第十六話 きっとそれが理由・一

 朝餉の片づけを終えた登与は中庭の縁側からまだ一向に止む気配のない雨空を見上げ、うわあ、と声をあげた。

「いやもう止もうよ……」

 特別強い雨ではないけれど、復旧作業には支障が出る程度ではある。縁側から覗きこみ、登与はうんざり顔するしかなかった。

 昨日の帰り、多分雨が降るだろうから来なくていいとまとめ役の男は言っていたが予想は的中だ。今日は屋敷にいるしかない。

 今日一日分の食料は買ってあるからまあいいかと前向きに考えることにし、それからふと思いいたって登与は眉をひそめた。

「これ、さすがにいないよねえ……?」

 いたら馬鹿ですかと言いたくなるかも……。

 念のために中庭に目を凝らしてみるが、辰臣がいる様子はなかった。もっとも、いたところで辰臣が雨に濡れるのかという疑問はあるのだが。何しろ強い天狗である。術で雨水を避けるくらい簡単だろう。

 だから登与はそれ以上辰臣のことを考えず、縁側に腰を下ろした。風呂敷の上に道具と材料を広げる。

 さて今日も始めますか。せっかく時間が空いたんだから有効活用しないと。

 気合を入れて、登与は小物作りに手をつけた。

 町の木工職人に頼んで加工してもらった簪の本体に、登与はごく薄い墨で下書きした簪に彩色していった。花や草木、器物をあしらったものばかり。明るい色の木地に、色彩豊かな絵が塗りつけられていく。

 全部で十本ほどを手早く塗ったあと。転がってしまわないよう丸めた手ぬぐいの上に筆の穂先を置き、登与は息を吐いた。

 祭りが近くなるにつれ、数日おきに行なっている登与の行商も忙しくなっていた。特に簪を求める若い娘が多い。どうやら久江たち町娘があちこちで登与の簪のことを褒めて回っているらしく、そのおかげで興味を持つ者が少なくないようだ。

 ありがたいことなんだけど、復旧作業を手伝いながらちゃちゃっと作れる小物の数は限られてるんだよねえ……。祭りのときに売るぶんも充分確保しておかないと駄目だし。

 完売前に店じまいして材料を仕入れ、すぐ屋敷で制作にとりかからないといけない。まったく忙しい。嬉しい悲鳴とはこのことである。

 小物作りに励む中、ちらりと久江のことが登与の脳裏によぎった。

 久江が祭りにこだわるのは年頃の娘だからであり、うんざりする現実を忘れたいからだろう。あるいは美しく着飾ることで、誰かに見初めてもらいたいのかもしれない。誰かと添うことになれば、家を出ることも可能だろうから。

 ……ま、あてずっぽうでしかないけど。

 それでも。彼女がひとときだけでも己を着飾って嫌なことを忘れ、楽しい気持ちでいられるようにしてあげたい。

 優しく息苦しい檻の中で育った子供にはこんなささやかなことでしか、弱く脆い自分の心を守ることはできないのだから。

 削って、彫って、磨いて、結んで、描いて、塗って。登与は無心に作業をしていく。同世代の少女を憐れむ気持ちは、作業工程の中に沈んで失せる。

 そうしてどのくらい経ったのか。

「っ?」

 何の前触れもなく空気が震え、登与はさすがに意識を現実に戻した。手を止めて顔を上げる。

 雷が落ちたのだ。続く唸るような音で登与は理解した。雨はさらに強くなり、盥をひっくり返したというよりは滝のよう。雨音がうるさい。

「あ……」

 やだなあ、と思いながら視線を空から庭へと下ろした登与は、勢いよく落ちる雨粒で白く見える庭にあるものを見て目を丸くした。

 あの墓石らしきものの前の石に鎮座する影――辰臣だ。一体いつのまに座っていたのだろうか。

 雷鳴に呼ばれるように勢いを増したこの豪雨の中、よくいられるものだ。石の前に背筋をぴんと伸ばして端座したままの姿に登与は呆れた。

 声をかけると怒りそうだなあ……。でもこのままほっとくのもねえ……。

「あの、このまま止みそうにないですし、ちょっと休憩したらどうですか?」

 思いきって登与は声をかけた。無視するならすればいいと思ったのだ。少なくても、声をかけてやったのだからと登与の気は済む。

 しかし、登与の思惑は外れた。

「……」

 辰臣は何故か反応して、首をゆっくりとめぐらせたのだ。白くかすむ雨の中、鋭い眼光だけがはっきりと登与の目に映る。

 想定外の展開だ。登与はその場にすくんだ。

 やがて辰臣は立ち上がった。どういうわけか茶の間のほうへ向かってくる。

 登与は心の中で慌てたがもう遅い。辰臣は縁側に腰を下ろした。ずぶ濡れになっていないのは術でもかけていたからだろう。

 まじですか。なんで今回に限って人の話を聞くんですかね。

 言葉にはしないものの、登与は心の中でだらだらと汗をかいた。こうなるなんて想定していない。

 商品を作ろうにも辰臣の気配が気になって仕方ない。かと言って沈黙にも耐えられない。ここに茶葉があれば、茶を用意すると言い訳できるのに。

 そこで登与は辰臣が何故か商品に目を向けているのに気づいて、さらにわけがわからなくなった。物の意匠に興味がないとか言っていなかったか、この天狗。

 奇妙な沈黙の中、口を開いたのは辰臣のほうだった。

「……お前は彫刻もするのか」

「え? ああはい。描くのも彫るのも、縫うのもしますよ。小物の材料は色々なんで」

 登与が目を丸くしながら答えると、ならばと辰臣は言った。

「これに、彫刻を施せるか」

 言って辰臣は素襖の袂に手を入れ、三本の白木を登与に見せた。二つはまったく同じ形をしていて、残る一つには特徴的な反りがある。

「……できますけど。これ、小刀の柄と鞘ですか」

「……ああ」

 辰臣は頷いて肯定する。ということは、登与が外出しているあいだに刀を打ちでもしたのだろう。

 刀に白木の鞘と柄を用いるのは、ごく普通のことだ。組紐や唾、根付、装飾が施された鞘といった刀装具は、いわば刀の晴れ着。普段は白木の鞘と柄に刀身を収めるなどして、刀身が傷まないようにするのが正しい保管の仕方である。そのあたりのことは、小太刀の使いかたを叩きこんでくれた武人から教わった。

 刀の普段着に彫刻を施すなんて、聞いたことがない。しかし辰臣は天狗なのである。天狗の世界ではそういう文化があるのかもしれない。

「わかりました。ご希望の意匠はあります?」

「……………ない」

 間をおいて辰臣は答えた。

 遠くに向けられたその視線、表情。考えてみたけれど思い浮かばなかった、もしくは浮かんだ案を却下したとしか思えない沈黙。

 登与は眉をひそめた。もしかして辰臣に小刀を依頼したのは顔見知りなのだろうか。

「……あの。小刀を打ってくれって辰臣さんに依頼してきたの、佳宗さんだったりします?」

「……何故あいつの名を知っている」

 不思議に思って登与が尋ねると、辰臣は眉を寄せた。

 あ、そういやこのあいだ佳宗さんに教えてもらったったって言ってなかったんだった。

「このあいだ、また会ったんですよ。辰臣さんが術をかけた黒天狗に襲われかけたんですけど、助けてもらいまして」

「なんだと」

 辰臣の表情と声音が一変した。ただでさえ鋭いそれらが一層迫力を増す。

「あの黒天狗が来たのか」

「は、はい。河原のところで。このあいだから来てる連中と一緒に町にいるみたいです。賽の河原と重なる時間になったんで、戦う前にお互いその場から逃げたんですよ」

「……外道が」

 身をすくませて登与が答えると、辰臣は眉間にしわを寄せ不穏な響きで呟いた。登与は心の中でひいと悲鳴をあげる。

「そ、それから佳宗さんと少し話をしまして……あ、佳宗さんが押しかけ女房さんに辰臣さんのところへ行くよう誘導したとか、辰臣さんが賽の河原の闇を操れる特別な天狗だとか。そういうのですよ。押しかけ女房さんがあの黒天狗に幽閉されてて、‘白幻花’って花を持って逃げてきたのも聞きました」

「……」

「それから私の名前を教えて、あの人にも名前を教えてもらったんです。それとすみません。辰臣さんに名前を教えてもらったことは話しちゃいました」

「……」

 登与がそう打ち明けた途端。辰臣の黒い目に怒りがにじんだ。

 やっぱりー! 言うんじゃなかった……!

「いえほんと、すみません、許してください。ついうっかりなんです」

 震えあがり、両手を合わせ拝むようにして登与は許しを請う。こんなところ、こんなくだらないことで死にたくない。

 登与が本気で謝っているのを見てとったのか、辰臣はやがて小さく息を吐いた。

「……佳宗にあまり気を許すな。玩具にされるぞ」

「うーん、でもまあ大丈夫じゃないですか? 私をだしに辰臣さんをからかったりはするでしょうけど、佳宗さんは辰臣さんに屋敷の外へ出てほしいだけみたいですし。辰臣さんが反応しなかったら私になんか興味出さないですよきっと」

「……」

「あの黒天狗も馬鹿ですよねえ。私を人質にしたって辰臣さんが慌てるわけないのに。佳宗さんが言うには、結構弱ってきてるからわざわざ自分が出てきたんだろうってことですけど……‘白幻花’は辰臣さんが屋敷のどこかに隠してるんでしょう?」

 登与は中庭から奥座敷へ視線を移し、辰臣に断言した。

 沈黙する辰臣だったが、断固とした拒絶よりも迷いを登与は感じた。常の鋭さが表情から失せ、まとう空気にも揺らぎがはっきりと表れているのだ。

「別に言わなくてもいいですよ。辰臣さんが本気で隠してるなら、どうせ私に見つけられっこないですし。もう探すつもりはありません。あの黒天狗に渡してもろくなことにならないのは間違いないですから、渡したくないですしね」

 登与は肩をすくめて言った。辰臣の答えは求めず、それで話は終わりのつもりだった。

 ――――しかし。

「……隠しているわけじゃない。俺にもどこにあるのか、わからんのだ」

「へ? 辰臣さんにも?」

「……あいつが使ったからな」

 目を丸くする登与に辰臣はそう語りだした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る