それから数日も経たないうちに、あたしはとんでもないことを聞いてしまった。書斎で彼がタルヴォンと話していたのだ。

「あいつはダメだ。金遣いは荒いし、訳の分からないことを言い出すし。まったく、甘やかしすぎたのが悪かったな。あんなのに遺産を相続させるわけにはいかない」

 彼ともう一度話をしようと思っていたが、あたしは息を詰めて扉越しに耳を澄ませた。

「そこでだ、ルーヴォ」

「はい」

 執事の返事の後で、少しだけ間があった。次に聞こえてきたのはため息が一つと、彼が真剣な話をする時の低い声。

「僕が死んだら、遺産はすべてお前に相続させようと思う」

「……まさか」

「本気だよ。僕が家族や親族とはとうに縁を切っていること、知っているだろう? ミランシアはさっき話したとおりだし、遺産を渡してもいいと思えるのは、もうルーヴォしかいない」

 執事の戸惑うような息遣いが聞こえた。当然だ、本来なら遺産は養女であるあたしのもの。それなのに、あの人は執事に相続させる気でいるのよ。まったく正気とは思えなかった。

「会社の経営まで任せる気はないから、すぐに売ってくれていい。その他のものも、全部お前の好きにしなさい」

「ですが、私は執事です。旦那様の遺産を相続するなど、できません」

「それなら、表向きはミランシアにあげよう。だが、管理は絶対にお前がするんだ。いいね?」

 彼の意思は固かった。どうしたってあたしには使わせたくないらしい。

「……分かりました」

「納得のいっていない顔だな? お前は昔からそうだ、真面目すぎる」

 声の調子が少しだけ高くなる。

「喜べとは言わないが、僕が人生をかけて築き上げた大金を譲ろうと言うんだ。本当はミランシアのことなど捨てて、自由に生きてくれたっていいんだがね」

 ひどい、最悪だ。彼はあたしを見捨てただけでなく、タルヴォンにもそうさせようとしている。――脳裏に映るのは、いつかの穏やかな日々。三人で楽しく暮らしていたあの頃。

 悲しみに耐えきれず、あたしは静かに自分の部屋へ戻った。もう何も信じられない。

 彼があたしのことを愛していないのは確実だった。もう一度話をすれば、今度は分かってくれるかもしれないなんて、淡い期待を抱いていた自分が情けなかった。

 何度も愛を確かめあったはずのベッドに顔を埋め、とにかく涙が枯れるまで泣いて、泣いて、泣き続けたわ。

 日が暮れてきたところで、ふとあたしは顔を上げた。涙の跡が残ったまま窓の外を見つめると、少しだけ欠けた月が見えた。満ちていないのに強く輝くその姿を見ていたら、不思議と冷静になった。

「そうよ、あたしはまだあの人を愛している。こんなにも深く、愛しているのよ」

 大事なのは自分自身の気持ちだ。彼に何を言われようとも、「オルテリアン夫人」はあきらめないわ。そう、恋愛小説のヒロインのように、どんな逆境も乗り越えてみせる。

 そのためには小道具が必要だわ。あたしの物語がどんな結末を迎えるかは知らないけれど、重要なアイテムほどのお守りはない。

 ゆっくりと立ち上がり、書き物机へ近づいた。引き出しを開けて、いつか護身用に買ってもらった拳銃を取り出し、弾が入ったままになっていることを確認する。

「最初に愛をささやいたのは、あなただったわよね。それなら最後まで責任を取ってくださる? あたしが費やした少女時代の責任を」


 子どもがほしいとは二度と言わなかった。

 遺産相続の話だって聞かなかった振りをした。

 あたしはそれまでのあたしを貫き、虎視眈々と物語の山場が来るのを待っていた。

 そしてついに物語は動き始める、新たな登場人物の出現によって。


 ――街で噂の投資家キシンス・マシュフィ。

 噂はすぐに広まって、金儲けのことしか頭にないとか、本当は詐欺師なんじゃないかとか言われていた。

 そんな彼は不思議なことに、夫と意気投合していた。

 一ヶ月くらい前のある日、あたしがニャンシャとお茶をして帰ってくると、応接間がにぎやかだった。

「やはり君の話はおもしろいな。都の方にはしばらく行ってないから、そんなことになっているとは知らなかった」

「よければ紹介しましょうか? 参入するなら早いうちからした方がいいですよ」

 あたしにビジネスの話は分からない。しかし夫も金儲けが大好きだから、その点で気が合ったのだろう。

「ぜひと言いたいところだが、なかなかそんな余裕がなくてね。都へ行って帰ってくるとなれば、一日がかりになるだろう? 僕ももう年だし、あまり無理はしたくない」

「そうですね、分かりました。オルテリアン氏の鋭い嗅覚、間近で見られるのを期待していますよ」

 キシンスは口が上手い。きっと頭の回転が早く、言葉がするすると出てくるタイプの人間だ。たしかに詐欺師っぽい。

 あたしは夫を信じていたが、できるだけキシンスには近寄らないようにしようと思った。


 そして二週間と少し前、夕食の時に夫が突然言い出した。

「キシンスはいい若者だ。街で噂されているような怪しい人なんかじゃない」

 あたしは何も言わずに視線だけやり、一口大に切り分けたステーキを口へ運んだ。

「どうにかして誤解を解いてやりたいな。ルーヴォ、何かいい案はないか?」

 グラスへワインを注ぎながら執事は返した。

「それでしたら、パーティーを開くのはどうでしょう? 街の有力者を集め、懇親会をするのです」

「懇親会か、いいアイデアだな」

「たしか、キシンス様はまだイリオン様とお会いになられていませんでしたよね。懇親会に彼を招待し、旦那様が紹介なさるのはどうでしょう?」

「ああ、それがいいな。キシンスのように未来ある若者を呼び、親しくなってもらえれば、きっと彼も喜んでくれるだろう」

「もちろんです」

 にこりと執事が微笑み、夫は機嫌よく言った。

「ルーヴォ、招待客の選別と招待状の手配はお前に任せる」

「かしこまりました」

 この街は小さい。すでに噂が広がっているのに、人が集まるとは思えなかった。いくら夫主催であっても、だ。

「日取りはキシンスと相談しよう。彼も多忙な人だからな」

 と、笑う夫から視線を外し、あたしは黙々と食事を進めた。一体何を考えているのか、不思議でならなかったが口出しはしなかった。

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