第7話

 絃葉の病室にたどり着いたのは、午後6時のことだ。

 バスで病院に向かうまでのあいだ、ゆっくりと夕陽が沈んで空が群青色に変わっていく様子を眺めながら、やきもきとさせられていた。


「絃葉」


 絃葉の病室の扉を開けると、絃葉がベッドの上でぱっと身体を起こした。その顔が少しやつれているように見えて、俺は息をのんだ。


「紡くん、こんばんは」


 絃葉がにっこりと笑って俺を迎え入れる。彼女の目尻が、ぴくりと震えているように見えたのは気のせいだろうか。


「絃葉、大丈夫か?」


「うん、平気。薬でちょっと、気分が悪くなってただけ」


 絃葉はそう言って、ひょいと布団を剥がしてベッドに横座りになり、足を俺の方へと下ろした。


「そ、そうか。それならええんやけど」


 いつ会っても明るい絃葉が、重病患者であることを、俺は忘れそうになる。


「それよりどうしたの。顔に、『早く話したい』って書いてあるよ」


「え!?」


 絃葉からそう言われた俺は面食らった。絃葉はそんな俺の反応を見て、おかしそうにくくくと笑う。


「紡くん、冷静そうに見えて感情が分かりやすい。そういうところ、好きだな」


 いま、さらっと恥ずかしいことを言わなかったか?

 俺は耳の方まで赤くなるのを感じて、彼女の言葉の真意を尋ねることはできなかった。

 その代わり、ポケットから糸を取り出して見せる。


「さっきさ、ばあちゃんにこの糸持ってもらったら、透明になった。絃葉の時とおんなじや。他の人ではダメやった。変わらんかった。絃葉とばあちゃんが持った時だけ、透き通る。なんでかいな」


 俺は捲し立てるように彼女に事実を伝えた。絃葉の目が、丸く見開かれていく。


「おばあちゃんって、今おいくつぐらい?」


「78やったかな?」


「なるほど……」


 絃葉が、腕を組んで何かを考えているそぶりを見せた。しばらくして、何か閃いたのか口の端をにっと持ち上げてこう言った。


「心が綺麗な人が持ったら透明になるんだよ、きっと!」


「え?」


 えへん、という声でも聞こえてきそうな勢いでそんなことを言う絃葉が可愛らしくて、俺はつい彼女の顔をまじまじと見つめてしまう。


「ね、紡くんもそう思うでしょう?」


 彼女の透き通るような瞳に見つめられてしまった俺は、その場で首を縦に振るしかなかった。彼女が綺麗なのは、心だけじゃないんだけどな。

 そんなくさい台詞を言えたなら、俺はもっとモテる男だったに違いないのだろうな、と彼女の白い頬を見ながら思いを馳せていた。




 絃葉との交流は、その後何日も続いていた。

 毎日とまではいかないけれど、暇さえあれば絃葉の顔を見に行った。冬休みになると時間があるので昼間から彼女に会いに行く。不意打ちで昼間の時間に病室を訪ねると、彼女は「え、もう?」と声をあげて、ささっと髪の毛を梳かしてみせた。女の子の事情を何も考えずに訪ねてしまったのは申し訳ないが、焦る彼女もまた可愛らしかった。

 絃葉の母親と鉢合わせたのは、大晦日のことだ。


「あなたが、紡くん。いつもありがとうね」


 絃葉の母親は絵に描いたような優しそうな人で、俺は慌てて頭を下げた。


「どうか最後まで、あの子のそばにいてくれたら嬉しいです」


 母親は、絃葉がトイレに行っている間に、そんなことを言って俺の前から去っていく。

「最後まで」という言葉が、俺の胸に不安の塊を押し付けていった。


「紡くん、どうしたの」


 トイレから戻ってきた絃葉が、ぼうっとしている俺に尋ねた。


「なあ、絃葉——」


 俺は今まで、絃葉から病気について、詳しい話を聞いたことがなかった。頭の病気ということだけさらっと聞いていたが、どれぐらい悪いのか、どんな治療をしているのか、ということは何も知らない。

 絃葉に病気のことを思いきって聞いてみようかと思い、彼女に声をかけた時だ。

 俺のスマホの着信音が鳴った。


「ちょっとごめん」


 絃葉に断りを入れてから、俺はスマホの画面を見る。電話は母親からだ。仕事中に一体どうしたのだろうかと訝しく思いながら通話ボタンを押した。


「もしもし、俺やけど、どないしたん」


 俺がそう最初の一声を紡いだ瞬間、母さんの焦ったような声が、スマホの向こうから聞こえた。


『紡! 大変なの、おばあちゃんが……!』


「え?」


 切羽詰まった様子の母さんが、俺に事情を告げると、俺はその場でしばらく立ち尽くしてしまう。


『とにかく早う帰ってきて!』


 母さんの言葉にせき立てられて、俺はスマホの通話を切った。


「絃葉、ごめん、俺ちょっと用事が……ばあちゃんが、死にそうやって——」


 混乱した頭のまま絃葉に母さんから聞いた電話の内容をそのまま伝える。

 絃葉は目を丸くして、それからゆっくりと息を吸った。


「早く行ってあげて」


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