第25話

 文月がわたしの方を向く。

「わたしね、杖をついたマダムを置き去りにしたことがあるの」

 しばらく、にらむようにわたしを見たあとで視線をそらして続ける。

「街から自宅に帰るのにバスに乗ろうと急いでいた時だった。バス停の少し手前でマダムのことを追い越したんだ。すぐにバスはやってきて、わたしは乗り込んだ。マダムもバス停まで来たんだけれど、その目の前でドアが閉められたの。ひどいでしょ。でも、わたし、席に着いてしまったの。分かる? あの時、運転手に、乗る人がいます! って言えばよかったんだよ。すごい意地悪みたいにマダムの目の前でドアを閉めたんだよ。それは去年の夏のことで、すごく暑かったでしょ。バス停に屋根はなくて、杖をついているからマダム、日傘もさしていなくて。それでね、」

 文月が大きな石を蹴る。

「わたし、マダムの寿命をそこでちぢめさせてしまったのじゃないかって思ったんだよ。それは、ヒーコが写真をもう撮らないって言って初めて気がついた。あの杖の人がマダムだって気づいていたけれど、ヒーコがそう言うまで、わたしがマダムを傷つけたことには思い至らなかった」

 文月が沈黙する。

「……。なら、なおさらわたしは写真を撮ることなんてできないよ」

「ヒーコ、わたしね、看護系の専門学校か短大に、もしくは大学に進路を変えた。いままでは被服科のある短大にしようと考えていたんだけれど、それにはこれといった意味はなくて、漠然と洋服のこと知りたいな、と思っていたから。でも方向転換をした。それはマダムが教えてくれたことだと思っている。

 意地悪な世の中にあらがいたいの。もちろん丁寧なバス運転手になるっていうやり方もあると思うんだけれど、わたし、たぶん車の運転は得意じゃない。それよりも、もっとそばで体や心が弱っている人に寄り添えるようになりたい。介護のもう少し手前で、あの時のマダムのような辛い思いをしている人の役に立ちたい。きっと、わたし、そういう人の中にずっと、あの時杖をついたマダムの姿を見つけると思う。そして、それを無視したらマダムが悲しむから回復のお手伝いをしたい。マダムのために働くの。

 だから、ヒーコは写真を続けるべき」

「……、なんでそこに繋がるんだよ」

 わたしは、腹を立てていた。そんなわたしを無視して文月は続ける。

「わたしもエミリーに賛成。マダム、絶対に喜んでいたもの。お金を払うってそういうことだと思うんだよ。だって義理で10万円も払うわけないじゃん。マダムは写真を見ることはできなかったけれど、ヒーコの被写体になった時間がすごく嬉しかったんだと思うよ。杖をついたマダムと肖像写真のマダム、本当に別人だもの。

 あー、わたしもエミリーみたいにかっこよく言えたらいいんだけど。ヒーコ、いつかわたしのことも撮ってよ。わたしも死んだりしない、約束する。それに、」

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