第一章 良薬は時にほろ甘い

 わしの仕事について話をしよう。

 我が家の最寄り駅から六駅ほど進んだ先に、葛西(かさい)町と呼ばれる市街地がある。そこには所狭しとオフィスビルが立ち並んでおるのじゃが、その中でも一際高いビルが、松井グループという不動産会社の本社ビルじゃ。わしはこの本社で、リテール事業本部の営業一課の社員として勤めておる。

 要は、不動産営業の仕事をしておるというわけじゃが、当然ながら決して楽な仕事ではない。物件の売買や貸借を望む顧客は、さまざまなニーズを抱えておる。急用が入ったので早く売りたいとか、沿線にある良い物件を買いたいとか、そういったあらゆる要望に応えていくのがわしらの仕事じゃ。

 このような気苦労する仕事を、魔女であるわしがなぜ生真面目にやっておるのか、不思議に思う者も少なからずおるかもしれん。これはわしのプライドの問題じゃ。確かに金を得ずとも、魔法で食べ物や衣服を創造するのは容易い。じゃが、人間たちが金を支払ってそれらを得ているというのに、わしだけがただで得るのは何だかずるく思えてしまってのう。

 魔女の素性を隠し、人間として生きると決めた以上、最低限の義務は果たさねばならん。仕事はするし、必要な金は税金も含めて支払う。まあ、ここ最近はおいしいりんごを通販で買うために一番出費しているんじゃがな。おお、恥ずかしい。

 話が逸れてしまった。そんなわけで、わしは一人の営業員として交渉や仲介をこなしておるのじゃが、わし自身の売り上げは申し分ない。これは自慢じゃが、ここ数年は部署内の営業成績で一位をキープし続けておる。その実績を認められ、最近ではチームで営業する際にリーダーを担うことが多くなった。すごいじゃろう、ふふん。

 ゆえに、社内での人望もそれなりに厚い。魔女じゃから交友関係はほとんど築かんが、それでも役職にかかわらずいろんな社員から声をかけられる。あいさつを交わす以外に、業績を褒められたり、アドバイスを求められたり、時にはランチの誘いを受けたりもした。顔見知りなのもあって目が回るのじゃが、好意的に接してもらえること自体は悪い気がせんのう。

 じゃが、周囲のそういった振る舞いが、時にみっともなく思うこともある。善意でなく、わしに媚びを売ろうとして絡んでくる連中がまさにいい例じゃ。

 一部の魔女もそうじゃが、人間は事あるごとに欲をかく。こと仕事においては、己が利益のために有能な人間を引きこみ、逆に無能な人間を不要とみなして排斥する。たとえ非人道的な言動に及ぼうとも、欲にまみれた者は「無能だから構わない」と正当化するのじゃ。何とも忌まわしい思考回路を、わしは数千年ほど生きてきた中で幾度となく目にしてきた。

 そして、わしが仁希として生きている今でも、そういった言動を目の当たりにする。何なら、そのいじめはうちの課内で起こっておるのじゃ。

 標的とされておるのは、うちに配属してから二年目になる新米、本田稔(ほんだみのる)。二十代前半の男で、ミディアムへアーの黒髪をした真面目な好青年じゃ。それだけでなく、エレベーターから降りるときに最後まで残って扉を開け続けたりといった、気配りができる優しさも兼ね備えておる。今の世では稀に見ぬ、純真な心を持った人間じゃ。

 じゃが、稔は課内での扱いがあまりにも酷い。稔は営業成績が毎月悪く、事務作業での凡ミスも多いせいで、課長にはいつも怒鳴られ、ほかの社員からも白い目を向けられておる。あやつの周りでは陰口が絶えず、稔が話しかけても目すら合わせずに離れていくもんじゃから、仕事の話すらままならない様子じゃ。

 助け舟を出してもよかったが、成長せずにいるのも問題ではあるから、わしは稔がいじめられていてもしばらく静観していた。じゃが、稔の業務は改善されず、心のほうも日に日に傷をつけられていくばかり。毎日罵倒され、陰口を叩かれ続けるのじゃから、稔がなかなか立ち直れずにいるのも無理はない。見るに見かねて、わしはとうとう稔を助ける決心をした。

 その日の夜。デスクに向かって黙々と残業をしているうちに、ほかの社員たちが徐々に退勤していき、残るはわしと稔の二人だけになった。

 オフィスの照明は、わしと稔の近くにある蛍光灯二本しか点いておらず、閑散としている。窓から周りのビルを遠目に見ても、窓明かりがぽつぽつと灯るくらいで、よそも同じくほとんどが帰宅したんじゃろうと窺えた。

 不動産の業界は残業が多い。日中は顧客対応でほとんど埋まってしまうから、大抵は残業して事務作業をこなさねばならん。わしの場合はそれに加え、チームのリーダーとしてメンバー全員が抱えた作業や契約書類の管理およびチェックも行う必要がある。ゆえに、今のように薄暗いオフィスに一人で居残るのはよくあることじゃ。

 しかし、稔はまだ入社二年目のひよっこじゃ。わしと違って残業をする理由はそう多くない。なのになぜいまだに残業をしているのかというと、周りから事務作業を押しつけられているからじゃ。「無能なんだからせめてこれくらい役に立て」という、あまりにも横暴な言い分でじゃ。

 稔はみんなの役に立とう、スキルを上げようと、ただのいじめを真に受けてサービス残業に励んでおるんじゃろう。そんな稔の苦労や努力なんぞつゆ知らず、仕事を押しつけた連中は退勤して今ごろ晩酌を楽しんでおる。こういった理不尽な仕打ちですら、連中からすれば「無能だから構わない」なんじゃ。無論、このような理屈が通っていいはずがない。

 自身の残業が片付き、わしは椅子に座ったまま伸びをする。次に、少しだけ腰を上げて稔のほうを覗き見ると、稔はまだパソコンに向かって残業を続けておった。

 デスクトップの右下に表示された時計に目を向けると、時刻は午後九時。あまりもたもたしてはおれん。わしはパソコンにロックをかけて席を立ち、唸り声を上げておる稔のほうへつかつかと歩いていった。

「お疲れさんじゃ」

 稔の肩を叩きながら声をかける。稔は仰天して飛び跳ね、慌ただしく振り向き、大きな隈ができた目をこちらに向けた。

「あとどれくらい残業が残っておる?」

 わしの問いに対し、稔はすぐ返答できずに口ごもる。どうやら残業はまだ多く残っておるようじゃ。そして、もし正直にそれを報告すれば、課長と同じように「役立たず」とどやされるとでも考えたのじゃろうな。

「別に怒りはせんから、正直に言え」

 隣の席に座って体を向け、デスクに肘を置いて頬杖を突き、わしは稔に促す。稔は唾を呑みこんで覚悟を決め、「あと二時間はかかります」と正直に答えた。

「何の残業をしておるんじゃ?」

 次に、わしは核心を突く質問を投げた。課長たちからの報復を恐れてか、稔はなかなか話そうとしてくれん。

「ほかの者たちの事務作業を肩代わりしておるのじゃろう?」

 わしに言い当てられ、稔は目を白黒させた。わしは続けて稔に訊く。

「なぜに稔は、ただでさえ自分の仕事で余裕がないのに、ほかの者の仕事までやっておる?」

 稔は今度は正直に答えてくれた。

「無能なんだからこれくらい役に立てと、課長に指示されたからです」

 わしは呆れながらも言葉を返そうとしたが、稔がそれよりも早く弁明を始める。

「でも、課長の仰っていたことは紛れもない事実です。私が人並みに役立てるよう、課長がスキルアップの時間をくださっているんです。もし何もしないで足を引っ張り続けたら、いよいよ私に居場所はありません。だから、私は投げだすような真似をしたくないんです」

 ここまで来ると重症じゃなと大きなため息をついた後、わしは稔の肩を両手で掴み、目を合わせながら言った。

「よく聞くんじゃ、稔。周りの人間は稔を鍛えようなどと考えてはおらん。単に嫌がらせをしてストレス発散しておるだけじゃ。その証拠に、おぬしはここ一か月ほど理不尽な残業を続けておるが、周りの態度が変わった試しは一度もなかろう?」

「で、でも」

 稔が反論を始める。

「ほかの人たちも、昔はサービス残業を続けることで力をつけていったと、課長が仰っていました。私も同じように耐え抜けば、いつかはきっと……」

「違う」

 わしはかぶりを振って言った。

「そんなもの嘘っぱちじゃ。わしは営業一課に配属されて五年以上は経つが、今のおぬしのように残業を無理強いされた者は誰一人としておらん」

 騙されていた事実を知り、稔は愕然として固まった。わしは説得を続ける。

「スキルアップしたいという向上心は立派じゃ。もしそれを望むなら、わしの指示を聞くがよい。今残っている作業をすべてわしに引き継げ。そして、パソコンをシャットダウンしてまっすぐ帰宅せい。今のおぬしには休息が何よりも必要じゃ。今から帰宅して食事や風呂を済ませても、六時間くらいは睡眠時間を確保できるじゃろうて。まずは何も考えず眠りにつくのじゃ、よいな」

 返事を促すと、稔はしぶしぶながら「わかりました」とうなずいた。

 稔が引継ぎを済ませ、わしにあいさつをして去ろうとしたところで、わしは稔を呼び止めて駆け寄った。

「これはわしの奢りじゃ。寝る前に飲めば少しはリラックスできるじゃろう」

 そう言って、わしは稔に乳酸菌飲料のボトルを差しだす。稔はきょとんとしながらも、「ありがとうございます」と頭を下げて受け取った。

 今一度お辞儀し、背を向けて帰りだす稔の後ろ姿を見つめながら、わしは満足げに笑みを浮かべる。どうやら作戦はうまくいったようじゃのう。

 稔に渡したボトルは、味や舌触りこそ本物の飲料に似せておるが、成分は本物とまったく異なるもの。実はあれは、わしがホーロー鍋で夜な夜な煮こんで作った、特製の魔法薬なのじゃ。

 もちろん、毒など入ってはおらん。あれは稔のうつ状態を治すためのものじゃ。ついでに、てきぱきと仕事をこなせるよう、脳を活性化させる成分もサービスで含めてやった。まあ、そちらの効能は数日すれば切れてしまうんじゃがな。少なくとも、稔が憂鬱になることは当分なくなるじゃろう。

 稔の変わりようを明日に見れるのを楽しみに思いつつ、デスクに戻って引き継いだ残業を手早く終わらせる。夜の十時を回ったところでパソコンをシャットダウン。オフィスの消灯と鍵閉めまで欠かさず行い、わしは鼻歌交じりに帰宅した。


 翌朝、早起きしてオフィスに向かうと、窓からの朝日に照らされながら、デスクに向かって熱心に作業をする稔の姿があった。どうやら早速効果が表れたようで、わしも思わず笑みがこぼれる。

「元気になったようじゃのう」

 後ろから声をかけると、稔は昨夜みたいに慌てふためくことなく、振り返って晴れやかな笑みを見せた。

「おはようございます、仁希さん。今、自分のタスクをリスト化して、優先度などをまとめているところでした」

 稔の得意げな報告に感心しつつ、わしは笑みを崩すことなく言う。

「それは大したもんじゃな。じゃが、業務時間外に張り切られても困ってしまうのう。そういうのは業務時間の合間にするんじゃぞ」

「そうですね、すみません」

 わしの注意を受けても、稔は卑屈になるどころか、謝りながら照れ笑いをするほどの余裕を見せた。魔法薬の出来に満足していたところ、不意に稔から話しかけられた。

「仁希さん。僕、昨夜に仁希さんからいただいたドリンクを飲んでから、調子が変なんです。何だか今までの僕じゃないみたいで、仕事も問題なくできる気がするんです。今まで課長たちから受けていたいじめも、言葉が悪いですけど、何で真に受けていたんだろうって馬鹿みたいに思えてしまって」

 アハハと大笑いし、わしは稔に言う。

「わしは何もしておらん。ただ甘いものでも飲んでゆっくり寝ろと指示しただけじゃ。おぬしが心の毒抜きをするための後押しをしただけにすぎん」

 稔はわしの嘘を聞いて怪訝な顔を浮かべたが、わしは構わず話を続けた。

「リラックスできてからそのようになったということは、それがおぬしの本来の姿ということじゃろう。ならば、今日からの業務で成果を上げて、課長たちを見返してやるとよい。無理せぬ程度に励むことじゃ」

 稔の肩を叩いて激励し、わしは伸びをしながら自分のデスクに向かう。「ありがとうございます!」と大声で礼を言う稔に対し、わしは振り返ることなく手を振った。

 それから少しずつほかの社員たちがオフィスに顔を見せ、まもなくして始業のチャイムが鳴る。

 今日は稔に、物件賃貸の契約交渉の仕事が一件だけ割り振られた。どうせ今回も契約が取れずに帰ってくるんだろうと、みなは相変わらず稔を見下したり陰口を叩いたりしておる。

 ところがどっこい、稔はその予想を打ち砕くように、二時間ほどしてサイン入りの契約書を片手に戻ってきた。課長が意地になって別の契約交渉の件を振ったが、稔はそちらもあっという間に契約を成立させてしまう。

 それだけでなく、業務時間外にやるような事務作業も、稔は終業の一時間前にはすべて済ませてしまっていた。これほどまでにてきぱきと働いたにもかかわらず、稔は「これくらいできて当然」と言わんばかりに涼しげな顔を見せる。わしを除く社員たちは、稔の変わりようを見て唖然とするばかりじゃ。

 なぜ見違えるほどに変わったのかと、みなは訊きたがっておる様子じゃった。しかし、今まで散々馬鹿にしていた手前、稔に直接訊くのは気が引けるじゃろう。稔自身も周りと口を利く気はないようじゃった。

 このまま何事もなく終わればいいんじゃが、陰湿ないじめがそう簡単になくなることはないらしい。終業間際になったところで、課長がついに不機嫌そうな顔をしながら稔に近づいていった。

「本田くん、さっき渡してくれた報告書なんだけどさあ」

 きょとんとする稔の目前に報告書の紙を突きつけながら、課長は歪んだ笑みを浮かべて言う。

「お客さまの名前、間違っているようなんだけど。ちゃんとチェックした? 何だか契約が二本取れただけで得意げになっているみたいだけどさあ、それくらいのことで調子に乗られても困るよ? エースである荒尾くんなんか、毎日三本以上は契約を取ってくるよ。こんな情けない凡ミスをまだしているくせに、成長した気になっているなんて笑わせるね」

 畳みかけるように嫌みを言われ、稔はぽかんと口を開けていた。まさか、まだしょうもない文句を言われるとは思いもせんかったのじゃろう。課長の嫌みを皮切りに、ほかの社員たちも便乗して嘲るようなクスクス笑いをし始めた。

 パソコンから営業一課の共有フォルダーにアクセスし、稔が書いた報告書のファイルを開いてチェックしてみる。すると、課長の言っていたとおり、顧客の名前が誤った状態となっていた。

 わしはそれを見て、課長がわざとファイルの中身を書き換えて、稔に冤罪をかけておるのじゃと理解した。足がつかんよう、ファイルの最終更新者の記録まで削除するという、手のこんだ嫌がらせじゃ。

 これはさすがに看過できんと思い、わしはパソコンで一枚分の印刷操作をし、コピー機に向かった。

「お言葉ですが、課長」

 早く手助けに向かわねばと急いでいたところ、不意に張りのある声がオフィス内に響き渡った。稔の声じゃ。

「私は報告書のデータファイルを、共有フォルダー以外にローカルディスクにも保存しています。そして、こちらのファイルではお客さまの氏名を含め、すべて正しく記入してあります。一度正しく記入したものをあえて書き換えて提出するというのは考えにくいと思うのですが」

 聞く限り、どうやら稔は報告書のバックアップを手元に残しておいたらしい。そのバックアップが正しいというのであれば、稔が書き間違えたという線は確かに考えにくくなるのう。

 筋の通った主張じゃったが、課長はそんな稔の主張を無視し、詭弁を弄し始めた。

「知らない知らない。君が何て言おうと、最終的に間違った報告書が上がっている時点で君が悪いんだよ。せっかく君のために言ってるのにさあ、そんな生意気な口を利いて、いよいよ居場所がなくなっちゃってもいいわけ?」

 聞く耳を持たない課長に困っている稔を見かねて、わしは印刷し終わった書類一枚を手に取り、課長のもとへ駆け寄る。

「課長。今の話を横で聞いていましたが、稔くんが記入ミスした線はありえないかと思います」

「ああん?」

 チンピラみたいな声を上げながら、不快そうな顔で振り向く課長。わしは気にせずに印刷した書類を見せ、主張を続けた。

「こちら、稔くんが共有フォルダーに上げた直後のデータファイルを印刷したものです。見落としがないか気になったもので、私のほうでもコピーして目を通していたのですが、顧客の名前は確かに正しく記入されていました。ファイルの更新日時も、稔くんのバックアップと一致しています。課長が指摘された、今共有フォルダーに上がっているファイルのみ、更新日時が数分ほど遅れているのです」

「そ、それってつまり……」

「稔くんが共有フォルダーに上げたファイルは紛れもなく正しいものであり、ほかの誰かがそのファイルを書き換えたということです、課長」

 稔の言い分を裏づける主張を聞き、課長もさすがに焦ったようで、目がきょろきょろと泳ぎ始めた。わしはお返しとばかりに畳みかける。

「なぜ今になって、共有フォルダーにあるファイルが更新されているんでしょう? この報告書の存在は、稔くん自身と、リーダーの私と、報告を受けた課長の三人しか知りません。稔くんには正しいデータファイルが手元にあるという証拠がありますし、私が犯人である線もこうして稔くんを擁護している以上ありえません。となると、課長がデータファイルを書き換えたとしか考えられなくなります」

 反論できず、真っ青になりながら口ごもる課長に対し、わしはにやりと笑いながら容赦なく続ける。

「課長、稔くんを罵倒したいがために自らの手で重要な書類を改ざんしたとなれば、重大な問題になるのですが? 今回の件のみならず、課長を中心に多くの者が稔くんに残業を押しつけていたことも、監視カメラなどで証拠をすでに押さえてあります。これらを上層部に報告したら、居場所がなくなるのははたしてどちらでしょうね?」

 課長は愕然とし、見ていておかしいくらいに足の震えがぶるぶると止まらなくなった。とうとう反論するのも諦めたようで、課長はみっともなくわしに向かって土下座し、命乞いをし始めた。

「あ、あ、荒尾くん! 私が悪かった。君の望むとおりにするから、どうか上に言うのだけは!」

 課長に対して畏まった態度を取るのを止め、わしは腕組みをしながら言う。

「であれば、今後一切稔くんをいじめるような真似はしないでください。ほかの社員にも同様の指導を。それと、稔くんは今日一日の成果のみで一人前になったとは断定できないので、一か月ほど私のほうで教育指導をさせていただきます。これらを拒否したり、また同じような言動を繰り返したりしたら、次こそ上層部に報告します」

 要求を一通り言い終えると、わしは課長の返事を聞くことなく、踵を返して自分のデスクに戻っていった。

 途中、今までわしに媚びてきた社員たちが、すれ違う際に露骨に目を逸らすのを見て、わしは鼻で笑った。さすが、金魚の糞は考えることがわかりやすいのう。

 席に着いて一息ついていたところ、稔が急ぎ足でわしのもとへやって来る。そして次に、今しがた庇ってもらったことと、これから教育指導を受けることへの感謝をし始めた。わしは遠慮して「そういう堅苦しいのはいらん」と追い払った。

 そのまま戻っていくかと思っていたが、稔はどうやらわしに訊きたいことがある様子。わしが促してみると、稔は尊敬と怪訝の念が入り混じったような表情を浮かべて言った。

「僕が仁希さんほどの地位と能力があったとしても、あれほどまでに課長を脅しつけるようなことは、報復が怖くてできないと思います。仁希さんは怖くないんですか?」

「怖いじゃと?」

 鼻で笑い、わしは答えた。

「あんな老いぼれなんぞ取るに足らん。あれなんかよりももっと醜く恐ろしいものを、これまでたくさん目にしてきたわい」

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