木一堂とあたしの或る日⑪

 男性は堰を切ったように、一気に話し終えると、鼻を軽く啜り上げた。


「私は妻が死んで以来、一度も女性とお付き合いをしたことがありませんし、そうしようとも思ったこともありません」


 それから、恥ずかしそうにに視線を上げると、今度は少し苦々しい笑みを浮かべた。


「ですが、私は生きています。生きている限り、前に進まなければなりません。だから、妻が死んでからどうしても手放すことの出来なかったこの一冊を、今日ここにお持ちしました」


 彼はコップに残った最後の一滴を地面に落とすように言った。


「もう……奥様を愛してはいないのですか……?」


 あたしは絞り出すように尋ねる。だが、それは答えの分かった問題を解くのと同じような、非常につまらない質問だと思った。


「もちろんまだ愛していますよ。ずっとずっと愛しています。ですが、だめなんです」


「ダメ……ですか?」


 あたしの言葉に、男性は注意していなければ聞き逃してしまいそうなほどの小さな声で「えぇ」と呟いた。


「私の息子は今年で十一になります。母親がいなくても、あの子は強く生きています。ですが、私はずっと妻の死を引きずっています。世界で一番愛した女性だから当たり前と言えば当たり前なのですが、それでも……私は前に進まなければならないのです。彼女をまだ愛しているからこそ、毎日見つめているこの小説が苦しいんです。だからいっそのこと……」


 何も言うことが出来なかった。なんと声を掛けるべきだろうか。頭の中で様々な言葉が浮かんでは消えていく。


「査定が終わりましたよ」


 いつの間に戻っていたのだろうか。店主が語りかけるような優しい声音で告げた。


「はい……」


 店主は男性の反応を確認すると、小さく頷いた。それから、あたしに机から降りるように言うと、静かにカウンターに備え付けられた椅子に腰掛けた。いよいよか。そう思うだけで逸る自らの心臓の音を治めるように、硬い唾を飲んだ。


「非常に申し上げ辛いのですが、これを買い取ることは出来ません」


 その言葉に、男性が息を呑むのが分かった。店主はそんなことなどお構いなしに言葉を続ける。


「何度も繰り返し読んだからでしょう。頁の擦り切れている箇所がまま見受けられます。それに、もう二、三度読めば破れてしまうような頁もありました。正直このような売り物にならない本をこちらで買い取るわけにはいきません。ご了承ください。それに……」


 店主はそこまで言葉を続けると、ちろりと視線だけでこちらを見た。それの意味が分からずにあたしが首を小さく捻ると、彼はこちらの様子など気にも留めない風で視線を男性の方に向け直した。


「続きはその子に言って貰いましょう。きっと、僕と同じ意見ですから」

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