第29話 なぜなら、僕がシャーロック・ホームズで

「どいてどいてどいて――――」


 スコットランドヤードに着くなり馬車を飛び降りた。

 往来の人を押しのけ、警備に立つ警官を押しのけ、重厚なドアを押しのけて建物内に滑り込む。

 不覚にも侵入を許した警官が背後でごちゃごちゃと叫んでいたが、足を止める気はさらさらなかった。


 ずっと引っかかっていた。

 ニックは危険物の持ち込めない留置所で、どうやってナイフを手に入れたのかと。

 可能性として、最もあり得る選択肢は――


 上の空でエントランスを抜けようとして「うわっ」という短い悲鳴が響いた。

 かち合うように入ってきた若い男と正面衝突する。

 男は手に抱えていた捜査資料を地面にばら撒きながら尻もちをついた。


「危ないなあっ」


 尻をさすりながら立ちあがった男が、僕を見るなり「あれ、アヘン探偵じゃないか」と言ったのでぎょっとして足を止めた。

 と、足もとに一枚の資料がひらりと落ちて、つられて視線を押し下げる。

 表題には『メイフェア地区でのアヘン窟摘発に関する報告書』と記載されていた。

 どうやらあのとき現場に居合わせた刑事らしい。


「留置所ってどっちですか!?」


 咄嗟に男へと詰め寄った。

 面食らった顔をして二、三度瞬きをしたあと、


「一階の突きあたりだけど……」


 と、右翼に伸びる廊下を指差した。


「ありがとうございます!」


 身体を九十度反転させ廊下を駆け出したところで「あ、そうだ」と踵を返した。


「レストレード警部を見かけたらすぐに留置所まで来るように伝えてください!」

「あ、ああ……」


 腑に落ちていなさそうな声だったが説明する間も惜しかったのでそのまま走り去った。

 廊下を一直線に抜けると、突きあたりで一際重そうなドアに出くわす。

 金属製のプレートには『留置所』と掘られていた。


 その手前には警備員用と思われる机が僕と向かい合いように置かれている。

 おそらくここで手続きをしてから中に入るのだろうが、今はもぬけの殻だった。


 一人も見張りがいないなんておかしい。

 嫌な胸騒ぎがして加速した。

 ドアに飛びついてノブを回すが、案の定鍵がかかっている。


「くそっ」


 反転して机の引き出しを片っ端から開けていった。

 しかしどれも空振りで、お菓子やら書類やらが入っているだけだ。

 祈るような気持ちで最後の引き出しを開けると、


「あった」


 中から鍵の束が出てきた。

 不用心だが正直今はありがたい。

 鍵穴の形状から一本の鍵を選んで差し込むと、鍵は抵抗なく回って小さな金属音が響いた。


 瞬間、僕はドアを勢いよく開けた。


 中に入ると殺風景な空間があり、突きあたりには左曲がりの細い廊下が続いていた。

 壁にぶつかる勢いで直角に曲がると、最奥の暗がりに立つ一人の男がいる。


「ワトソン――」


 僕の声に振り向き目を見開く。

 しかしそれも一瞬のことでぱっと右手を背後に隠すとこちらに笑顔を向けた。


「あれ、ホームズも来たんですか? レストレード警部には会いました?」


 いつもと変わらない、どこか弾むような声だ。

 ちらりと周囲へ視線を投げると、ワトソンが立っている独房の中に人影が見えた。

 赤毛の男――ニックだ。


 ニックは両手を縛られているが、猿ぐつわは外されていた。

 モスグリーンの瞳がわずかに大きくなったが、すぐにもとに戻り表情が消えた。


 愉快犯を絵に描いたようなニックが嫌に大人しい。

 といっても嘲り笑う姿を見せたのは前々回なので、僕があの性格を知らないと思っているのだろう。


「ちゃんとご飯を食べましたか? なんなら美味しいお店を教えますよ。すぐ側にあるんです」


 カツン、カツン……とワトソンの足音が留置所内に反響する。


 一歩進むたび、鉄格子のはまった窓から射す光がワトソンに縞々の影を落とした。

 鈍色の鉄格子が支配する空間で訊く彼の明るい声は、どこか調子外れに浮き上がっているように思えた。


「ずっと、引っかかっていたんだ」


 誰にともなく呟いた。

 と、ワトソンの足がぴたりと止まる。

 二人の距離は五メートルほど。


「どうしたんですか、ホームズ。顔が青いですよ。やはり何か食べたほうがいい」


 意地でも僕をここから出す気なのか。

 笑顔の裏に隠された頑なな意志が、僕の予想を裏付ける。

 本当は当たって欲しくなかったけれど。


「ねえ、ワトソン。右手に何を持っているの?」


 僕の言葉にワトソンがうわ瞼を引きつらせた。

 それでも笑顔を崩さない。


「羽ペンと紙ですよ。ニックに誓約書を書かせるって言ったでしょう?」

「違う、違うんだワトソン……」


 ここで自分から申告してくれればよかったのに。

 そうすれば、まだ笑ってことを収められたかもしれないのに。

 叶いっこない願いが僕の中で溢れて霧散した。

 一つ大きく深呼吸をして、ワトソンの目を真っ直ぐに見つめる。


「ナイフ、隠し持ってるよね。ニックの自決用に用意した」


 ワトソンがきょとんとした顔をして、瞼をパチパチと打ち鳴らした。

 少し感心したように小首をかしげ「それも象形文字推理とやらでしょうか?」と尋ねた。


「そうだと言ったら?」

「ふぅん。百発百中って言ってましたもんねぇ」


 刹那、ワトソンが薄気味悪い笑みを浮かべ、


「なら仕方ないですね!」


 背後に引いていた右手が躍り出て、格子から射す光が照らした。

 銀白色のナイフが灯りを照り返し鈍く光る。


 ずっと引っかかっていた。

 ニックは危険物の持ち込めない留置所で、どうやってナイフを手に入れたのかと。


 答えは簡単だ。

 ワトソンが持ち込んで渡せばいい。

 その考えを肯定するように、独房の中でニックが口の端を吊りあげた。


 おそらく、取り引きの真っ最中だったのだろう。

 金を渡す見返りに、ニックの自殺を幇助するという。

 それと同時に、ニックの身体に埋まっているカードも回収するように依頼したのだ。


 初めはあのカードがもともと身体に埋められているものか、死んでから埋め込まれたものなのかわからなかった。

 しかしカードをモリアーティ教授へ渡したこと、それから錬金術を裏付ける紋章が刻まれているのを見て確信した。


 あれはもともとニックの身体に埋まっていたものだ。

 原理は不明だが、錬金術によってあのカードが〝心臓の代わり〟を果たすのだろう。

 それが蘇り能力の正体だ。


 そして獄中死すれば解剖に回されると知っていたニックは、第三者がカードを見つけて騒ぎを起こさないようにワトソンへ回収を依頼した。

 多額の現金を餌にして。


「お前さあ」


 と、ニックが突然声をあげた。


「コソコソ嗅ぎ回ってて目障りなんだよね。ということで、死んでもらうよ」


 くそ、僕を殺すことも取り引きには織り込み済みかっ……。


れよ」


 ニックがニタァと笑いながら命じると、その言葉に反応したワトソンが一瞬鼻白む。

 しかしすぐに持っていたナイフをぽろりと落とすと、腰に手を回して回転式拳銃を引き抜いた。


 躊躇うことなく銃口を向けられ、不覚にも僕の足が止まってしまう。


 やはりこの時間軸のワトソンも、僕が知っているワトソンではなかった。

 金ごときで僕を裏切る、陳腐な男だった。

 それでも――


「ワトソンにどんな理由があろうとも、僕は君を信じている」

「この期に及んで何を言っているんです? 君は飛んだお人好しですね」


 口元に手を当ててくすくすと笑うワトソンに一歩近づいた。

 ぴくりと肩が跳ね、流し目に僕を捉えた。


「君は横暴で、自由人で、一方的で、理不尽で、僕のことを揶揄って楽しむ嫌な奴で――」

「殺されたいんですか?」


 ワトソンの親指が撃鉄を起こした。


「――でも本当はいいところもあって、僕のためにサンドイッチを買ってくれて、たぶんレストレード警部が甘いものを持ってくるように仕向けたのも君で――」

「サンドイッチなんて買っていませんし、レストレード警部はたまたまで……」


 動揺したのか、銃口がわずかに揺らいだ。

 だが弾を外すほどではない。


「――将来は僕のことを小説に書いて一山当てようとか思っている守銭奴かもしれないけど」

「な……」


 途端にワトソンが一歩たじろいだ。


 実を言うと、史実に残っているホームズの物語はすべてワトソンが小説として書き残したものだ。

 二人の最初の事件である『緋色の研究』でレストレード警部に手柄をすべて奪われる形になったことを不満に思い、ホームズの活躍を物語として発表すると宣言している。

 そうして世に残ったのがシャーロック・ホームズの物語だ。


 この世界は史実と違うことばかりだけれど、ワトソンとしての根幹は変わらないと信じている。

 だから鎌をかけて見たのだが、どうやら図星らしい。


「守銭奴かもしれないけれど、それは僕の活躍が世に埋もれるのを嫌ったからだ。ならば、。絶対に、僕を裏切ったのには理由があるはずだ!」

「なんで……そこまで知っているんですか!?」


 いきなり未来のことまで言い当てられ、ワトソンの目が驚きに見開かれた。


「企業秘密だ」

「企業秘密、ですか」


 胸を反らして断言すると、ふいにワトソンが視線を下げて独りごちるように呟いた。


「企業秘密ごときで、よくもまあ僕のことが信じられますね」

「え?」


 するとワトソンが自嘲気味に笑って言葉を続けた。


「君は見たでしょう? 僕が敵にナイフを差し出そうとしているのを。しかも今は銃口だって向けている。安全装置はかかっていない。それなのに、なんで……」


 声に同調してワトソンの手が震え、銃口がわずかに下がった――瞬間。

 残り十足の距離を駆け出した。


「なっ……」


 とワトソンが驚愕の声をあげる。

 まさか銃口に向けて走り込んでくるとは思わなかったのか、ぎょっとして石像のように固まった。


 彼我の距離、七足――五足――三足――


「なぜなら、僕がシャーロック・ホームズで、君がジョン・ワトソンだからだっ……!!」


 僕は信じているんだ。

 どんな世界線だろうと、君の性根の部分は変わらないって。

 なら君がワトソンである限り、僕と君が世界最高の相棒になる未来もきっと用意されているはず――


 僕は跳躍する。

 残り一足の距離を一気に詰めると、あっけにとられるワトソンに飛びついて、


 ぱぁんっ――――!


 もみ合ううちに銃口が火を噴いた。

 しかし照準が大きく逸れていたため、側壁に着弾し赤い火花を散らしただけだ。


 反動でワトソンの手から拳銃を奪い取って投げ捨てる。

 地面を滑ったそれが突きあたりの壁にぶち当たって、鈍い金属音があたりに響いた。


「お涙ちょうだい劇はもう終わり? まあクソつまんないからありがたいけど」


 刹那、どこからかぼきっ……という異音が鳴った。

 視線を向ければ、ニックの手首があらぬ方向にねじれている。

 関節を無理矢理外して縄からするりと腕を抜くと、落ちていたナイフに手を伸ばした。


「くそっ!」


 咄嗟に食らいつくが間に合わず、ニックがひょいっとナイフを持ちあげた。


 自殺されてしまう……と臍を噛んだ僕の目の前で、ニックはナイフをいじりながら突きあたりに向かって歩いていく。


「ねえ知ってる? 俺もこの間教わったばっかなんだけどさぁ。留置所の鍵って案外簡単に開くんだよ」


 言いながら奥に設置されているドアの前に立った。

 刃先を隙間に滑り込ませ、左右に大きくしならせる。

 たちまち軽い金属音がして牢のドアが開いた。


「なっ……」


 ニコニコと微笑みながら外に出てくるニックを前に、その意図がくめずに身動きが取れなくなった。


 ここから逃げるだけなら、さっさと自殺したほうが効率がいい。

 生身で逃走劇を企てるほどニックは愚かではないはずだ。


 と、ニックが何かを拾いあげた。

 その手に収まった黒い塊――


「俺の筋書きはこうだ。『助手は探偵を裏切り敵と手を組もうとした。それに気づいた探偵が糾弾しようと留置所へ。しかし話し合いで解決できずに銃撃戦が勃発。流れ弾に当たって俺、死亡。探偵と助手も相打ちに』……ちょっと無理がある? でもみんなが死ねば証拠も消えるし一石二鳥なんだよなあ」


 この場にそぐわないおどけた口調でニックが言い、銃の照準をワトソンの背へと定めた。


「というわけで、死んでね」

「ワトソンっ……」


 咄嗟にワトソンの腕を引くと、やや遅れて乾いた銃声が聞こえた。

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