そんな私に声をかけてくれる人は二人いた。一人目はアレイドだ。

「ロセ、ずっとここにいたの?」

 鉛筆を握った手を止めて、私は隣に座った彼を見る。

「うん。みんな、どこか行っちゃったし」

「……そうだな」

 アレイドは私と同じだった。おじさまから何も聞いていなくて、おやつをもらえない。

 そのことを知っているのか、ふと気になってつぶやいた。

「わたし、お兄様やニャンシャとは違うから」

 はっと息を呑むアレイド。視線をスケッチブックへ戻して、私は紙に鉛筆の先を走らせる。

「お二人とも、ここにいらしたんですね」

 もう一人、私を気にかけてくれたのが執事のタルヴォンだった。

「クッキーを持ってきたので、三人で食べませんか?」

 にこやかに微笑む彼の手には四角いクッキー缶。

「ルーヴォも食べるのかい?」

 と、アレイドが不思議そうにたずねると、タルヴォンはいたずらっ子のように笑った。

「旦那様には内緒ですよ」

 彼は優しかった。私やアレイドをいつも気遣ってくれた。

 おじさまの目が届かない場所で注がれる優しさに、私はいつしか、ひどく救われるようになっていった。生きる希望だった、と言い換えてもいい。


 九年前、リオお兄様がおかしくなった。

 お父様と仲が悪いことは知っていた。お兄様も私と同じ、両親から見てもらえない子どもだということも。

 だからお兄様はよく私と話をした。お互いに相手が自分たちしかいなかった。

「何かあったの? リオお兄様」

 その日もお父様と何かあったらしいのを察して、話を聞こうとしただけだった。だけどお兄様は、それまでの知的で冷静な彼ではなかった。

 部屋で二人きりになった途端、彼は豹変ひょうへんした。

「服を脱げよ、ロセ」

「え? な、何で服……?」

「いいから脱げよ!」

 ――事が済んだ時、どうしてこんなことになったのだろうと思った。


 以来、事あるごとにお兄様は私を犯した。いつも無理矢理で怖かった。だけど、お兄様が泣きそうな顔をして腰を振るから、気の弱い私は受け入れるしかなかった。

 この関係に気づく者はいない。両親はおろか、使用人たちもニャンシャばかりにかまうから。

 この関係を異常だと指摘する者もいない。気づいていないのだから当然だ。

 私もお兄様もこの関係が何なのか、たぶんよく分かっていなかった。正しいか間違えているか、何も分からずにそれは続いた。


 唯一指摘してくれたのはタルヴォンだった。

「嫌ではないんですか?」

 私がぽろっとこぼした話に対して、彼は苦しそうな顔をして見せた。六年ほど前のことだ。

 先に大人になったアレイドは家の仕事で忙しくしており、もう屋敷へ来なくなっていた。

「……嫌だけど、もう慣れちゃった」

 視線をそらしてそう返すのが精一杯だった。そんな反応をされるほど、おかしいことだとは思わなかったからだ。

「そんな……いけません、メロセリス様。慣れていいことではありません」

 真剣な声で彼が言う。よほどのことなのだと、ようやく私は気がついた。しかし、受け入れられなかった。

「大丈夫よ、私は大丈夫だから」

「……いえ、大丈夫ではありません」

 タルヴォンによって入れられた亀裂は、私に正しさを教えようとしていた。

「イリオン様のことなら、旦那様も話を聞いてくださるかも。どうにか状況を変えられないか、相談してみましょう」

 苦しい顔のまま言う彼へ、私は慌てて首を横へ振った。

「ううん、やめて。おじさまが私の話を、真面目に聞いてくれると思えない」

「メロセリス様……」

 彼は迂闊うかつだった。「そうですよね」と、私から視線を外して考えこむ。

「ですが、このままでは……」

「ううん、このままでいい。私が我慢すればいいだけだもの」

 我慢するのには慣れていた。誰にも期待せず、信じず、ただ過ぎるのを待てばいい。今さらそれを苦痛と思うような心は、もう私には残っていなかった。

 タルヴォンは「お力になれず、申し訳ございません」と、悔しそうに告げた。

 私は何も返事をしなかった。どんな行動を起こそうとも、未来はだいたい決まっている。変えられないのだ。

「どうせ傷つくだけなら、何もしない方がいい。ルーヴォも、本当に何も気にしなくていいから」

 それ以来、わたしはおじさまの屋敷へ行かなくなった。


 十五歳になり、十六歳になった。

 貴族の娘ならいい年頃で、お見合い話の一つや二つあるものだ。でも、私は両親から期待されていなかった。貴族の家に嫁げると思われておらず、私も毎日絵を描いて過ごしていた。

 この頃には妹のお下がりのドレスを着ていた。髪飾りや靴も、全部妹からもらっていた。

 妹の方が胸が大きいから、ドレスはいつも自分で直した。髪飾りを使わなくてもいいように、髪の毛は自分で短く切った。靴はどうせヒールの部分がすぐに壊れるから、最初から壊して取り外した。

 自分からひどい格好をして、私はみにくい貴族の娘になった。どうせ見合いの話はないし、私を愛してくれる人もいない。

 私は絵を描いていられればよかった。

 リオお兄様が結婚したのはこの頃だった。旅先で出逢った女性と恋に落ち、曲がりなりにも貴族同士ということですんなりと話が進んだのだ。

 お義姉ねえ様は優しい人でわたしにも声をかけてくれた。お兄様が好きになったのも理解できると思ったけれど、わたしの方から距離を取ってしまった。内心ではどう思われているか分からない。いい人だからと信じてしまったら、あとは裏切られるだけだ。

 リオお兄様は結婚したことで以前より落ち着いていた。でも嫌なことがあると、私の部屋へ来るのは変わらなかった。結局、私に対してしか吐き出せないのだ。

 可哀想な人。お義姉様はきっとお兄様のこんな表情を知らない。今は幸せだとしても、いつかゆがんでひびが入るのではないかしら。


 私は彼女たちのため、家の中にいる時間を減らそうと思った。東の川辺かわべりまでイーゼルと椅子をかついで運び、キャンバスを置いて、パレットにさまざまな色を広げた。

 ずっと自分の部屋で絵を描いていたから、外で描くのは新鮮だった。気分も変わって楽しかったし、何より自分の絵に対する見方も少し変わった。

 それまでは光があまりない、薄暗い部屋で描いていた。使う色もどこかどんよりとして暗く、誰かに見せられるものではなかったことに気がついたのだ。

 もっといろんな色を使おうと思い、これからは毎日川辺りへ来ることに決めた。

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