第21話 手紙



 ただ……正直、そういった、それらの感情すらも、マリアローズは嫌ではなくなりつつあった。


 じわりじわりと、ハロルドが心の中へと入り込んでくる。いいや、考えてみると、もうずっと昔から、ハロルドは己の中にいたのだと、マリアローズは思う。それが今、明確に輪郭を持って、一つの形となって、自分の心の中で存在感を増したのだろう。


 やっと自分は、ハロルドという人間を新しい目で見たのだと、マリアローズは感じている。もうハロルドが、子供時代の自分のヒーローではないのだということは、様々な刻を一緒に過ごし、理解していた。そう理解する時、理解させられる時、いつも胸が疼いた、その理由。マリアローズは、当初はずっと分からないでいた。


 だがそれが今、大切という名前だと分かった。ハロルドが大切な人に変わった。

 その大切は、好きと同義だと、既にマリアローズは理解している。


 ――けれど継母の己が、仮にも子へ恋情を抱く事は果たして許されるのか?


マリアローズは、しっかりとその答えを出した。


「ねぇ、《魔法の鏡》」

『なんだい?』

「今の私は輝いているかしら?」

『うん。とっても素敵だよ』

「ありがとう、貴方はいつも背中を押してくれるのね」

『僕はマリアローズが大好きだからね。これからもずっと一緒に居たいよ』

「そう。私も同じ気持ちよ。ありがとう」


 マリアローズは、《魔法の鏡》にお礼を言ってから、天井を見上げた。

 思い浮かべたのは、ハロルド陛下のことだ。


 好きなものは好きなのだから、好きだと伝えるべきだ。己の気持ちに誠実でいる事が、マリアローズの矜持だった。だから、伝えなければ。そう決意し、この日マリアローズは、青いドレスを身に纏った。もうとっくに己は貴方のモノなのだと、ハロルドに伝えたかったから。


 告白するしようと決意して、意気揚々とマリアローズは、ハロルド陛下の執務室へと向かう。そしていつものように深呼吸をしてから、華奢な手でノックをした。


『マリアローズか?』

「ええ」

『入れ』


 ハロルド陛下の声に、一人頷いて扉を開ける。そして正面の執務机に座っているハロルド陛下を見据えた。


「ねぇ、ハロル――」

「先に俺の話を聞け」


 しかしハロルド陛下に言葉を遮られた。折角の決意がしぼんでしまった気がして、マリアローズはため息をつきそうになったが堪えた。


「なにかしら?」

「手紙が二通届いている。一通は俺達二人にあてて。もう一通はお前あてだ」

「開封したのかしら?」

「俺達二人への手紙は開封済みだ。ドワーフの老人を覚えているか?」

「ええ」

「彼らからの感謝の手紙だ」


 ハロルドに差し出された便せんを、目を丸くしてマリアローズが読んでいく。

 なんでも、激務に耐えかねて辞めたという四人が、無事に戻ってきたと書いてあった。

 戻ってきたのは、待遇改善の成果だという。

 現在の職場の環境が改善した事の喜びも、詳細かつ明確に綴られていた。

 感謝の言葉がたくさん記されたその手紙を見て、マリアローズの心に温かいものが満ちていく。そんな彼女の表情を見据えてから、ハロルド陛下が口を開いた。


「よかったな」

「ええ! 私達、一つやるべきことをやれたのね!」

「ああ、俺達二人で成し遂げた成果がまた一つ増えたな」


 嬉しそうな顔をして笑っているハロルドに歩みより、大きくマリアローズは頷いた。

 それから執務机の上に、もう一通手紙がある事に気がついた。

 確かに宛名は自分あてだが、王宮に届くのは珍しい。普通は後宮に届くからだ。


「ペーパーナイフはそこにある」

「誰からなの?」

「裏面には少なくとも差出人の名前は無いが」


 ハロルド陛下の声に頷きながら、マリアローズは手紙を開封した。

 それからペーパーナイフを置き、便せんを取り出す。

 少し掠れた文字で、『四時に離塔の四階に来て欲しい。大切な話がある』と記されていた。マリアローズは首を傾げる。まじまじと見てみるが、誰からの手紙なのかは分からない。


「誰からだ?」


 するとハロルド陛下が問いかけた。顔を向けたマリアローズは、首を振る。


「分からないわ」

「見せてみろ」

「いいわよ」


 素直にマリアローズは、ハロルド陛下に手紙を差し出した。

 するとハロルド陛下が、眉間に皺を寄せた。


「なんだこの見るからに不審な手紙は?」

「そうかしら?」

「そうだろう」

「でも、誰か困っている人がいるのかもしれないわ」

「マリアローズは、馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、本当に馬鹿だな」

「ちょっ! その言い草はなんなのかしら! 昨日棒グラフの数値を間違えたハロルド陛下には言われたくないわ!」


 ムッとしてマリアローズは、言い返す。


「私は行って参ります」

「なんだと?」


 呆れかえった顔を通り越して、信じられない者を見るような目で、ハロルド陛下がマリアローズを凝視する。


 この日、二人は三時半まで、『行く』『行くな』というやりとりを繰り返した。

 そして時計が三時半をさした時、マリアローズが立ち上がった。

 すると辟易した顔で、ハロルド陛下もまた立ち上がった。


「あら、私を引き留めるおつもり?」

「違う。諦めた。俺も着いていく。馬鹿を一人にしてはおけないからな」

「そのような酷い事を仰るのなら、来てくれなくて結構です」

「俺は心配しているんだ、分かれ」

「……え、あ」

「行くんだろう? 仕方ないな」


 こうしてハロルド陛下が先に執務室を出た。慌ててマリアローズが後を追う。

 執務室から離塔までは、二十分弱かかる。四階は広間になっている。

 この前、丁度冬囲いが窓に成された塔だ。


「誰がいるのかしら?」

「さぁな」


 気のない返事をしたハロルド陛下は、チラリとマリアローズを見る。


「告白のために呼び出す手紙だったらどうする?」

「お断り致しますわ」


 マリアローズは、即答した。己はハロルド陛下を好きなのだから、断る以外の選択肢など無い。だが、結局言い合いをしていた本日、執務室での険悪な空気の状態では、気持ちを伝える事が困難だったし、今も歩いているから、ここで伝えるのも違う気がした。


「俺の告白にはいつ答えてくれるんだ?」


 するとさらりとハロルド陛下が呟くように言った。


「――もう少々お待ちになって」


 場所が悪いから、とは告げなかった。そんな話をする内に、二人は離塔の四階に到着した。中に入ると、広い床が視界に入り、マリアローズは室内を見渡した。


「誰もおりませんね。これから来るのかしら?」

「もう三時だが」


 懐中時計を取り出して、ハロルド陛下が述べる。

 その時だった。

不意に林檎の香りが漂ってきた。最初は微かな、己の勘違いかと思うほどの匂いだったのだが、それが一気に濃くなったようになっていき、部屋中が林檎の香りで満たされた。中央付近まで歩いていたマリアローズは、窓際に七輪のようなものがある事に気がついた。首を傾げながら歩みよる。怪訝そうな顔で、ハロルド陛下も着いてくる。


 マリアローズは七輪の中を覗きこむ。するとそこには、緑色をしたお香が山のように入っていた。全てに火がついている。


「これは何かしら? すごく芳しい林檎の香りがするわ」


 彼女の声に、隣から七輪の中身を覗き混んだハロルドが息を詰めた。そしてすぐに顔を歪めると、防毒マスクを取り出した。


「これは青林檎香という毒ガスだ。マリアローズ、これをつけろ」


 口早にそう告げながら、ハロルド陛下はマリアローズの口に強引に防毒マスクをあてがった。驚いたマリアローズは、それからハロルドを見上げる。


「ど、毒ガス!? 貴方はどうするの!?」

「――俺は平気だ」


 そう言うとニコリとハロルド陛下が笑った。少しだけ苦笑が混じっているように見えた。いつか、幼い頃にマリアローズが一人で泣いていた時、似たような笑みを見た気がした。


「毒ガスを無効化する魔石を所持している。とにかくこの部屋を出るぞ」


 手に球体を持ち、ハロルドが述べる。

 それからハロルド陛下はすぐに表情を険しいものへと戻すと、強引にマリアローズの手首を掴み、早足で歩きはじめた。本当は走りたいのだろうが、マリアローズの歩幅に合わせている。時折苦しそうに目を眇めながらも、ハロルド陛下は歩みを止めず、部屋を出て、すぐに扉を閉めた。


「っ」


 廊下に出ても林檎の香りは変わらずあった。


「離塔の全てに仕掛けてあったな。マリアローズ、行くぞ」

「っ、わ!!」


 ハロルド陛下はマリアローズを横に抱き上げると、今度こそ走った。きっとマリアローズの足では、毒ガスに飲まれてしまうと判断したのだろう。マリアローズは、ハロルド陛下の首に腕をまわし、ギュッとしがみついていた。


 階段を降りていき、入り口が見えてくる。もう少し、マリアローズは、漏れてくる光を見て、そう思った。そして二人は、無事に外へと出た。


「立てるか?」


 ハロルド陛下がマリアローズを優しくおろす。

 マリアローズは、しっかりと立って、大きく頷く。

 するとハロルド陛下が、また優しいのに苦笑するような、そんな表情を見せた。


「お前が無事で良かった」


 そう言った瞬間、ハロルドの体が傾いた。


「ハロルド陛下……?」


 驚いてマリアローズが支えようとしたが、体格が違うから、ほとんど無意味で、ハロルド陛下は地に横たわった。その端正な顔からは、血の気が失せている。


「ハロルド陛下、ハロルド!! ハロルド!!」


 必死でマリアローズが叫ぶように声をかけた時、大勢が走ってくる気配がした。


「マリアローズ様!」


 真っ先に声を上げたのは、宰相閣下だった。泣きそうな顔で震えながら、マリアローズは必死でハロルドの体を指し示す。


「林檎の香りがして、それで、毒ガスだって言って、でも、無効化する魔石があるって、なのに、どうして……?」

「マリアローズ様。そのような魔石は存在しない。毒ガスへの対応策は、防毒マスクのみだ。そしてそれは今、貴女が装着している。一つしか無いはずだ」

「っ」


 宰相閣下の冷静な声に、マリアローズの涙腺が倒壊した。


「平気だって言ったのに。魔石も見せてくれたわ!」

「我輩及び騎士団長に直通で異変を知らせる緊急時に力を込める魔石ならば、発動した。だから医官を呼び、我輩はここへ今駆けつけた」


 医官達が、ハロルド陛下に歩みよっている。

 気づけば多くの人々に、マリアローズは囲まれていた。その中で、宰相閣下のみが、マリアローズを落ち着けるように声をかけている状況だった。


 震えながら、気づくとマリアローズは泣いていた。涙が止めどなく溢れてくる。

 長い睫毛にのった雫が、頬に筋を作る内、欷泣するような息が漏れ始める。

 防毒マスクを外したマリアローズは、ハロルド陛下の顔をじっと見る。何度瞬きをしてから確認してみても、まるで死んでしまったかのように、ハロルド陛下はぴくりとも動かない。


「マリアローズ様、貴女もまた、少しは吸い込んだはずだ。医官の診察を今すぐに」

「私は、ハロルド陛下についております」

「それは宰相としてお止めする。仕える王族の方々の愚行は、忠実な臣下として止めねばならない。貴女になにかあったら、命をかけてマリアローズ様を助けたハロルド陛下のお気持ちが無駄になる。それにハロルド陛下の目が覚めた時、貴女のお具合が悪かったのならば、陛下がどれほど悲しむことだろうか。とにかくマリアローズ様もすぐに診察を受けるように」


 そう言うと宰相閣下は医官を呼び寄せ、無理にマリアローズを立たせてから、医官に預けた。その間もマリアローズは、ずっと泣いていた。


 ――自分のせいだ。

 ――ハロルド陛下は、きちんと危険だと教えてくれていたのに。


 悔やんでも悔やみきれなくて、瞼を伏せれば、ボロボロと涙が零れ落ちていった。




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