スペクトラムブルーをかき消して

矢車まろう

カーマインが混じって

「もう、いいかな」

 自室でガリガリとデッサンを繰り返して、もう何時間。閉めることすらしていなかったカーテンからべにが差してきた。色も無い静物画せいぶつがが赤に塗り潰される。

 あまり描きすぎていても右手は汚れ切っているし、指先が狂うかもしれない。一度休憩を挟むつもりで、肘でドアノブを押し下げた。

(最近は何を描こうとしても、心が『グワ』っとならないのよね)

 先ほどの陽射しよりも濃い絵の具で、きっとあの静物たちも別物に塗り潰されるのだろう。

「お、紗枝さえおはよう」

「おはよう? ねえ兄さん、今何時」

「五時半。今日もまた随分と集中してたけど、あと何時間でできそうなのさ」

「あともう少し。……今日は学校もないし、気分転換に外でも出ようかな」

 蛇口を閉めて、手を拭いて。青にほんの少しの黒を落としたような気持ちを変えたくて、さっきまで考えていなかったようなことがつい口からこぼれた。外を見ればまた変わるかもしれない。

「そ。朝飯は置いとくから食いたい時食いな」

「うん」

 気もそぞろになっている私の様子を察したのか、目の前で卵焼きがラップに覆われる。

 

(そこからライトが当たれば、いい構図になるな)


 私の脳は、最近は何でもモチーフに見えるらしい。もう高三の夏。美大の受験はすぐそこまで迫っていて、毒が頭を支配するように、焦燥に駆られているのが、ふと俯瞰して分かっていた。




「じゃあ行ってくるね」

「おーう」

 大学生を謳歌している兄に見送られながら、門扉もんぴを開けて道路に出る。日に程よく照らされた樹木の葉のグラデーションは美しいのに、心の底から美しいと思えたのに、夢中で描いてたのに。感性が少しずつ死んでいるみたい。

 路面に花が咲いている。逞しく、木漏れ日の下で綺麗なヒメジョオンの淡紅藤あわべにふじ。これを隅々まで描けたら……。

『今回あなたが描きたいのはこれでしょう? じゃあ余計なものは細かく描かずにメリハリをつけなきゃ』

『もっと対象を観察して』

 ――ここは要らないと削られたら?

 今の私には外は情報過多かもしれない。胸に下げたミラーレスが重い。

「公園で休んだら帰ろう」

 朝六時の爽やかな水色を眺めた。




 公園の砂場で、私は小さな城を作っている。見ているだけではやはりつまらない。

 手触りが所々異なって心地良い。手は夜明けと同じ――いやそれ以上に汚れているけれど、一人で誰にも干渉されることなくする作業は楽しい。


「こんなところで何作ってるんですか? 清滝きよたきさん」


「え?」

 ……きつくようなアメトリンが、私の顔を覗いていた。

「……不審者に見えますよね。同じ予備校に通ってる津城つしろです」

「あ、あー……。ごめんなさい私人を覚えるの得意じゃなくて」

「いやいや、コース違うしよくよく考えたら知らない方が当たり前ですんで。お気になさらず」

 砂場の淵に津城くん――アメトリンくんと命名した――の膝頭が見える。

「小さな城、作ってたんです。砂場の手触り心地よくて」

「あーそれ分かります。俺、彫刻科志望なので。こんな感じで……」

 濡れた砂を両手にすくって、丸めてくっつけて。目の前で、命が吹き込まれた。

「よく朝にここ寄って、なんかモノ作っては遊んでるんです」

 チラリと見た彼のアメトリンは、より光をまとってイキイキとしている。制作されている小さな砂のネコと一緒に。

 眩しくて、美しくて、ファインダーを覗いて写真を撮った。

「ん?」

「っ! す、すみませんそのえーといろいろ参考になるかと思ってですねはい」

「……、ははは! 別に平気ですよぉ肖像権で訴えたりしないので」

「後で訴えるはナシですよ。……もし良ければですが、この写真を元にその、今水彩画描いてもいいですか? お代はお金が無いので現物で」

 相手は初対面とはいえ同じ美大志望。好奇心に抗えず、私は迷ったが願いを口にした。

「もちろん。そのでかいバッグ画材だったんですね」

「私もよくこの公園で昔絵を描いてたので。今日は制作の気分転換に来たんです」

 ケースを片手にそばのベンチに座る。固形絵の具の容器を開けて、私は水筆を取り出した。頭の中は『目に映った新鮮なモノを描きたい』『紙の上に収めたい』で埋め尽くされたまま、画用紙の上に水を垂らす。

「あ……津城さん」

「はい?」

「その、自由にしていただいて大丈夫ですので! なんなら一旦帰るでもなんでも」

「んー、はい。出来たら声かけてくださいね」

 

 泥をなでつけるアメトリンくんは、やはり生きた芸術品みたい。生命活動によってより磨き上げられる芸術品。

(不思議な人……)

 影は紫に、光は黄色く。絵の具たちを滲ませ、重ね合わせながら乾かす。視界の端には、私の作った不恰好な城と整ったくるみ割り人形の塑像が散らばっている。

「そういえば、なんでア、津城さんは私のこと知ってたんですか?」

「え? ああそれは清滝さん、有名だから。教室前によく飾られてるでしょ、絵」

 笑って話す彼に、一瞬で私の手の中に汗が噴き出した。

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