第27話 DAT ROSA MEL APIBUS

「ホームズ、僕は留置所へ行きますけど君はどうしますか?」


 ドア越しにかけられた言葉に目を瞠って、きごちなく頭をもたげた。

 視線が天井からドアに移る。

 背後の窓から差し込む赤橙色の朝日が、僕の輪郭を黒い影にしてドアに刻んだ。

 どうやらいつの間にか翌朝になっていたらしい。


「えっと、ここにいるよ」

「そうですか。昼前には戻りますからね」


 遠のいていくワトソンの足音が自分の心音と重なって、はち切れそうな鼓動を刻んだ。


 いつの間にか朝になっていた。

 


 あと数時間もすればワトソンが戻ってきてニックの死を知らせるはずだ。

 解剖室に行って、ニックの死体を確認して、それから……それから。


 殺されておきながら、尚、ワトソンを疑いたくない自分がどうしてもいる。

 しかし一方では、僕の中にいるシャーロック・ホームズが囁いてくる。


 ――〝初歩的なことだよ、偽ホームズ君エレメンタリィ・マイ・ディア・フェイクホームズ〟と。


『ジョン・H・ワトソンという突然現れた有能な男。それが探偵の助手を申し出てきた。しかも事件を引き連れて、だよ。持ってきた案件も〝連続心中事件〟なんていうセンセーショナルな僕好みの事件だ。そしてその直後から、ずっと関連性すら疑われていた事件が動き出した。おかしいとは思わなかい?』


 やめろっ……。

 耳を塞ぐようにうずくまる。

 しかしずっと目を逸らしてきたあれそれについて、シャーロック・ホームズの姿を借りた僕の理性が畳みかけてくる。


『心中お見合いなんてアングラなもの、何故彼は知っていたのだろうね。解剖室に行こうと提案したのも彼だ。彼はニックの胸をピンポイントで切り開き、なんて言ったんだっけ? あれほど違和感のある言葉を忘れたなんて、まさか言わないだろうね?』


 もちろん、覚えている。


 ――本当にあった。


『〝本当に〟という言葉は事前に何か情報を持っていて、それが真実であると確認したときに出る言葉だ。つまりこのときすでに裏切っていて、タロットカードの存在を知らされている。では誰がその情報をリークしたのか。君は見当がついているはずだ』


 〝誰か〟までは特定できていなかったが、あらかた予想はついていた。

 それこそ、五度目の死にゆく瞬間に。


「モリアーティ教授……?」

『その可能性は限りなく高いだろうが、そうとも言い切れない』

「なぜ?」

『もし仮にモリアーティ教授から聞いていたのだとしたら、なぜワトソンがわざわざ解剖室に出向いてカードを回収する必要がある? 誰にも教えずに、あのままモリアーティ教授がカードをこっそりと抜き取ればいいじゃないか』

「確かに……」


 ここらで自問自答がアホらしくなってきたが、ホームズの仮面でも被っていないと現実を直視できそうになくて。

 あえて続ける僕は小心者だ。


『つまりワトソンは第三者からタロットカードの回収を依頼されていた。死体の胸にあるから回収して欲しい、とね。そしてそれを取りに来る人物がいるから託すようにとも言われていた。だからモリアーティに渡したと考えるのが筋だ』

「第三者って?」

『誰だと思う?』

「……ニックか」


 凡庸な思考でようやく答えにたどり着くと、頭の中のホームズがにやりと笑った。


 ちょうど今、ワトソンは留置所でニックと会っているはずだ。

 ここで裏切りを持ちかけられて、了承したって言うのか。

 金目的で?


『以上をまとめれば、ワトソンは金銭でニックに雇われ、結果的にモリアーティ教授の手伝いをしたというわけだ。君と彼の運命的な出会いも、魅力的な事件も、もしかしたら全ては教授に仕組まれたものだったのかも知れないな』

「そんなわけ……」

『違うと言い切れるのかい?』


 違う、とは言えなかった。

 どこから裏切られていたのかなんて、今となってはわからない。


 ピクニックでは初対面に見えたし、あのタイミングで取引を持ち掛けられている様子もなかった。

 しかしそれすらも演技で、出会いから仕組まれていたとしたら。


 ガタガタと音を立てて、理想のシャーロック・ホームズの世界が崩れていく。

 ホームズの世界には、唯一無二の相棒であるワトソンが必要不可欠なんだ。

 それなのに、そのワトソンがホームズを殺すなんて。


『どうしたんだ、僕。例えワトソンがいなくたって、ホームズがやるべき事は一つだろう?』

「ひとつ……?」

『モリアーティ教授を捕まえることさ。君が言ったんだろう? 〝あんたを確実に破滅させることができるなら、僕は公共の利益のために喜んで死を受け入れてやる〟と。ワトソンを奪った憎き犯罪王に一矢報いるのが物語上のホームズじゃないのか?』


 そうだった。

 いくらワトソンに裏切られようが、事件を解決しなければいけない。

 現状では一件の無理心中でしかニックを裁けないのだ。

 二十一人殺害の容疑で検挙するためには、名探偵である僕が死に戻りの謎を解かなければいけない。

 もう二度と理想の探偵と助手の関係に戻れなかったとしても、そんなことに傷ついて立ち止まっている暇なんかない。


 なぜなら僕こそが、シャーロック・ホームズなのだから――


 ふらふらとした足取りで、それでも思考を奮い立たせるために部屋中を練り歩いていたとき、ふと暖炉の上に置かれている本が目についた。

 とても古びた本で、本物のシャーロック・ホームズが所有していたものだ。


「あれ……?」


 よく見ればしおりが挟まっている。

 なんとなくそのページを開くと、薔薇のマークが目に飛び込んできた。

 葉と茎が十字を描くように交差しており、四語からなる標語が花を囲っている――


〝DAT ROSA MEL APIBUS〟


 ぎょっとして、文章を指で追う。

 そのページでは一六二三年にパリの街頭で張り出されたチラシとともに、薔薇のマークが紹介されていた。


「『このチラシは十五世紀に創設された秘密組織〝薔薇十字団〟のものである。薔薇十字団は始祖クリスチャン・ローゼンクロイツの遺志を継ぎ、錬金術や魔術などの古代英知を駆使して人知れずに世界を救済するとされている』……錬金術!?」


 その単語を口にしたとき、最後のピースがかちりとはまったような気がした。


 そうだ、どこかであの標語を見たと思ったら……英国のオカルト文化を調べていたときに本で見かけたんだった。

 確か十九世紀末に英国で創設された〝黄金の夜明け団〟という西洋魔術結社の前身である。

 現代西洋魔術の思想、教養、儀式、作法の源流になった近現代で最も有名な魔術結社。


 だとすると、ニックたちが蘇っているのは錬金術のせいだっていうのか。

 そんな摩訶不思議なものの存在を認めていいものか――そう考えて、すぐに疑念を払拭した。


 あり得なくはない。

 だって、僕自身も死に戻っているのだから。


 それにもし錬金術なんてものが存在するのなら、解剖室で抱いたホワイダニットについて一つの仮説が立てられる。


 すなわち、なぜカードが身体に埋め込まれていたのか。

 なぜ二つの遺体が同時存在したのか……。


 いや、この場合その言い方は正しくないだろう。

 正確に言えば、――の説明がつく。


つまり、ニックが錬金術を使っていることが立証できれば僕たちの勝利……なんだけど。


「ちょっと待ってくれ。ということはつまり、相手は錬金術みたいなチート能力を使い放題ってこと……?」


 気づいてしまった途端、胸が詰まる思いがした。


 だってそうだろう?

 推理力ゼロの僕が探偵として辛うじて成り立っているのは、他でもない死に戻り能力のおかげだ。

 それが唯一のアドバンテージだったはずなのに、この世界の犯罪者たちは僕以上のチート能力を使うだなんて。

 だとしたらもう、推理云々の話ではないじゃないか。


 無理だ、本能が全力で訴えてくる。


 この世のすべてを手に入れて人生を謳歌するあの絶対的な存在に、が勝てるわけがない。

 ワトソンだって、いないのに。


「なんだよ、錬金術師って」


 言いながら暖炉の前にへたり込んだ。


「史実のモリアーティ教授でさえめちゃくちゃ強敵なのに、あれに加えて錬金術まで使えるなんて。これじゃあ史実の何倍もハードモードじゃないかあっ……!」


 くたっと首を折ってうなだれると、呻くように独りごちた。


「どこで、間違えたのかなぁ……」


 事件を解決できないのは仕方がない。

 もとより推理力なんてないんだから。


 でも、僕からワトソンまで奪うことなんかないのに。


 ワトソンが裏切ろうと思った決め手は何だったのか。

 もっと頑張っていれば、裏切られなかったのだろうか。

 それとも、初めから裏切るつもりで助手になったのか――。


 考えたところで、推理力ゼロの僕には見当もつかなかった。

 よく考えれば、僕はこの世界のワトソンについて何も知らない。

 僕が知っているのは、史実のワトソンだけだ。


 ただ一つ確かなことがあるとするならば、彼はもう味方ではないということ。

 それだけははっきりしている。


 なら、僕はもうここからいなくなったほうがいいのかもしれない。

 このまま一緒にいたら


 真のシャーロック・ホームズファンとして、これ以上彼が裏切る姿は見たくない。

 それに、相棒に対して恐怖心を抱いてしまう自分も許せない。


 どうせ事件も解決できないのだし、ならば憧れのままで、綺麗なままで、ワトソンと親友だったときの記憶が残っている内に終わりたい。


「でも、行くところもないしなぁ……」


 自分で言っておきながらうなだれた。

 八方ふさがりとはこのことだ。


「もう、僕にどうしろって言うんだよ……」


 と、見計らったように玄関口のベルが鳴った。

 ワトソンが帰ってきたのかと思って身構えたが、ワトソンならベルなんて鳴らさずに入ってくることに気づいた。


 おそらく、イライザたちだ。

 そういえば前回のこの時間はイライザたちと過ごしていたっけ。

 しかし話すような気分にはなれず、完全に無視を決め込んだ。


 しばらくしてベルも止み、静寂が訪れた。

 ほっと安堵して、しかし何も解決していない現状に再び絶望して……。


  すぐにまた玄関からベルが鳴った。

 ジリリ、ジリリ、ジリ、ジリリリリリリ――。


 なんだか今度はしつこい。

 それでも無視を決め込んでいると、いきなりドアを蹴破るような轟音が響いた。


「うわっ……」


 泡を食って声をあげる。


 ドアを蹴破った何者かは、そのままズンズンと音を立てて階段を上ってくる。

 もはや恐怖でしかない。

 へたり込んだままじりじりと後ずさりドアから一番遠い壁面に背が触れたとき、事務所のドアも蹴破られた。


 なんだ、どうした?

 もしかしてモリアーティ教授が殺しに来たのか?

 前回までそんな展開は一切なかったが、イライザたちの訪問を無視したせいで未来が変わってしまったのか?


 言い知れぬ恐怖を感じて壁に張り付いた。

 と、目の前でドアノブが回される。

 鍵をかけていたためドアノブはガチャガチャと音を立てるだけで回りきらない。

 しかし、これまでのドアにも鍵はかかっていた。

 ドアの向こうにいる人物はそれらすべてを蹴破ってここまで来ているのだ。

 一巻の終わりっ……。


「おい、いるんだろホームズ! 俺だ、レストレードだよ!!」


 あれ、レストレード警部?

 あっけにとられて無言でいると、ドアノブがガチャガチャと音を立てた。


「いるのはわかってるんだ、返事くらいしろ!!」

「はい、いますっ」


 まるで刑事ドラマの突入シーンみたいな台詞だった。

 圧に負けて声をあげると、ドアの向こうから深い嘆息が聞こえてきた。


「あの、レストレード警部? なんでここに……?」


 言葉にしてから、はっとなった。

 もしかして心中事件が起きたから知らせに来たのだろうか。

 しかしワトソンが出て行ってからそう時間は経っていない。

 この時間ならニックはまだ獄中で生きているはずである。

 それなのに心中事件が起こったとなると、僕の仮説はすべて総崩れになってしまうのだが――


 さーっと血の気が失せていく僕の耳に、


「あ、いや、その」


 どこか歯切れの悪いレストレード警部の声が届いた。


「お前、昨日の逮捕時から何か様子が変だっただろ。そしたらさっき、留置所に向かう途中のお前の助手に出くわして……。あの野郎が、お前が昨日から飯も食わずに部屋に引きこもってるとか言いやがるからだな、その」


 つらつらと続く言葉がようやく途切れたところで、僕は口を挟んだ。


「僕を心配してくれたんですか?」

「そんなんじゃねぇ! 俺は飯を食わないガキが一番嫌いなだけだ!!」


 ものすごく無理矢理な理由が飛んできた。

 思わず引きつっていた頬が緩んで、自然と手がドアノブに伸びる。

 鍵を回してドアを開けると、目つきの悪いハスキー犬みたいな顔をして、後頭部をかきむしる大男が立っていた。


 ドアが開いたことに気づいたレストレード警部は一瞬ばつの悪そうな顔をしたあと、水に打ちあげられた魚のように口をパクパクと開閉させた。

 そして、


「……甘いもの、好きか」

「え?」


 予想外の質問に、ぽかーんと口が開いてしまった。呆然と「嫌いじゃないですけど」と付け加えると、途端にレストレード警部の鋭い舌打ちが響く。


「好きか嫌いか訊いてんだよ!!」


 取調室の尋問かという勢いで詰め寄られ、「好きですっ」と絶叫に近い声をあげた。

 なるほど、落としのプロと言われる刑事はこんな感じなのか。

 無駄に感心していると、


「初めからそう言えばいいんだよ」


 と素っ気なく言いながら警部が右手を差し出した。

 あまりの威圧感に気づかなかったが、その手にはマグカップが握られている。


「なんですか、これ」

「ホットチョコレートだ。自分用に作ったんだが甘すぎてな。お前にやるよ」

「いりませんって。というか、どこでこんなの用意したんですか」

「一階のキッチンを借りたんだよ。ほら!」


 え、ということはこれレストレード警部のお手製なのか?

 カップからは白い湯気がゆらゆらと立ちあがっている。

 ごつごつとした無骨な手が僕にカップを押しつけるたび、茶色い液面がたぷんと揺れた。


「言っておくがあのいけ好かないガキに許可はとってるからな!」


 僕の無言をどう捉えたのか、レストレード警部が咆えた。そして「甘いの好きなら飲め」とほとんど押し売りのように手に握らされる。

 甘ったるい香りを嗅いでいると、


 ぎゅるるるるるるるるる――……。

 正直すぎる腹の虫が盛大に鳴いた。


「ほらみろ、昨日から何も食わないからだ」


 勝ち誇ったようなレストレード警部の笑みが気に食わない。

 しかし背に腹は代えられず一口、二口とカップに口をつけると、


「甘い」

「だろ?」


 乾いてしなびれていた口の中の粘膜が、信じられないスピードでチョコレートを吸収していった。

 初めは味すら感じられないくらい機能が死んでいた舌先も、潤い出したら途端に鮮烈な甘さを脳に叩き込む。

 身体が求めるものを人間の理性ごときが止められるはずもなく、甘さを自覚してからは無我夢中で飲み込んだ。

 と、レストレード警部が、


「余計なこと考えるな。好きなものは好きって言えばいいんだ。いくつになってもな」


 と言った。


 飲み下した甘さが、食道を通りって胃を温めた。

 胃が温まるとなんだか全身の氷が溶けていくような気がして、吸いにくかった息も思いっきり吸い込めた。


 吸い込めたから――レストレード警部の言葉に息を飲んだ。


「飲み終わったんなら行くからな。俺も忙しいんだ」


 忙しいならわざわざホットチョコレートを作りに来なくても……と言いかけて口をつぐむ。

 もう僕は、この人がそうしてくれた理由を知っている。

 僕以上に素直ではない人なのだ。


「ちゃんと飯食えよ。じゃないといつまでもひょろいままだぞ」


 そう忠告を残して、嵐のようなレストレード警部は去っていった。


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