死に戻りシャーロック

英 志雨

序章

第1話 序章

 世界の四分の一を支配し、太陽の沈まない国と呼ばれていた大英帝国全盛期パツクス・ブリタニカ

 産業革命によって急速に発展した十九世紀のロンドンは、代償として深い霧に包まれていた。


 急速な変化は歪みを生む。

 ロンドンもその例に漏れず、霧の中では本当も嘘も、期待も不安も、高揚も失望も、論理的ロジカル非科学オカルトも……全てが許容された。

 相反する命題が同じだけの合理性・妥当性をもったまま青灰色の世界に内包されてしまったのだ。


 シャーロック・ホームズという名探偵は、そんな時代が欲した英雄だった。


 あの頃、全てを隠す深い霧が犯罪を助長させていた。

 次第に凶悪化する事件、巧妙になっていくトリック。

 市民は恐怖に戦いた。


 しかしロンドンは二律背反の都市だ。

 論理的ロジカルな解決が望まれる一方で、骨相学やドラキュラ伝説などの非科学オカルトも未だに幅をきかせている。

 凶悪事件の犯人はさしたる証拠もないまま逮捕され、死体は心臓に杭を打たれてさらし者にされた。


 これが十七世紀や十八世紀の出来事であればロンドン市民も納得しただろう。

 しかし今や科学が物を言い始めた時代。

 本当に犯人はあの男だったのか?

 本当に事件は解決したのか?

 恐怖心を募らせたロンドン市民は思っていた。


 ――ああ、こんなとき、何でも解決できる名探偵がいたらなあ。


 そうして生まれたのが、全知全能、どんな難事件も一所に解決してしまうシャーロック・ホームズだった。


 希代の名探偵は二律背反の矛盾に惑わされず、わずかな証拠から華麗に推理を披露していく。

 その人の辞書に迷宮入りの文字はなく、世界最高の探偵として愛された。


 そして時は流れ――現代。

 一人のシャーロックホームズ愛好家シヤーロキアンがその生涯を終えた。


 ***


 ほろ甘い白檀の香りがした。

 少し緊張しながら焼香台の前に立ち抹香をつまみあげると、額の高さまで掲げてから左の香炉にぱらぱらと落としていく。

 炭で熱せられた抹香からは再び甘い香りが立ち上ったけれど、ツンとする鼻には少し辛い。

 昔はちょっとしたことでも泣く癖があって、目頭に涙が浮かぶたび「ホームズは泣いたりなんかしないぞ」とおじいちゃんから揶揄われたっけ。


 灰白色の煙が立ちこめる中、遺影に閉じ込められてしまったおじいちゃんの笑みを見つめる。

 特徴的な鹿狩り帽をかぶり、パイプを咥えて挑発的に笑う姿はさながら名探偵といった面持ちで、つられて僕も笑顔になった。

 生前から「遺影は絶対この写真で!」と伝えていた、渾身の一枚が無言のまま出迎えている。


「……おじいちゃん、シャーロック・ホームズみたいだよ」


 読経しか聞こえない白い空気の中に、自分の声が水滴のように染みこんだ。


 昭和、平成、令和と三時代を生き抜いたおじいちゃんは、大往生と言っていい。

 だからこそ、その門出は笑顔で見送ろうと決めていたのに。

 抹香をつまむ手にぱたぱたと透明な水滴がこぼれ落ち、だめだなぁと自分自身に苦笑した。


 しかし全てはこの写真のせいなので、わざと泣かせに来ているのだからノーカンだと言い訳。

 この理由が通るくらいには、二人にとってシャーロック・ホームズは特別なはずだ。


「趣味に生きた人でした」


 喪主の母が弔辞を述べる。

 その顔はどこかむすっとしていて、視線が合うなりあからさまに嫌そうな顔をした。

 目線が捉えているのは、脇に抱えている鹿狩り帽だ。

 おじいちゃんとお揃いの、もっと言うと、シャーロック・ホームズとお揃いの。


 無理もない、と頭ではわかっていてもため息が漏れた。

 母親がおじいちゃんの趣味を恥ずかしがっていたのは知っている。


 だけど、安心してほしい。

 唇を噛んで涙を堪えると改めておじいちゃんの遺影を見あげ、


「僕がちゃんと、後を継ぐから」


 決意を込めてそう呟き、鹿狩り帽を目深に被った。


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