第2章【1】

 湯浴みを終えて私室に戻ると、ヘルカがロザナンドの髪を丁寧に整える。この時間がなければ、ロザナンドの頭は荒れていたことだろう。だが、髪の手入れはロザナンドにとって重要ではなかった。

「ねえ、ヘルカ。ユトリロはどういう人?」

「そうですね……」

 ヘルカは手を止めずに思考を巡らせる。

「ユトリロは何かを隠していることは確かですが、殿下や魔王陛下を裏切ることはないように思われます」

 ヘルカは確かめるようにしながら言った。ヘルカが自分を欺くことは絶対にない、とロザナンドは考えている。ヘルカはロザナンドが信用する部下のひとりだ。

「ユトリロの忠誠心は本物です。千里眼を欺くようなことはしないかと。お疑いになられる必要はありませんわ」

 ヘルカは自信を持っている。何かを隠しているという点は、さほど重要ではないようだ。ヘルカは真実を語っている。

「ヘルカがそう言うなら間違いないんだろうね。ヘルカが僕を裏切ることはないから」

「もちろんです。殿下を裏切る可能性のある者を、魔王陛下が殿下のそばに置くことはありません」

「そして口は硬い」

「はい、もちろん」

 ヘルカの確かな答えに、ロザナンドはひとつ頷く。

「今日、ユトリロとシェル、ラーシュ、ニクラス、アニタ、ディーサに会った。他に警戒すべき者はいる?」

「魔王陛下に仇為す者がいるかということですね。実力としては遠く及びませんが、騎士見習いのマテウスと宮廷魔法使い見習いのアイラは、魔王陛下に反感を懐いております」

 見るからに明らかということは、見習いであるふたりに欺くだけの実力がないということだ。そういった者は大抵、脅威にはなり得ない。

 ロザナンドは眼帯を外し、ふたりを視る。物語上、このふたりが隠し攻略対象であることはあり得ないようだ。ゲームという点で見ると、いわゆるモブに当たるように思う。

 なぜ隠し攻略対象が見えないのだろう、とロザナンドは考える。思い出せないことも不可解だが、千里眼にその姿が浮かぶことがないのは、巧妙に隠しているか、そもそもいないという可能性もある。隠し攻略対象がいる、ということ自体が思い違いである可能性も否定できないだろう。

「もし他に脅威となる者がいるとお思いになられるのでしたら」と、ヘルカ。「コニーに調査させるとよろしいかと。コニーは若いですが、実力としては充分です。隠密として活動できるはずです」

「そう。ヘルカがそう言うなら」

 ロザナンドは「報せ鳥」を形成する。この時間ならすぐに届けることができるはずだ。

 ロザナンドはひとつ息をついた。

「ヘルカから見て、僕の千里眼はどれくらい正確だと思う?」

「そうですね……八割方、といったところでしょうか。狙って視れば確実性が上がるでしょう」

「狙っても視えないとしたら?」

 試すようなロザナンドの視線にも、ヘルカは自信を湛えた表情を崩さない。

「そのことに関する事実がない、とお考えになっても問題はないかと思われます」

「事実がない?」

「例えば、他に反逆者がいるとお考えになって視ても何も視えないということでしたら、反逆者はいないということです」

「でも、確実性は八割方ということでしょ?」

「そうですね。ですが、残りの二割を案ずるより視えている八割方を重視するべきかと。視えないものを案ずるのは、殿下らしくありませんわ」

 らしくない、とロザナンドは心の中で独り言つ。いまのロザナンドがロザナンドらしくないとしても不思議はないが、本来のロザナンドは疑問を持つことはなかったようだ。案じているというわけではない。ただ、引っ掛かっているのだ。

 ロザナンドはひとつ頷いた。

「ヘルカがそう言うなら、とりあえずユトリロを信用するよ」

「はい」

 ヘルカは少し安堵したように見える。ロザナンドが自分を信用していることで自信を持ったようだ。ロザナンドは偽りを見抜くことができる。ヘルカがロザナンドを欺くことはないと、千里眼によって証明されたのだ。そもそもヘルカを疑うつもりはなかったのだが、多少なりとも案じていたらしい。ヘルカを安心して信用しても、問題はないのだろう。



   *  *  *



 瞼の裏に光が見える。あまりの眩さに目を開くと、草花が陽の光を受けて輝いている。その中で、ひとりの少女が柔らかく微笑んだ。そして、彼に手を伸ばす――



   *  *  *



 月明かりの照らす真夜中。ロザナンドは不意に目を覚ました。

(隠し攻略対象……僕だ……)

 なぜそんな簡単なことにも気付かなかったのだろう、と自分でも呆れてしまう。自分以外の者が隠し攻略対象であると考えていたため、千里眼には何も視えなかったのだ。隠し攻略対象が自分であるなら、誰の姿も視えないのは当然である。

 夢の中で眩く微笑んでいた少女――彼女がヒロインのロレッタ・カルロッテだ。その輝きが教えてくれた。

 それから、ロザナンドには思い出したことがあった。ロザナンドの左目が千里眼になった理由。ロザナンドの左目は、魔王が潰したのだ。さらに、ロザナンドの母エルヴィのこと。ロザナンドの記憶では、エルヴィはロザナンドを産んですぐ病気で亡くなったとある。しかし、左目の千里眼には視えた。魔王がエルヴィを殺したということ。そのため、ロザナンドには反逆の可能性があったのだ。

 早めにその記憶を取り戻せたことは、ロザナンドにとって僥倖であった。それが視えていれば、ある程度の目星をつけることができる。またひとつ先に進んだようだ。



   *  *  *



 ヘルカの手を借りて身支度をしているとき、コンコンコン、とドアが軽快にノックされた。どうぞ、とロザナンドがかけた声でドアを開いたのはニクラスだった。

「ご報告に上がりました」

「どうだった?」

「シェルとラーシュは真面目に指令をこなしています。シェルは勇者候補ロレッタ・カルロッテの情報はまだ掴めていません。人間も馬鹿ではありませんから。ただ、ラーシュは王都に視察団を送り込むことに成功しました」

「随分と簡単にいったね」

「王都自体の警備は手薄だったようです」

 まだシェルとラーシュ、ニクラスへの疑いを深める必要はなさそうだ、とロザナンドは考える。シェルとラーシュはロザナンドの指令を忠実にこなし、ニクラスもロザナンドの期待を裏切るようなことはないと考えても問題はないだろう。いまのところは。

「わかった。ありがとう」

「はい。失礼します」

 恭しく辞儀をしてニクラスが部屋を出て行くと、入れ替わりに若い騎士が私室に顔を覗かせた。千里眼で、彼がユトリロの部下コニーであることがすぐにわかった。

「宮廷騎士のコニーと申します。ご報告に上がりました」

「シェルとラーシュのことはニクラスから聞いたよ」

「はい。アニタの両親は、本人の言っていた通り、辺境の村で受け入れられて暮らしているようです。ただ、両親を国外へ逃亡させるルートを開拓している可能性は否めません」

 コニーの真面目腐った表情は、ロザナンドへの確かな忠誠心を感じられる。ヘルカがそうしているように、コニーを信用することに問題はないようだ。

「宮廷女官ですので、自分の諜報部員は持っていると思われます。まだ疑いを外すのは時期尚早かと。ディーサ姫は、打倒ロザナンド殿下、と銘打って宮廷魔法隊の強化に乗り出しているようです」

「僕がけしかけたことが功を奏しているようだね」

「はい。ニクラスについても、いまのところ反逆の可能性は低いと思われます。妹のために、自分が危うい立場になるわけにはいきませんので。他の反逆者については調査中です」

「そう」

 コニーは偽りを述べている様子はない。この若き騎士が千里眼を欺くだけの実力が備えているとも思えない。現時点では調査結果を信用しても問題ないようだ。

「コニー。きみはユトリロをどれくらい信用できると思う?」

「はい。殿下を裏切る可能性は限りなく低いとお考えになられても問題はないかと思われます。殿下がまだお疑いになられているのではと思い、様子を探っておりました。ユトリロは魔王陛下に恩を感じているのは確かです。殿下への忠誠心は確かなものかと」

「そう。わかった、ありがとう」

 若き有能な諜報部員は、恭しく辞儀をしてロザナンドの私室をあとにする。ヘルカが口を挟まなかったところを見ると、コニーの調査報告は信用してもいいようだ。

 髪の手入れが終わると、ヘルカは満足そうに道具をしまう。これで身支度は完了だ。ロザナンドとしては髪を整えることにはあまりこだわっていないのだが、ヘルカが整えたあとの頭髪は確かに美しい。宮廷内で上に立つ者としては、身なりを整えることも大事なことなのかもしれない、とロザナンドは考えた。

 ロザナンドが私室を出ると、ユトリロがドアのそばで待っていた。おはようの挨拶のあと、ユトリロは穏やかな笑みで口を開く。

「ニクラスとコニーが報告に上がったようですね」

「きみは何か報告はある?」

「容疑者の五人の様子を見ておりましたが、特に怪しい素振りは見受けられませんでした。特段、ご報告するまでのことはありません」

「そう。アニタは僕に言われる前から人間の国に視察団を送り込んでいるはずだ。アニタの話を聞きに行こう」

「はい。ご朝食後にすぐ行けるよう手配しておきます」

「うん」

 調査に行く前に、朝食を取らなければならない。ロザナンドは食が細いほうではないが、食事は特に重要視していない。それでも、朝食の席に着かなければ魔王アンブロシウスに勘繰られるかもしれない。いまはロザナンドの真の目的に気付かれるわけにはいかない。

 ダイニングでは、すでにアンブロシウスがテーブルに着いていた。その斜交いの椅子を執事のアルヴィドが引く。

「おはようございます、父様」

「ああ、おはよう。調査は順調か?」

「はい。いまのところ成果は特にありませんが」

 ロザナンドの部下はロザナンドに忠実に報告をするが、ロザナンドがアンブロシウスにそうするとは限らない。とは言え、いまの言葉に偽りはないのだが。

「勇者の侵攻が始まる前に決着をつけなければならないのだろう? 調査は慎重にする必要があるが、のんびりするわけにはいかないのだろう」

「はい。ただ、急いては事を仕損じます。すべて僕に任せてください」

「わかっている。私は余計な手出しはしないと約束する」

 ロザナンドの脳裏に、夢の映像がぎる。左目の奥に、自分が魔王に反逆する姿が視えた。例えそれが本当のことになろうと、魔王に気取られるわけにはいかない。いまは、まだ。




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