伝声

廃人仙女

第1話

伝声師でんせいしが出現すると、その国は滅びる運命にある”


俊野しゅんやは今日もまた、鉄を宮殿の門外まで運んでいた。

 他国と戦などする様子は全く見受けられないのに、地海ちかい国主は奴婢に絶えず鉄を運ばせている。

 地海国は、国主とその一族以外は全て奴婢の身分しかいない。そのように定められたのは現在の国主が即位してからだ。それまでは良民や商民など中級階級の者もいたが、今では国主らのような最上級階級か、奴婢のような最低階級の者しかいない。

 俊野は属するのもまた奴婢身分だ。それも雑婢ざっぴと呼ばれる、奴婢の中でも最低位に属する地位。その身分の者はただ、日々の雑用をすることだけが許されている。

 一日の労働を終え、奴婢たちの住処である隷処れいしょへととぼとぼと歩いていた時だった。

「俊野!」

 その声は、俊野の背後から聞こえていた。だが、彼は一切振り返ろうとしない。

 しびれを切らしたのか、その声の主は軽い足取りで走り、ついには俊野の右腕を掴んだ。

「公主殿下。離していただけませんか」

 だが、公主と呼ばれた少女はより強く俊野の右腕を掴む。

 彼女は地海国の第二公主で、母親の藍妃らんひを早くに亡くしてからは、庶出にも関わらず国主からの寵愛を受けている。まあ、静和せいわという落ち着いた名だとはとても思えないほどにお転婆ではあるが。

「嫌よ。だって、離したらどうせ逃げるんでしょう?」

「そんなこと致しませんよ。今は、逃げる気力もないですからね」

 俊野は丸一日鉄運びをしていたこともあり、本音を言ったのだが、当の静和公主は全くと言っていいほど信じる素振りを見せない。それはきっと、彼女がこうして追いかける度、俊野が常に何かしらの言い訳を用いて避けているせいもあるからなのだろうが。

「ふん。まあ、いいわ。今日は本当に疲れているみたいだし」

「恐れ入ります」

「ねえ、今夜は月がきれいだから一緒に見ない?」

 言われて初めて、俊野は天を仰ぐ。混濁した黒夜の空には、わずかに赤みがかった満月が浮かんでいた。

 だが、肝心の俊野にはその月がどれほど美しいのかがまるでわからない。普段夜道を一人歩いているときにも空を見上げることなどただの一回すらもない。丸一日働いた後で、夜空を鑑賞する余裕などあるわけがないのだから。

「結構です」

 俊野は心の底から拒絶したつもりだったが、静和公主はまた逃げるための言い訳だと思ったらしい。すぐに俊野の腫れ上がった右腕を掴み、強引に歩かせる。

「駄目よ。今日の月は特別なんだから。絶対に一緒に見てもらわなくちゃ」

「特別なのでしたら、それに見合う方と共に見に行かれてはいかがですか」

「嫌よ。今夜はあなたと見るって決めてるんだから」

  静和公主に連れられて俊野が辿り着いたのは、海池と呼ばれる宮殿から大して離れていない離宮の庭園内にある池だった。海池という名は、池として掘られたはずの場所に湧き出た水がまるで海水のように塩辛かったことから名付けられている。

 しかし、自らこの場へ来たはずなのに、静和公主は不満げな声を上げる。

「おかしい。どうして?」

「どうかなさいましたか?」

「あのね、ここだったらお前も入れる場所に池があると思ったの。どうしても、池に映る月を見たくて。宮中で見たとき、本当に美しかったから。それなのに、海池には何も映っていないみたい」

 手を振り解かぬまま、俊野も池を覗き見る。確かに海池は白濁していて、月どころか庭園を照らしている灯籠の光すらも映っていない。

(よかった、これでようやく逃げ出せそうだ)

 と、俊野は思ってしまったが、静和公主の気落ちした顔を見てしまうと、どうしても心がほだされてしまう。

「公主殿下。月はやはり夜空に浮かぶ様子が最も美しい。池に映っていなかったからと言って、そう気落ちしないでください」

「うん。じゃあ、今宵はわたしと一緒に月を見てくれる?」

 なぜ静和公主がこうも月鑑賞にこだわるのかがわからぬまま、俊野はとりあえず頷いた。

 俊野が再び夜空を見上げると、月はまるで血のごとき紅に染められていた。

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