが欲情できない光岡は鬱陶しく思いながらも営業スマイルを張り付けて近くに置いてあったメモ帳に数字の列を書き込む。

「……これ、電話番号。都合がよかったら連絡すっから。じゃ、それまで」





臭い服に臭い体。消毒液のこれっぽっちもしない泥のような自分に、光岡は頭が混乱していた。夢でも見ていたかと思ったがどうやらそうでもないらしい。



 入れ違いに入室する男の顔を見て、少女はペコリと軽く頭を下げてそそくさと出ていった。

 豊臣だ。

「あの女可笑しいんだぜ。あの後とっ捕まえて脳みそのなか覗いてもお前を刺した履歴がねぇんだよ。削除した形跡もねぇのに。あり得ないだろ普通。酒飲んだらアルコールの履歴が残ると同じで。人をぶっ刺したら現場をしっかり覚えている。なのに空っぽだった。確かにあの女なのにな」

「……ヤったのか」

「まさか。ダチをぶっ刺した奴に挿れるほど飢えてねぇよ。二、三発デコピンで許してやった。イカすだろ。俺」

 光岡は壁に架けられた服を見て驚いた。

「……俺のジャケット」

 汚れているが血の跡がさっぱり消えている。傷口はほつれたままだがひとまず安心する光岡。光岡はない気にジャケットを気に入っているのだ。

「あぁ。俺が持ってきた。血の匂いをとるのに苦労したぜ。トマトをぶっかけたら少しはマシになったけどよ。なんでだろな」

「……ガキは?」

「いいニュースがある。みっちゃん、ガキの居場所が大体把握できた」

「本当か!」

「あぁ。柳田のダチが首都高湾岸線でチキンレースやってる最中によ、小さなガキに襲われたって」

「ちげぇねぇや」

「魚にむしゃぶりついて喰らってたらしい。近づいたやつは、頭潰されて死んだ。運良く生き残ったやつは首都高連合と掛け合った。奴ら戦争を仕掛ける気だ」

「早くしないと横取りされちまうじゃねーか」

「作戦は特定のポイントまで追い詰めて総攻撃を仕掛ける。主力武器は密輸で手に入れたAK47、45mm、リボルバー、グロック。イキのいい奴らは巡回中の戦車を強奪する計画も立てている」

「そんなんじゃあのガキは死なない」

「……お前、何言って」

「あのガキの母親に俺は会った」

「はぁ!? まじかよおい!」

「ガキには弱点がある。そこを刺激させないとやつは死なない」

「この情報を連合に売ろうぜ!」

「嫌だね」

「はぁ!? 連合つったら日本で一、二を争うヤクザだぜ。情報を売れば真っ白な金を手に入れることだってできるんだぜ!よく考えろよみっちゃん。いや、光岡!」

「考えた上で言っている。これは松田と、俺たちの問題だ。連合は知ったこっちゃない。それに、俺が決めても松田は納得しないだろうさ」

「……わかった。そういうことで。ちなみにみっちゃん。聞いてもいいか」

「なんだ」


「ガキのお袋って、美人だったか」


「……………ただの、大人だったよ」


「そうか……」

「そういや柳田はどうした」

「あいつはダチの葬儀だ。生き残りのやつ以外にもダチがいたらしくてな」


 その晩、光岡は夢を見た。

 薄暗い地下に脳みそが空っぽになったガキの死体が幾つもあった。

 ホルモン漬けにされたカエルみたいに。


 翌日の朝、見舞いに来たのは阪田と山内だった。

 阪田はうさぎ耳リンゴを剥きながら光岡と話していた。

 山内は意地汚くもリンゴの皮をむしゃむしゃと食べている

「はぁ? 母親が自分の子供を実験に使うのかよ。あり得るな」

「最近は社会論理が整備されて人間の肉が手に入りにくなりつつある」

「病院でくたばったガキの臓物を引きずり出して何かの実験に使ってたかもしれない。親の目にも涙って言うだろぉ」

「十分あり得るぜ。米国じゃ医者の三〇%がガキの臓物を不正に取引してるって噂だ」

「それと、お前とこのピーナッツ畑。一つ陥落したぜ」

「……証拠になるようなもんは?」

「ない。育ててただけだからな」

「そうか。なら急がないとな」

 チューブを引きちぎり光岡は汚なくて臭いブーツに足を突っ込む。ぎゅっと靴紐を結んでハンガーにかけられたジャケットを羽織る。

「光岡!」

「無茶だぜリーダー! まだ完治してない!」

「不安の芽はとっとと摘み取るのが幸だ。なぁにまたゼロから作り直せばいいさ」

 無鉄砲なリーダーを前に呆然とする二人を背中に光岡は病室を後にする。

 埃臭い路地を抜けて光岡は路上に駐車された一台のクルマをみつけた。

 見慣れた車、typeTが駐車されていた。

 ナンバーが光岡と同じものだ。

 ジャケットのポケットに突っ込んでいたキーを挿入し、廻す。

 ロックが解除されたtypeTの車内には一枚の置き手紙があった。

『貸し一。松田』

 光岡はデバイスを開き、ボタンを押す。

「あ、もしもし。俺ン家来るか? 売ってやるよ。ピーナッツ」

 最後の商売だ。

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