第6話 煽り煽られ初喧嘩


 このように二人での生活が始まり、三日が経過した。


 七星堂は元々、凌雲が藩医をする傍らに開いていたので、診察する時間は一日中ではない。急患は別であるが、主に昼に診てからは、午後は往診を少しする程度で、大量の患者を受け入れているわけでもない。


 さてこの三日というもの、珍しく患者は一人も駆け込んでこなかった。

 医者が暇なのはいいことだという凌雲の教えを再び思い出しながら、椋之助は次に薬種屋から購入する予定の薬について考えていた。寝転がり、腕を組んで頭をのせ、天井を見上げながらの作業である。知識は既に頭の中に入っていたから、書物を開くのは特別な時だけだ。


 端から見ていたら、この三日間、椋之助はただごろごろとしているようにしか見えないだろう。身体動作が緩慢なだけで、思考は回転していたのだが、そのような事は外側からは分からない。椋之助にも、その自覚があった。


「……」


 椋之助は寝転がったままで、顔だけを音がしてきた隣室へと向ける。

 現在は一階奥の、食事をするのとはまた別の居間にいるのだが、横の座敷の方から掃除をする音が聞こえてくる。伊八だ。


 伊八は日に三度料理の他に、掃除や洗濯をしてくれる。家事という側面で評するならば、完璧としか言いがたい仕事ぶりだ。噺家を雇ったわけではないから、こうしてしっかりとおのの仕事をしてくれている以上、文句のつけ所はないはずなのだが、にこりともせず無愛想で黙々と仕事ばかりされていると、同じ家で暮らしている以上、息が詰まるというのが、椋之助の本音だった。


 椋之助なりに距離を縮めようと、お金のときもそうしていたように、一緒に食事をとっているのだが、その間も椋之助が一人で口を開いているばかりで、伊八は何を話すでもない。頷くことすらない場合もある。ただ、料理は美味だ。


 この日は、昼九ツになって、伊八が昼食の準備を終えたと椋之助に言葉をかけた。日に三度のその知らせのみが、伊八が率先して口を開く、貴重な瞬間である。


「今、参ります」


 勢いよく起き上がり、椋之助は食事をする部屋へと向かった。

 本日は、ひじきの白和しらあえが最初に目に入った。ひじきはそれなりに高価ではあるが、この季節が盛りだ。ひじきと千切りの人参が、豆腐と白みそで和えられている。香りから察するに白ごまも入っているようだ。


 比較するわけではないが、お金の料理は煮物が多かったので、伊八がこうして一手間加えて出す品は、椋之助には一風変わって見え、さらに美味しいことも相まって、とてもお気に入りの品になったのは間違いがない。


 伊八の料理は基本的に、汁物と白米、漬物と一品だ。食材は朝に棒手振りから購入している様子である。


「今日も美味しそうですね」


 定位置に腰を下ろし、椋之助が唇の両端を持ち上げる。無言でその正面に座った伊八は、台所に続く戸を背にしている。いつでもおかわりを用意してくれるという心構えが分かる。


「うん、やはり美味しいですね」


 早速箸を和え物に伸ばした椋之助は、両頬を持ち上げた。口の中に広がる柔らかな触感とごまの風味、ひじき特有の味に、人参の食感、いずれも椋之助の好みだ。それはよいのだが、本日も黙々と箸を動かしている伊八が無言なのが気になってたまらない。一切打ち解けられていないと感じるからだ。


「この三日、伊八はよく働いてくれますね。いつもご飯は美味しいし」

「……」

「一方の私は、貴方から見れば、怠惰に見えるんじゃないですか?」


 冗談めかして椋之助が問いかけると、ちらりと伊八が、顔を上げて椋之助を見た。


「上げ膳下げ膳、まるでどこぞの大名か将軍様にでもなった心地です」

「……」

「いやぁ、いいなぁ。貴方というなんでもやってくれる小者ができて」

「……」

「もしや私がやれといえば、なんでもやってくれるんですか?」


 従順なのは間違いないだろうと踏み、ちょっとした出来心で、自分が言われたら苛立つような言葉を椋之助は投げかけた。もう少し伊八の感情の機微を、たとえそれが怒りであっても見てみたかったからだ。椋之助の今の心境としては、いくら家事が上手かろうとも、不審者と共に暮らしているような心地でもあり、伊八のことがもっと知りたかったのである。


 すると目に見えて、伊八が不機嫌そうになった。いつも不機嫌そうではあるが、眉間に刻まれた皺に、怒りの兆しが見えた。しめたものだと考えて、椋之助は口角を持ち上げてさらに言葉を続ける。


「父上に頼まれて来たんでしょうが、そんなに家老が怖いんですか? いやぁ、難儀なものですね、身分というものは」


 こればかりはどうにもならない事柄だと承知の上で、椋之助は切り出した。


「……違う」


 結果、伊八が低い声を放った。椋之助はにやにやしながらそれを見守る。見る者の気持ちを逆なでする笑みだ。処世術としての笑顔にも長けている椋之助だが、その笑顔の種類は幅が広く、相手を怒らせる笑顔もまた心得ている。


「どう違うんですか?」

「俺は、怖いからご家老様の命に従ったわけじゃない。ご家老様を尊敬しているから、ここへ来たんだ」

「尊敬?」

「ああ、そうだ。大恩あるご家老様のお役に立ちたかったんだよ! それが、こんなぼんくら息子のお守りをするとは思ってもいなかった! 俺、は! ご家老様の家でご家老様のために働き、大切なご家族をお守りすると信じていたんだ!」


 伊八の眉がつり上がり、その瞳には、これまでの冷めたものとは異なる、熱い怒りの炎が宿った。語調も荒く叫ぶように言われた時には、さすがに椋之助も言葉に窮し、言い過ぎたと悟った。


「なんでお前みたいな藪医者の世話をしなきゃならないんだよ!」

「や、藪……」

「いいや、筍医者か? ああ、それも失礼だな。筍は煮れば美味しくなるものな!」

「た、確かに筍飯は美味しかったですが……そ、そこまで言わなくても……」

「お前に俺の気持ちが分かるか? やっとお役に立てると思って来てみたら、お前自身も言っていた通り寝てばかりいる怠惰な子供……俺と同じ歳だというのに、大の男が嘆かわしいにもほどがある!」


 激情に駆られた様子で、伊八がどうやらため込んでいたらしき鬱憤をぶちまけた。

 誘導したのは椋之助自身だったが、さすがにここまで言われれば、椋之助も頭に血が上る。


「貴方に何が分かるんですか! いいですか!? 医者は暇な方がいいんです!」

「凌雲先生の受け売りだろ? ああ、そうだな。だが、凌雲先生は健康であっても診て、健康を維持する手伝いをするのが大切だと話していたぞ! 暇な時医者は寝ているべきだなんて言ってないだろ!」

「うっ」


 思わず椋之助が呻く。


「なんであんなに立派なご家老様のご子息で、あんなに人格者の凌雲先生の甥御様なのに、こんなに不出来なんだ!」

「はぁ!?」

「俺は悲しい! すぐにでも出て行きたい!」

「だったら出て行けばいいでしょう!」

「俺の雇い主は椋之助様じゃない! ご家老様だ! ご家老様の許しなくそんなことが出来るわけがないだろ!」


 怒りと悲痛が滲んだ伊八の叫びに、口が立つ方である椋之助だったが心が抉られ、言葉を失った。同時に仕掛けたのが自分だと思い出し、今回はこちらが折れると決める。だから顔を横に背けて、一度深く息を吐いた。


「……申し訳ありませんでした。伊八も不本意だったんですね」

「あ……」


 すると伊八も我に返ったようだった。椋之助が視線を向けると、目を丸くし、何か言いたそうに、気まずそうに唇を震わせている伊八が視界に入る。


「父上に進言したいのは山々ですが、本音を言えば貴方がいなくなったら、私は家事が出来ないから困ってしまうので、諦めて下さい」

「あ、ああ……」

「ただ、貴方も生身の人間だと分かり、少し安堵しました」


 気を取り直して椋之助は微笑した。これは本心である。


「俺を辞めさせないのか……?」

「どうしてもそうしたいなら、伊八から父上に言って下さい。父上は人の気持ちを無下にするような方ではないです」

「……そうだな」

「それと口調、崩れきっていますが」


 伊八が焦ったように息を呑む。


「そのままで結構ですよ。人前では兎も角、名前には『様』も不要。私もその方が気が楽なので。本音で話すようにしましょう。共に一つ屋根の下で暮らすんですから」


 椋之助が穏やかさを心がけて微笑すると、決まりが悪そうな顔をしたあと、小さく伊八が頷いた。こうして二人の距離が少し縮まった……の、だろうか。椋之助は箸の動きを再開させながら、改めて伊八を見る。すると伊八は、一度お椀に視線を向けたのち、そのまま小さく、ごく僅かに口元を綻ばせた。なので椋之助は、よしとすることに決めた。



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