第2話


 ママが何気なく言った言葉が心に引っかかった。


「ママ、連れてかれるって…」


 その時またドアが開き2人連れの男が入ってきた。


「あら~!いらっしゃい!」


 常連らしい男達がママにあと二人来るからと言いながらボックス席に腰を下ろした。


 ママがボトルと水割りのセットを持ってボックス席に行き、結局私の問いかけに返事は無かった。


「とみきさん、犬に注意すればよいんですよ」


 タカさんが水割りを飲みながらぼそりと言った。


「犬…ですか?」


「そう、犬にね…ルージュでここの前の店の時のママを見たって言う客は姿を消す前に黒い犬を見たって怖がりながら言ったそうです。

 何度も何度も怖そうに顔を引きつらせて、黒い犬を見たってね。

 言ったんですよ…それで急に姿を消してしまった。

 この辺りでは前のママがどこかに連れて行ったと噂になってますけどね…」


「…その人はどこかに消えたんですか?」


「さぁ…でも20年も常連だった人が何も挨拶せずにどこかに行くって…考えられないよね」


 私はタカさんの言葉を聴きながら確かにそうだなと思った。


 また壁がドン!と鳴って、ボックス席の二人が腰を浮かせた。


「今日はちょっと凄いのよね。ほほほほ!」


 水割りを作っていたママが取り繕うように笑ってちらりとこちらを見た。


 私とママの目が一瞬合った。


 ママはにこやかな顔をしているが、その目は全然笑っていなかった。


 なんと言うか、哀れみ?恐れ?諦め?色々な感情が入り混じったものがその瞳に宿っている感じがして私は背筋がゾクリとした。


「気を取り直して歌ったらどうですか?」


 タカさんがデンモクを私の方にずらした。


「タカさんは歌わないんですか?」


「私はもう少し飲んでからにします」


私は歌う曲を決めてママに声をかけた。


「ママ、歌うよ~!」


「どうぞどうぞ!カラオケの機械のほうに向けて送信して~」


 私は何とか明るい雰囲気にしようとナイアガラトライアングルの曲を歌った。


 歌っている時にボックス席の男達の連れのOLらしい二人連れが店に入って来て、少し賑やかな雰囲気になった。


 私が歌い終わり、皆が拍手してくれた。


「いやぁ~!とみきさん歌、上手いね!壁も静かになったから俺も歌おうかな~!」


 そう言いながらタカさんもデンモクに手を伸ばした。


 それからママがボックス席の客にも私を紹介してくれて、皆で和気あいあいと飲んで歌った。


 壁は沈黙したままだったし電気も切れなかった。


「ん~どうやら今日はもう退散したかもね~!

 とみきさんが上手に歌うから、ほほほほほ!」


 かなりお酒を飲んで顔を紅くしたママが、私とタカさんの隣に座って愉快そうに笑った。


「いや、そんなに上手くは無いよ~!

 昔に比べたらね、全然駄目駄目だよ」


 遥か昔、学生の頃は米兵相手のクラブでバンドのヴォーカルをしていた事があったが、今はすっかり声も萎んでしまった私は頭を掻いた。


「いやいや、声が若くて張りがありますよね~!」


「ほんとほんと!見かけと違ってマイク持つと声が変わるわね~!

 ほほほほほ!」


 褒められて悪い気はしなかった。


 私はその後も杯を重ね、歌を歌い、気味悪い話も忘れて楽しいひと時を過ごした。


 12時を過ぎて午前1時を廻った頃にママにお勘定を頼んだ。


「はい、今日は4500円ね」


「安いね~!」


 確かに安い。


 ボトルを入れて散々に唄い、おつまみもその後に2品ほど頼んだいたのに4500円は破格の安さだった。


 私は財布から父親の1万円札を出してママに渡した。


「ところでママ、黒い犬…」


 その途端にルージュ側の壁が激しく叩かれた。


 今までに無いほど執拗にドンドンドンドン!と激しく鳴った。


 私以外の、この店の異変に馴れているはずの客やママさえも顔を引き攣らせて無言になるほどだった。


「まぁ~…とみきさんが帰るから寂しいって!ほほほほほ!」


 ママが取り繕うような笑顔を浮かべて笑った。


 私はそれ以上ママに犬の事を聴きそびれてお釣りをもらい店を出た。


「また来て下さいね~!」


 ママがそう言って私に手を振った。


「うん、また今度寄らせて貰います。

 ご馳走様!」


 そう答えてドアを閉め歩き始めた私の視界に何か黒いものが入った。


 黒い犬。


 大きさはシェパードほどもある、ロットワイラーか何かの血が入っているような短毛の筋肉質の犬が道路の反対側の端に寝そべっていた。


 そして、犬は私を見るとのっそりと立ち上がった。


 人気の無い通りで、私と犬は無言で見つめ合った。


 本能的な危険を感じた私は一瞬店に戻ろうかと思った。


 犬は立ち上がり、舌を出してハァハァ言いながらじっと私を見つめていた。


 しばし躊躇した後で私は気を取り直して犬から目をそらし、歩き始めた。


 さっき犬の話で脅かされた男が店の前で犬を見たといって引き返してきたら笑いものにされるだろう。


 深夜の通り、と言っても駅からすぐの商店街のはずれだが私以外に通りを歩く人はいなかった。


 昼間の熱気は消え去り、涼しい風が吹いて私の酔いの火照りを冷ましてくれた。


 シャッターが降りた人気の無い商店街の通りを私は歩いた。


 後ろを見ると、さっきの黒い犬が頭を下げて私から10数メートル後ろを歩いている。


 間違い無く私の後をつけていた。


 間違い無く。


 間違い無く犬は私の後をつけてきた。


 私は立ち止まり犬に向き直った。


 犬も立ち止まった。


 素手で中型の犬と戦った場合まず99パーセントの確立で人間が負けると、昔危ない仕事をしていた時に教官から教わったことを思い出した。


 それに犬はそこいら辺りをうろつく、つまらない人間よりもずっと自制心がある。


 普通は訓練を受けていない限り、犬が人間に対して警告以外で噛み付くことはまず無い。


 巷で犬が人間を襲ったと言う事件は大概が人間に対して警告を与えた程度の攻撃なのだが、それでも人間は重傷を負ったり酷ければ死んでしまうことだってあるのだ。


 ましてや、殺意を持った犬の攻撃は半端なものではない。


 かなりの大男でもあっさりと引きずり倒されてのど笛を掻っ切られてしまう。


 私は屈強な軍人が単独の大型犬に襲われてなすすべも無く生きながら残忍に噛み殺されたのを目の前で見た事がある。


 走って逃げても貧弱な人間の脚力などでは到底犬を引き離せるものでは無い。


 一見鈍重に見えるカバでさえその全力疾走の速さは人類最速の男ウサイン・ボルトと同じなのだ。


 ましてや犬ならばカバの数段走るのが早い。


 人間の肉体は野生の中では限りなくひ弱なのだ。


 私は犬を観察した。


 犬の体のたくましい筋肉が黒い毛皮をところどころ体の内側から盛り上げて、節電のために間引きして点いている街灯に反射していた。


 シェパードが普通の人間ならばこの犬はK-1選手並みにマッチョだった。


 その首も猪の様に太く顎も頑丈そうで当然噛む力もシェパード以上だろう。


 何かあった場合私はなすすべも無くこの犬に引きずり倒されて噛み裂かれ、命を失う。


 幸いなことに犬はなんら敵意を見せることも無くじっと私を見つめていた。


 今のところは。


 私はゆっくりと向き直り、商店街が切れて住宅街に差し掛かる道を歩き始めた。


 病院勤務の時の護身用にいつもポケットに忍ばせていた催涙スプレーは去年性悪な女に持ち去られていた。


 あれさえあれば嗅覚に敏感な犬はかなり怯む事だろう。


 私を襲うことを思い留まらせるほどに怯ませることが可能だ。


 私はこの時ほどそれが残念だと感じた事は無い。


 道はますます寂しくなって行き、すれ違う人間も一人もいなかった。


 犬は黙々と私について来た。


 私はこの時も止せばよいつまらぬ事をしてしまった。


 携帯を取り出して振り向くと犬に向けて写メを撮ろうとした。


 携帯を向けた途端に犬が牙をむき出して唸った。


 地獄の番犬さながらの表情で両前足を踏ん張り重心を落として飛び掛かる体勢になった。


 私は慌てて携帯をポケットに収めた。


 そして振り向き、走りだしそうになる足を必死に抑え、歩き出した。


 10数メートル後ろにいるはずの犬の不機嫌そうな荒々しい吐息が私の耳元で聞こえる感じがした。


 犬の爪がアスファルトを擦るジャリジャリとした音さえ聞こえてくるようだった。


 私は心の動揺を抑えるために、吸い込んだ空気を一秒ほど肺にためてからゆっくりと吐き出した。


(どうしようか…あいつはこのまま家までついてくるのか…それとも家に着く前に俺に襲い掛かるのか…俺は…こいつに食い殺されるのか…いや…殺されるよりも酷い目に遭うかも知れない…この世には殺されるよりもずっとずっと酷い事がある…)


 私は大声で叫び走って逃げようとする衝動を必死で抑え、頭の中の地図を引っ張り出して何とかこの犬を捲くか遠ざける方法を考えた。


(何とかこの住宅街を抜ければこの先に東長崎の駅があってそこに交番がある…コンビ二は問題外だ荒れ狂う犬でも逃げる人でも見境無しに自動ドアは開くからな…)


 犬が低く吼えた。


 犬の日向くさい体臭まで臭ってきた。


 足が勝手に走り出そうとして、私はそれを必死に抑えた。


(死にたくない死にたくない!散々に酷い所に何年もいてやっと生きて帰ってきたのに、やっとやるべき事が見つかって未来に希望が見えてきたのに、こんなところであんなやつに噛み裂かれて死ぬなんて嫌だ!いや、死ぬより酷い目に遭うかもしれないなんて嫌だ嫌だ嫌だ…落ち着け!落ち着け!何とか交番まで辿り着けば…いざとなればオマワリの拳銃を奪って犬を撃ち殺せばよいんだ!警察に捕まっても食い殺されるよりはましだ!)


 私はギクシャクと足を動かして歩き続け、ついに遠くに交番の明かりを見た。


 走り出しそうになる足を必死に抑えて私は交番に向かった。


 幸いなことに交番は開いていて中には中年の制服巡査が椅子に座っているのが見えた。


 犬の吐息と体臭をすぐ後ろに感じながら私は交番までの残り2メートルを耐え切れずに駆け出し、物凄い勢いで交番に飛び込むと思い切りドアを閉めた。


 雑誌を読んでいた中年の巡査があわてて立ち上がり私に声を掛けた。


「おい!なにがあったの!?」


 私の顔を見た巡査が更に緊迫した声で言った。


「どうしたの!?

 あんた、顔真っ青だよ!」


 私はまるで犬が引き戸を開けることが出来るかのように用心深く引き戸が空かないように手で押さえて巡査に言った。


「お巡りさん!犬!黒くてでかい犬が外をうろついています!

 とても危険だから何とかしてください!」


「犬?」


「そう、恐ろしくでかくて凶暴な犬です!

 早く捕まえて!…いや!誰かが殺される前に射殺してください!」


 巡査は訝しげに私の顔を見た。


「あんた、酔ってる?」


「酒は飲んだけど酔いはすっ飛びましたよ!

 早く!あれを何とかしてください!」


「おい!」


 しばらく私の顔を見つめていた巡査が交番の奥に声を掛けた。


 奥から若い巡査が顔を出した。


「なんですか?」


 中年巡査は壁に立てかけてある頑丈な木の棒をつかんだ。


「野犬、かなりでかいらしい。

 ちょっと見てくるからこの人を保護していてくれ」


 中年巡査が私の横を通りドアを開いた。


「お巡りさん、そんな棒じゃだめだ。

 ピストル抜いていったほうが良いよ」


 中年巡査が私に笑いかけた。


「なに、危ないと思ったらすぐに戻りますよ。

 私も犬の怖さは知っていますから。

 おい、後を頼むぞ」


 中年巡査は若い巡査に声を掛けて用心深くドアを開き、棒を構えて外に出て行った。


 若い巡査は生あくびをかみ殺しながら私の隣に立って外の様子を伺った。


「犬、でかいんですか?」


「ああ、とてもでかくてマッチョな感じだった…おっかなかったよ」


「へぇ~」


 若い巡査は私の答えを上の空で聞きながら中年巡査が出て行ったほうを眺めた。


 私はこの巡査達は到底あの犬には敵わないと思い、いざと言う時にすかさず若い巡査のピストルを奪えるように彼の右斜め後方に立った。


 若い巡査は無用心に私に背を向けて突っ立ったまま外を見ていた。


 どれほどの時間が経ったのだろうか?


 突如甲高い犬の吼え声が聞こえてきて私と若い巡査はビクッと身を震わせた。


 そして外に出て行った中年巡査の声が聞こえてきた。


「おとなしくしろ!こいつ!

 あ!いてて!この野郎!」


 私と若い巡査が緊張して声のするほうを見ていると、中年の巡査がなにやら紐を引っ張って交番に帰ってきた。


 その紐は犬を繋ぐリードで、その先には小柄な柴犬がリードを引っ張る巡査に抵抗して唸りながらもがいていた。


「これが…でかくて凶暴な犬?」


 中年巡査が笑顔を私に向けた。


「いや、違うですよ!

 もっと大きな黒い犬がいるんです!」


 私は必死に叫んだが中年巡査は交番に犬を繋いで額の汗をぬぐった。


「ふ~ん…見当たらないな~!

 確かにいたのかもしれないけれど、もうどこかに行ってしまったと思いますよ。

 見つかったのはリードを引きずって歩いていたこいつだけでした」


 中年巡査が交番に繋がれてあちこちの臭いをくんくん嗅ぎ回っている柴犬に顎をしゃくった。


「ちがう!奴は椎名町からずっと俺をつけてきたんだ!

 ずっとわき目も振らずに…俺をつけてきたんですよ…唸りながら…ずっと…」


 じっと私を見つめる二人の巡査の視線に気おされて私の語気は弱々しくなり沈黙した。


 私は俯いてしまった。


 酒臭い自分の息が恨めしかった。


「おにいさん、おそらく犬は自分のテリトリーの範囲からおにいさんが出たから自分の場所に戻ったんじゃないかな…犬ってそういう習性があるからね~、おにいさんが歩いていて、たまたま犬の縄張りに入っちゃったんだよ。

 まぁ夜中に放し飼いにする人この辺多いからね」


 中年巡査が酔っ払いをなだめる様に優しく私に話しかけた。


「はぁ…そうかも知れないですね…」


 柴犬が俯いた私の足にじゃれ付いた。


 私は巡査達に小声でお礼を言って交番を後にした。


 交番から家までの間、私は何度も後ろを振り返りながら歩いたがあの黒い犬の姿は見えなかった。


 家まで数メートルのところに来た時、いきなり短い犬の吼え声が聞こえた。


 振り向いた私の目に、あの黒い犬の禍々しい姿が映った。


 それの目はどういう光の加減か赤く、血のように赤く光り、口から涎の糸を垂らしていた。


 私はじりじりと後ずさり、玄関のノブを後ろ手に掴み、犬が飛び掛ってきたらすぐに家の中に逃げ込めるようにした。


 黒い犬はそんな私をじっと見つめ、そして顔を左右に巡らせて私の家を眺めた。


 そして、ぷいと横を向き椎名町の方向にゆっくりとした足取りで歩き去った。


 いや、椎名町の方向の闇の中に溶けて消えた。


 少なくともその時の私の目には黒い犬の体が夜の闇に溶けて消えていったように見えた。


 あれは私の家を確認して満足したのだろう…私の住処を確認して満足したのだろう…私は犬が消えた闇を見つめてそう確信した。


 私はため息をついて額の汗を拭った。






続く 


 

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