酒を呑む先輩

 夜風の冷たさが冬のそれになってきた十二月。しんと静まり返った駅前通りには透子さんの履くブーツの足音がこつこつと響いていた。


「いや〜。バイトリーダーの送別会、退屈だったね」


「そうですね」


 今日は長年活躍してきた夢追い人のバイトリーダーが辞めるということで、アルバイト先のスペイン料理屋で送別会が開かれた。


 一応、自由参加ではあったのだが、店長のプレッシャーに負け、僕も透子さんも一次会だけ参加したのだった。


「日頃あれだけ『俺は大物アーティストになるんだ』と言ってましたけど、結局は近所のスーパーの社員になる道を選んだんですね」


「まあそれが妥当なんじゃないかな。音楽で食べていこうとするのには、個性が強いだけじゃ駄目だったみたいだね」


 透子さんは両手をさすりながら呟いた。


「でも、あの人がいなくなると正直清々するな。何かにつけて食事や飲みに誘ってくるから、いちいち断るのが面倒くさかったんだよね」


 アルコールの影響か、透子さんはいつもより少しだけ饒舌だった。


 元バイトリーダーだった彼は近くの音大卒で、女性関係であまりいい噂を聞かないような人だった。しょっちゅうバイトの後輩女子にちょっかいをかけるし、それを指摘されても一向に改善しようとしなかった。


 むしろそんな自分が好きなのか、バイト先の飲み会では過去に友人の恋人を寝取っただの、ナンパした女性と何回寝ただの、そんな下卑たエピソードを武勇伝かのように何度も話すので、僕も正直彼を良く思ってなかった。


「ま、もういなくなる人の悪口言ってもしょうがないか」


 透子さんは白いダウンコートのポケットからスマホを取り出し、立ち止まって何か操作しだした。


「どうしましたか?」


「ん?なんか飲み足りなくない?バイト先の皆と鉢合わせなさそうなお店に入って飲み直そうよ」


 酔いが回っているのか、彼女の頬は寒空の下でも薄桃色に上気していた。


「でも透子さん、もう結構酔ってるように見えますよ」


「え?まだ全然酔ってないよ?」


「その台詞は酔ってる人の台詞ですよ」


 透子さんはそこまでお酒に強くない。それは僕がこのバイトを初めてすぐに知った。


 僕が初めて参加したバイト先の飲み会は6月にあった。その時、僕の斜め前に透子さんは座っていた。


 透子さんと出会ってすぐに彼女のことが気になっていた僕は、彼女の前でみっともない姿を見せないようにとかなり気を張っていた。


 そんな僕を見兼ねたのか、透子さんは僕が何をいえばいいかわからず黙っているときは上手く話を引き出してくれ、周りの人にもうまいこと話を振ってくれた。


 彼女と話している間は、自分がとても面白い人物で、特別な人間のような気がしたのだった。


 透子さんはビール、カシスウーロン、白ワインと、どんどんお酒を飲みながら場を回していった。その振る舞いはさながらラジオパーソナリティーだった。


 そのお陰で僕の緊張はだいぶ解け、飲み会が始まる前よりも透子さんや他のバイトの人達とも話すことに抵抗がなくなっていた。


 そんな飲み会が終わった後、帰り道で二人きりになった時のことだった。


 上り方面のホームで電車を待っている間、それまではいつも通りだった透子さんに変化が起きた。


「あ〜!もう!やだ!」


 そう言ってホームの床に座り込んでしまったのだ。


「どうしちゃったんですか」


「別に、どうもしないよ」


 それだけ言うと、透子さんはそのまま動こうとしなかった。


「とりあえず地面に座るのはやめませんか。向こうにベンチがありますからそちらに……」


「んー、めんどくさい」


 正直、今の彼女の方がめんどくさかった。


 だが、このままではいけないと思った僕は何とか透子さんを宥めすかし、彼女をひとまず床からベンチに移動させた。


「それで、何が嫌だったんですか」


「なんだろうな〜、わかんない」


 乗る予定だった電車が目の前で発車した。ホームの青白い電灯に照らされた透子さんは、飲み会の時に見せていた溌剌とした笑顔よりも少しとろんとした顔で笑った。


「しいていえば、全てが嫌かな〜」


「全て、ですか。随分漠然としてますね」


「ん〜、そうだよね〜」


 透子さんはそう言うと白いパンプスを履いた足をぱたぱたとさせた。


「ぼんやりした不安がね、ずっと頭の中にあるの」


 膝の上に置いた手をぎゅっと握り、彼女はそう呟いた。先程話していた時よりも声色は少し暗くなっていた。


「ぼんやりした不安…… 芥川龍之介を殺したものですね」


「そうだね、もっと細分化すれば将来のこととか、今の生活のこととか、色んな要素が私の不安を形作ってるんだと思うんだけど」


 意外だった。先程の飲み会で、あんなに笑顔を振りまいて場を盛り上げていた人が、そんな不安を常に抱えているとは思えなかったのだ。


「10年後の自分が何をしているのか、そもそもしっかりと生きているのか、このままでいいのか……。そんなことを考えては、いつもいつも怖くなるんだ」


「先行きのわからない不安なら、僕もわかる気がします」


「ほんとうに?」


透子さんは澄んだ眼差しでこちらを見つめる。


「……部分的に、かもです」


 僕の心の奥底まで見透かしてしまいそうな彼女の瞳を前に、僕は逡巡し、歯切れの悪い回答しか言うことが出来なかった。


「……ごめん、変な話題だったね」


 少し申し訳なさそうに透子さんは微笑んだ。


「私、酔っちゃうと暗い話しちゃうんだよね。このことは他のバイトの子たちには内緒にしてくれると嬉しいな」


「……はい、わかりました」


 その後、僕らはそのまま無言で次の電車を待つことになった。

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