数年前、ミランシアは突然「オルテリアン夫人」を名乗り始めた。あろうことか、スィルシオおじさんの妻を演じ始めたのだ。

 最初に聞いた時は呆然とした。どういうことだかまったく理解が追いつかなかった。同時に胸に穴が空いたような、空虚な感覚も覚えた。

 裏切られたなどと言うつもりはない。でも、言葉にしがたい感情に襲われて、しばらく仕事が手につかなかった。

 タルヴォンもこの状況には困っていたようで、どう扱ったらいいか苦慮していた。市場にあるうちの店へ野菜を買いに来るたび、うんざりした表情でため息をつくのだ。

「お嬢様と呼ばれるのが嫌みたいで、最近では奥様とお呼びしないとならないんです」

 苦労しているなと思う一方、オレもため息をつきたい気持ちだった。

 今にして思えば、酒をよく飲むようになったのはこの頃からだ。胸に巣食う空虚を安酒で埋めないとやっていられなかった。可愛げのない馬鹿女のことなど、さっさと忘れてしまいたかったのだ。

 なぁにが「オルテリアン夫人」だ。ただの養女が何を言っているんだか。引き取ってもらって衣食住を与えられておきながら、それだけでは飽き足らず、妻という立場まで得ようとしたのか? まったく、頭が悪いにもほどがある。

 しかし、どうやら彼女は本気らしい。本気で彼を夫として愛しているようなのだ。

 一度、おじさんはそのことをどう思っているのか、たずねたことがある。タルヴォンは眉尻を下げ、ため息まじりに答えた。

「好きにさせろ、とのことでした。飽きたらやめるだろうとお考えのようです」

「……そうか」

 おじさんがそう考えているなら仕方ない。オレには関係ないし、そんな彼女を引き取ったおじさんが悪いのだ。


 そして現在にいたるまで、ミランシアは依然として「オルテリアン夫人」を名乗っていた。彼女の中で確固たる真実として定着してしまったようなのだ。

 そんな彼女がもし、おじさんとの間に何か起きたら? たとえば喧嘩でもして仲違いし、おじさんへ向かっていたはずの愛情が憎悪へ変わっていたとしたら?

 いかにもありそうな話じゃないか。もとより「オルテリアン夫人」を名乗り始めた時から、彼女の頭はおかしくなっている。そんな状態がずっと続いているのだから、今さら何が起きたって不思議ではないだろう。


 だが、怪しい人物はもう一人いる。

 これはタルヴォンから聞いた話だ。約一年前から彼は、とある少女にしつこく求愛されていた。その少女というのがニャンシャ・レインスウォード。メロセリスの妹だ。

 ニャンシャは幼い頃から美少女として街では有名だった。

 その美しさは成長するほど磨かれていき、どこへ行ってもちやほやされた。おじさんが彼女を気に入っていたのも、美少女だったからに違いない。

 ただ、そのせいでニャンシャは高飛車でわがままに育ってしまった。見た目がいいから寄りつく男は絶えなかったが、女性からはだんだん距離を置かれるようになった。気づけば友人はあのミランシアだけ。

 性格の悪い女同士で仲良く歩いているところを、何度か見かけたことがある。ニャンシャも気が強いから、ミランシアとほどよく張り合えたのかもしれない。

 実はオレも昔、ニャンシャがまだ小さかった頃は優しくしていた。弟と彼女が同い年だったのだ。それで一時期、よく一緒に遊んだことがあった。

 今でも彼女を見かけると、つい目がいってしまう程度には見てしまう。陶器のように白い肌、腰まで伸びた淡い金髪は美しく波打ち、明るい茶色の瞳には目力があって、華奢きゃしゃながら豊満な胸に、鈴のようによく通る高い声。この街にニャンシャを知らない人などいなかった。

 それが何故、執事に求愛することになったのか?

 タルヴォンによれば「あなたはちっともわたしになびかない」と、言われたらしい。考えてみればたしかにそうだった。昔からタルヴォンはニャンシャをちやほやしない。言い換えると、他の子どもと同じお客様としての扱いしかしないのだ。

 使用人なんだから当然だろうと思ったが、タルヴォンにクッキーをもらった身としては、なるほどそれも依怙贔屓えこひいきと言えるのかもしれない。

 しかしタルヴォンは執事だ。恋愛をする暇などなく、ニャンシャから迫られても断っている。何度も何度も。

 つい三週間前のことだ。彼女がいつものように屋敷へやってきては、仕事をしていたタルヴォンの邪魔をしてきたそうだ。ただ会話をかわすだけならよかったが、彼女はその美貌びぼうと巨乳を押しつけてきたという。

 相手は貴族のお嬢様。強く出るわけにもいかず困っていると、帰宅したおじさんに目撃された。状況を察したおじさんは、彼女をその場で注意したそうだ。

 タルヴォンは助かったと思う一方で、ニャンシャがこれまでになく怖い目をしていたとも語った。

 オレが推測するに、それは殺意だ。女は自分のしていることを邪魔されると、ひどく不機嫌になる。尊敬するおじさんであっても、ニャンシャは許せなかったのではないだろうか?


 だが、彼女が自らの手で殺人を犯すとは少々考えにくい。男性に対しては積極的だが、基本的には周りにいる誰かにやってもらうのが彼女にとっての普通だ。

 となると、誰かに依頼した可能性があるのではないか?

 誰かと言えば、兄のイリオン・レインスウォード。男爵家の長男で黒い噂の流れている、疑惑の男である。

 イリオンはニャンシャの八歳年上の兄だ。彼の母親は爵位も何もない普通の家の娘で、親族からの反対を押し切って結婚したそうだ。しかしイリオンを産んで数年後に病死。後妻ごさいは由緒正しい家柄の貴族の娘で、その子どもがメロセリスとニャンシャだった。三人は腹違いの兄妹なのだ。

 そのためか、イリオンの周りにあまり人はいなかった。家では寂しそうにしていると、いつかメロセリスから聞いたことがある。

 怪しい噂が流れ出すようになったのは、数年前からだ。

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