第4話「夜を飛ぶ」

  高校で出会ってから七年。

 友人のフウタは昔から面倒見がいい。

 なんせ数ヶ月で教師を辞めてしまった俺を見放すどころか、「野垂のたれ死にされても困る」と言って家に置いてくれたくらいだ。


 はじめは酒の席での話だと思って聞いていたから、トントン拍子で居候が決定していったときは他人事のようだった。

 有難い反面申しわけなくて何度か断ったが、次の就職先が見付かっていないこともあって、最終的には好意に甘えてしまった。

  今ではスペアキーを持ち、帰ればフウタがいるか自分が出迎えるかなのだから不思議なものだ。


「ユーガ、絵の具取ってくれ」

「ん」

「さんきゅ」


 フウタは俺の手から絵の具を受け取り、またすぐに絵の世界へ入っていった。


 木の造りに、窓から射す陽の明かり。

 床に散らばる無数の絵と筆、バケツ。染みついたアルコールと絵の具の匂い。

  足を踏み入れるうちに慣れてしまった、フウタ専用のアトリエ。


 フウタは夜に働いて明け方に眠り、昼になるとアトリエにこもってキャンバスに向かう。

 数年前に酒用の倉庫を改造して作ったらしく、ワインケースで作られたソファベッドや年代物のウイスキーが並べられた棚は洗練されつつもカジュアルにまとめられている。

 洒落すぎないが安っぽくはない、なんともフウタらしい空間だった。


「……なんかイマイチなんだよな」

「そう? 俺は上手いと思うけど」


 キャンバスは、快晴の空と大きな翼で飛ぶ鳥の絵で彩られていた。

  水彩絵の具の優しい色づかいと、迫力のあるタッチの翼が組み合わさって生命力を感じさせる。

 触れれば温度を感じるのではないかと思わせるような絵だった。


「どうにも描きたいイメージと違っててさ。もっと力強くて、悠々と、それでいて繊細な絵が理想なんだ」

「へえ……。俺は今描いてる鳥の絵、好きだけどな。どことなくフウタっぽいし」


 絵のことはよくわからない。

 アートは完全に専門外だけれど、フウタの絵は不思議な魅力があった。

 ずっと見ていたくなるような、人の目を引き付ける力が宿っている。


「……それはどうも。今日も夜は店に出るから、テキトーにメシ食べとけよ」

「わかってるよ」


  初めてアトリエに入った日に、フウタの意外な夢を知った。

 「いつか絵だけで食べていけるようになりたい」と少年みたいに話す顔は、なぜかプール見学のときに見せてくれた翼の刺青を思い出させた。

 「これだけ綺麗な絵が描けるんだからいけるんじゃないの」と返せば、フウタは自嘲気味に笑っていた。

 あの日のどこか物憂げな態度が引っかかったことを、俺は未だに覚えている。


「お袋が『種をかなければ花は咲かない』ってさ。子供の頃に言ってたんだ。結果は行動しないと付いてこないもんだ、って」

「フウタのお母さん、いいこと言うね。含蓄がんちくがあるというか」

「まあ、なかなか当たってると思うよ。だから俺は今種を蒔いてるところなんだ」


  あの日のフウタの顔が見えたところで目が覚めた。


 花を咲かせようと懸命に絵を描く姿を眺めつつ、ソファベッドでうつらうつらしているうちに眠っていたみたいだった。

  起き上がってキャンバスの置かれた方を見ると、すでにフウタの姿がない。

 代わりに、スマホにはメッセージが入っていた。


『タブレット忘れた。起きたら届けてくれ』


 簡潔に『了解』とだけ送って立ち上がる。

 ついでにコンビニに寄って差し入れでも持っていこう。




  商店街のつきあたりにある、地下のジャズバー。

 フウタはここでバーテンダーとして働いている。

 本人は「夜の街ってぬるま湯みたいで心地いいんだ。だから踏ん切りつかなくて居座ってる」と言っていたが、お客さんには愛想よく動きにも無駄がない。

 その上カウンターに立つ姿がやたらさまになるものだから、見ていて天職なんじゃないかとすら思う。


「お、ユーガくんだ。珍しいな」


 スキンヘッドの男性に声を掛けられる。

 常連のバンさんだった。


「バンさんお久しぶりです。フウタはいますか?」

「今は買い出し行ってるよ。まあまあ、すぐ帰ってくるだろうし軽く飲んでいきなよ」


 この店に客として来たことは、片手で数えられる程度しかない。

 行くとしてもフウタがいるときくらいだが、たまに顔を出すと常連さんが挨拶してくれたり一杯奢ってくれたりする。

 始めましての時は警戒したが、何度か会話するとほんの少し寂しがり屋なだけの気のいい人たちだとわかった。


 バンさんの言葉に甘えさせてもらおうと、右隣のカウンター席に腰をおろす。


「そういえばユーガくんは彼女いないの?」

「いませんよ」

「顔がいいのに勿体ないな。フウタくんも彼女いないみたいだしね」


  種をく時間が惜しいからでしょう、と喉元まで出かかったところでやめる。


「お兄さん、フウタの知り合い?」


 左側のひとつ席を空けて隣の席にいる女性がいきなり話かけてきた。

 カールのかかった髪に、胸元の開いたワンピースと濃い化粧。

 この辺りの店で働いている人なのか、夜の店の雰囲気が漂っている。


「……そうですけど」


 女性への不快さを隠さずに答えた。

 アルコールに負けじと漂う香水の匂いに、顔をしかめてしまわないよう気をつける。


「フウタってモテるのに全然女の子と遊んでなくって。あたしも何回かアピールしたのに振り向いてくれないし、お兄さんアドバイスしてよ」


 ところが、女性はなおも話を続けてきた。

 他人のリアクションに鈍い人なのか、それとも。


「へえ。ナオちゃん、フウタくんに気があったんだ。」


 どうやら女性と顔見知りらしく、バンさんはからかい交じりに合いの手を入れた。


「だってカッコイイし仕事もできるじゃん。それにこの辺で働いてる人なら夜の仕事に理解有りそうだしさ」

「まあ、カリスマホステスの息子だしね。そういうのは気にしなさそうだな」


 バンさんは何の気なしに言った。

 けれど肯定されて嬉しかったのか、ナオと呼ばれた女性はわかりやすく声を弾ませる。


「だよね。ね、お兄さんさ、フウタのお友達なんでしょ? フウタの好みのタイプ教えてくれない?」


 ほとんど口を付けていないロックグラスをコースターの上に戻す。

 店内に流れるピアノに混じってカラン、と涼やかに鳴る氷の音が響いた。


「フウタと付き合いたいなら、相当見た目がよくないと望み薄じゃないかな。見惚れるくらいに綺麗な人じゃないと厳しいかも」


  胸のうちにある燃え上がる火と冷えきった氷がさらさらと淀みのない言葉に変わっていく。


「例えばだけど。お姉さん、俺に勝てる?」


 じっと真っ直ぐに見つめると、睨みかえされたがすぐに目を逸らされる。

 彼女は何か言いたそうに顔を歪ませたあと、万札をカウンターに置いて慌ただしく席を立った。


「ナオちゃん、怒ってたねえ。しかしユーガくんも見かけによらずいい性格してるよなあ」


  新しいタバコに火を付けながら、バンさんは事も無げに言う。


「たまには静かに飲みたかっただけですよ」


 グラスを取り、琥珀色のアルコールを煽った。

 先程の不愉快を洗い流すように何口か飲み下すと、球体の氷があらわになる。


「いい肴になったよ。ところでおかわりいるかい?」


  結局、フウタが戻ってくるまでバンさんと世間話をしながら飲み続けた。

 微かに酔いが回ってくるまで飲ませてもらった。

 タブレットと差し入れを渡すタイミングでしっかりお冷を手渡され、おかげで帰る頃にはすっかりアルコールが抜けていた。


「おまえ客イジめたんだってな」


 どうやら、バンさんから聞いたらしい。

 フウタは俺を咎めようとはせず、むしろ茶化すような口調で言ってきた。


「イジメてない。向こうが絡んできたから追い払っただけ」

「バンさんから聞いたぞ。だれが面食いだって?」

「どのみち口説かれても付き合う気なかったくせに」


 夜の世界に理解があるから、なんて理由で寄ってこられるくらいなら面食いの方がまだマシだろう。

  実際美しいものが好きなフウタは、本心でなければ他人の容姿を褒めない。

 お世辞も言わないし変に正直なところがあった。


「ユーガのやり方は極端なんだよ。まあ、でもありがと」

「ん。どういたしまして」


そのとき、横目に見えたフウタがいつもより真剣みを帯びた表情であることに気がついた。


「俺、ユーガが描きたい」

「え?」


 突拍子のない言葉に意表を突かれてしまい、戸惑った。

 フウタの表情は、やはり真剣なままだ。

 どうやら冗談ではなく、本気らしい。


「俺にユーガの絵を描かせてほしい」


  俺は考えるより先に「いいよ」と口にしていた。

  ただ生きるために生きている自分と違って、フウタは夢のために生きていける。

 フウタのために俺が何かできるなら、なんでもしたかった。

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