第30話

 ***


 写真史を学んで       高階 柊


 フェルメールがカメラ・オブスクラを用いて絵を描いていたことは知っていました。それがカメラの元になっていたことも。ただ、その先の今のカメラにつながる知識はなかったので、とても新鮮でした。

 わたしが興味深く思ったのは、今から100年以上前の写真がとてもモダンに感じられたことです。長い間残る写真というのは、永遠に若いような気がしました。タルボットの標本写真は、全く色あせることがない。それはブロスフェルトの植物写真にも繋がっています。植物の形が変わらないから、当たり前のことだと思うけれど、何だかそれはびっくりしました。マイブリッジの動体写真も馬の駆けてゆく様子が克明に写し取られています。

 戦争の時代にも写真は活躍します。まさに真を写すことが重要なこと。ただ、その一枚の写真の影響力というのにも考えさせられました。それによって、デモが起きたり、革命が起きたりする。報道写真を撮影することは、とても冷たい視点を持たないといけないのだな、と感じました。冷たいというのは冷静なという意味ではあるけれど、やはりどこか突き放したような冷たさも感じます。わたしはそこまでドライになれるか、自信がない。でも、写真家に必要な要素のひとつであるようにも感じました。

 マン・レイの写真はセンスの高い広告のようでした。ブレッソンの写真はとってもおしゃれ。ソール・ライターはそれにさらに色をのせたような感じで、とても好みでした。わたしは、報道写真よりも広告写真の方が好きかもしれない。それと、もっと古い時代に起きたムーブメントで、ピクトリアズムというのに興味を惹かれました。RAWで撮影した写真を現像するのと同じように色付けすることは100年以上も前に行われていたこと。こういうアプローチが伝統的なものであることに驚きました。もちろん、現像の意味は知っていましたが、こんなにもコントロール可能なものだということに驚いたのです。フィルムの写真も撮影して、いつか自分で現像したいと思いました。

 アウグスト・ザンダーの肖像写真も面白かったです。確かに時代は感じるけれど、その解像感はやはり新しいままです。

 今回の写真史の学びを通してわたしが感じたことは、プリントされた写真は残るということ。そして、現代の写真はフィルグラのように消費されていること。わたしは、フィルグラもとても好きだけれど、やっぱり長く残る写真を一枚でも多く撮ってみたいと思いました。


 ***


 カメラに触れることも怖い今なのに、優等生みたいな文章を書いてしまったことを後悔する。わたしはとても嘘つきだ。

 レポートを先生に手渡しする時、体がちぎれそうに感じた。わたし、写真をやめようと思ってから、かえって写真に手をつかまれているような気がする。

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