木一堂とあたしの或る日⑦

「どうかしましたか?」


 男性は不思議な物を見るような目でこちらを見つめながら、そっと尋ねた。


「あっいえ……太宰治の『斜陽』だったので……」


 恥ずかしさから途切れ途切れの声で伝える。顔が熱くなっているのが触れなくても分かる。好きな本のことになるとつい大きな声を出してしまう癖をなんとかしなければならないな。あたしは顔を逸らしながらそんなことを考えた。


「おぉ、『斜陽』を知っていますか。太宰は非常に素晴らしい作家でしたが、勿体ない……」


 男性は慈しむような視線で『斜陽』の表紙を眺めると、小さく溜息を吐いた。


「勿体ない……ですか?」


「えぇ。勿体ない。彼はまだ三九歳という若さでこの世を去ってしまった。もし、今も生きていたら。そして、作品を書き続けていたらと思うと、残念でなりません」


 あぁ、そういうことかと納得してしまった。確かに、『グッド・バイ』は未完のまま終わってしまったし、もし彼が長く生きていたら、今もきっと素晴らしい作品を残し続けていてくれたことだろう。それを本人が望んでいたかは別問題になるのだが。


「彼が生きていたら歴史は変わっていたでしょうか」


 無意識のうちにそうぽつりと呟いていた。


「歴史、ときましたか。うーん、それは分かりませんね……。変わっていたかも知れませんし、そうではないかも知れません。たらればの話なんて、誰にも分かりませんから」


 店主はあたしの顔を見て微笑むと、もう一度手に持った『斜陽』へと視線を移した。どうやら男性の持ってきた本はこれ一冊のようで、他に本は無かった。見たところかなり読み込まれているらしく、表紙が少し破れていた。それに、手垢だろうか、所々黒ずんでいる箇所も見受けられる。あたしは失礼ながらこれで売り物になるのだろうかと思ってしまう。


「それでは査定をしてきますので、少しの間店内でおくつろぎください。ただ、ここから出て行かないこと。それだけはお願いいたします」


 こちらの不安をよそに、店主はにこりと笑みを浮かべてそのまま奥に引っ込んでしまう。


「どうして『斜陽』を?」


 失礼と思いつつも荷物を床に置き、軽く座るようにカウンターに凭れると、無意識のうちに男性の持ってきた本を思い出しながらそう尋ねていた。持ち込まれた本の状態を見るに、思い入れが深そうに見えた。


「あれですか?」


 男性は一瞬言うことを躊躇するような仕草をすると、やがて意を決したように少しだけ悲しい笑みを浮かべて口を開いた。


「これは……死んだ妻の残した、ものなんです」


「えっ……」


 その言葉で、あたしの心臓が冷えていくのが分かった。なんてデリカシーの無いことを聞いてしまったんだと、言いようのない申し訳なさが心を曇らせた。


「もう五年も前の話です」


 男性はそう言って寂しげに微笑むと、過去を懐かしむように視線を遠くへと投げた。


「私の妻は昔から身体の弱い女でした――」


 男性はそれから、ぽつり、ぽつりと、言葉を選ぶように。いや、昔をなぞるように言葉を吐き出した。

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