愛情溢れ出づるユートピア
第10話 ガラガラポンの行く末・1980
5年生になってクラス替えもあって、前年よりはるかにいい環境になったように思えました。施設内も去ることながら、学校にしても、そう。
前年はベテランの女性教師でしたが、今度は中堅からベテランの域に差し掛かった男性の先生でした。
よく考えてみれば、ここから先ずっと担任の先生は男性ばっかりで、女性の担任の先生は以後ないなぁ。もちろん、他のクラスには女性の先生もいたけどね。
その先生、確か当時で40代半ばくらいだったかな。
ちょっとというか少なからず頑固で偏屈なところはあったが、この担任の先生にはものすごくお世話になりました。
夏休みの最初の5泊6日、その先生のご自宅に泊めていただいたのよ。
ここには、増本さん宅の下のお兄さんと同学年のお兄さんと、下には私より1歳上のお姉さんがいて、よくかわいがってもらった覚えがあります。今ふと思い出しましたが、現在は南区になっている豊成のゴミ焼却場に併設された温水プールにも一緒に言った覚えがあります。なんか、懐かしいなあ。
小中学校の学区はもちろん違うし進んだ高校も全く違うからその後お会いしていませんが、結婚して子どもさんもおられるようです。
実は今住んでいる自宅、その先生の家の近所というか同じ町内になるのですよ。関西から戻って住居を決めた先が、まさか、あのとき泊りに来させていただいた方のご自宅の近くも近くだなんてね、すごい御縁ですよ。関西に出る前に住んでいた場所は、もう少し北の隣の学区になるけど、こちらは完全に街中の学区です。
先生宅から戻ってしばらくしたら、今度はまた、増本さん宅にて4泊5日のお泊りの時期がやってきました。
この頃は、なんかよく隣の子らと善明寺の境内の広場で遊んでいた覚えがあります。三角ベースをはじめとした野球が多かった気がする。
野球選手の真似をして、打った後バットを放り投げてみたりもしました。何だかんだで、それは楽しかった。もっとも、プラスチックのおもちゃですから、そこは大丈夫。硬式は言うまでもなく、軟式であっても本格的な野球ができるほどの場所ではなかったからね。
それにしても、移転前のこちらの住宅地時代の某園は敷地こそ狭かったが、近くには岡山県総合グラウンドと言って、それこそ略称が「運動公園」と言われる場所があったから、遊び場って実は狭いようで結構広いようなところがありました。
善明寺の境内にしても、もちろん野球場ほど広くはないかもしれないけれどもそれなりの広さのある広場でした。
丘の上に移転後に至っては、近くにある学校法人が所有している野球の練習さえできる場所があってね、そこで一時期ソフトボールの練習なんかをしていたこともありました。ただ、普段使っているリトルリーグ関係者に怒られたこともあった。それからはめったに使わなくなったように覚えています。
こんなわけで、意外と外での遊び場には困らなかった覚えがある。
岡山市はそれなりの規模の都市ではあるけど、そこらの街中の公園や郊外の空き地みたいなところと違ってね、本当に、しっかりした遊び場に恵まれていたなって思えます。もちろんそれは悪いことではない。
ただ、他人の敷地に入り込んで遊ぶのは、いかがなものかとは思うね。
まして、所有者の許可を取りもせずにテメエらの遊び場にするなんてことをしていた移転後の某園のあの姿勢は、さすがにいかがなものかと思うね。あれを当時の園長は何故明白に禁止しなかったのか。
なんせ児童指導員自ら、あそこでソフトボールをなんて率先して行っていたからな。厚かましいのを通り越して、よくまあそんなデタラメができたものだ。
これ以上言うと罵倒にしかならないからこの辺にして、次に行きましょう。
その前に、もう少しだけ当時の子どもの状況を話させてもらいたい。
あの頃はまだ、外で遊ぶ子どもというのが普通にいたってことでね、これがプラモデルとか、それこそその後のファミコンや今時のゲームのようなことをして遊ぶような、室内で遊ぶばかりの子を、やたら外に出させたがる大人が多かったことを今も鮮明に覚えている。
まして鉄道模型なんて、私より少し年上で現在は医師をされている方で、何と小学2年生の頃、Nゲージ、9ミリの線路の鉄道模型だけど、かくも高価なおもちゃを使って遊ぶとは何事だと、担任の先生だったかに殴られたことがあると伺ったことがある。その時私は、居合わせた人たちに「たかが教師風情が」と思わず口走ったほどですよ。
子どもというものは外に出て元気よく、一人ぼっちじゃなくて何人かの友だちと一緒に遊ばないといけない。そうしてこそ社会性が身についていくのだって。
女の子はともかく、男の子であればなおのことよ。
移転先の小学校なんか、わざわざ、朝の20分間の休憩時は外に出て遊ぶようにしようなんてことをして、御丁寧にも、残ったりしていたらくそ文句を言われるようなこともあったけど、思い出しても虫酸が走るわ。
くだらん措置以外の何物でもない。
当時、昭和50年代のぼくらの少年期はまだ、実に牧歌的な子ども像が生きていたものだなと思う限りだが、まあ、そういう時代だったってことで。
一言総括して置いてやろう。
あの頃のアホな大人どものホザいておった「子どもらしさ」なんぞに未来なんかない。ほら見ろ、そのとおりの世の中になっただろうが。
残念だな、ってか。
・・・・・・・ ・・・・・ ・
「せーくんのルサンチマンが随分激しくなってきたわね。ここまでくると、この勢いがどこまで進むか、怖いよりむしろ楽しみになってきたわ」
そう言って、青い目の女性大学教員はグラスの紅茶を口にする。
グラスに残っていたビールを飲み干した対手の作家氏が答える。
「私の当時置かれていた環境がいかんせんああいう状態だったから、これは仕方ないよ。メルちゃんの御指摘というか御期待にどこまで応えられるかわからないが、ともあれ、このルサンチマンの正体を明らかにするには、それをきちんとここに出し切る必要もあるだろう。否、出し切らねばならんのですよ」
チェイサーの氷水をここでまたひと口飲み、彼は続ける。
「昭和の頃の子どもたちの遊びというものを全否定することはない。それはもちろんそうですよ。だけどねぇ、あの遊びがなかったら今の自分がだめになっているかと言えば、そんなこともないはずだ。あれがなければ今のワタクシがないなんてことは、残念ながらありませんよ。そりゃ、当時ああいう子どもらしさ像を信奉していた大人どもの買い被りってものです。先月、詩のひとつに、子どもらしさに未来などないと書いたが、そういう精神をもって青年期を送ったからこそ、あの当時のアホどもをおおむねすべて排除できたことは間違いない」
横のグラスの水を飲み、対手の女性がそれに答える。
「そこはあえて否定しないけど、せーくん、さあ、そろそろ増本さん宅でのお話に戻って」
作家氏、話に戻る前に少しばかり思いのたけを吐露する。
「わかった。でもメル姉、だんだんとこの問題の核心の中に入っていくことには、いささかならず怖さのようなものもあるのよ。
今までは、こうして語れないこと、語る言葉が選びきれないこともそうだが、それ以上に、きちんと人に伝えきれないことが、怖かった。でも今は、こうして語っていくこと自体に、怖さを感じられてならない。
炎のランナーでね、エイブラハムズがかつては負けることが怖かったが今は勝つことが怖いと、サム・マサビーニのマッサージを受けながら同僚のモンタギューに語るシーンがあるの。
まさに今、その怖さと似たものを胸中に感じているのよ。
おそらく、語り切った後はすがすがしさよりもむしろ空しさを感じるのではないかって、今は思っている」
作家氏はそう言って、またも冷蔵庫からビールを取り出した。
「これでビールが切れたな。また買い出しておかなければ。ま、とりあえずまだウイスキーもあるから大丈夫や」
「そんなに飲んで大丈夫かな。せーくん、お酒の力で何とかこの場を乗り切ろうとしていない?」
「していないと言ったら、嘘になる。だけど、それだけがすべてではない」
「それだけがすべてではないということは、どういうことなのよ」
「とにかく、語ることに集中したい。そのためには、他のことをできるだけ考えないようにしたい。散漫な話はしたくない。
それに加えて、こんな話を完全なシラフなんかでできっこねえ。
第一、酒を飲んでいようがいまいが、プロは人前に出したテキストがすべてであるがら、そのパフォーマンスを最大限にするために酒を飲むことが有効であると判断されるなら、飲んでそのパフォーマンスを最大限まで発揮するのがプロだ。
こんな時にはまじめにどうこうとか、そんなことはガキの説教場で言いやがれ。
そんなものはせいぜい高校の部活まででやっとれってこっちゃ」
そこまで言い切った作家氏、在庫最後のビールを今度は感から直接呑み始める。
「余程、せーくんには重い話だってことは、メルにもわかるよ。だったら、遠慮しないで飲んでいいから、しっかり話してちょうだいよ。じゃ、スタートするね」
メルさんは、パソコンの動画ボタンをクリックした。
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