瑞木由花 13歳 春2

 パンパン、バンバン、キュッ、キュッキュッ。グローブがミットやサンドバッグを叩き、シューズが床をこする。小刻みな呼吸音がフシュッ、と鋭くなるのと、ほぼ同時に破裂音が響く。エアコンが唸っているのに消えない熱気と、隠しきれない汗臭さ。壁にかけられた大きなタイマーが三分と一分を刻むたび、アラームがけたたましく鳴る。それらすべてにわたしの心が高ぶっていく。ジムの端っこで椅子に座ってるなんてつまんない。一秒でも早く、あの中に混じりたい。


 中学の入学式から五日後の放課後。わたしはようやく、わたしなりの一歩を踏み出そうとしている。はやる気持ちを抑えるのに苦労しつつ、もぞもぞ足をすり合わせる。


「お待たせしました。娘さんが入会希望ということでお電話を頂いていた瑞木様ですね? 私はセレスボクシングジムのトレーナーの場崎統司といいます」


 細マッチョな三十歳くらいの男の人が来て、わたしたちを見比べてそう言った。茶髪をツンツン立ててるけど、目が丸っこいから迫力がない。


 わたしの隣で居心地悪そうにしていたお父さんが、まあ、ええ、と気のない返事をするから、かわりにわたしが、はい、って大きな声で答えた。


「女の子の体験希望者は珍しいですね。女性だとエクササイズコースを選ぶ方ならいらっしゃいますが、全員成人されてますし。あ、でもうちには小学生から参加できるコースもあるので、安心してください」


 確かに、今いるのは大人の男性ばかりだ。特に今リングに上がってる選手のパンチなんて、喰らったら一撃で気を失っちゃいそう。


「それではコースの説明をさせていただきますね。まず――」

「プロ育成コースで。あるんですよね?」


 このジムのことは来る前に調べてある。プロボクサーが何人もいて、しかも世界チャンピオンを出したこともあるのだそうだ。


 場崎さんはわたしをまじまじと見る。本気かコイツ、って顔に書いてあって、悪いか、って睨み返してやった。お父さんが、由花、ってわたしをたしなめる。


「……あー。えっと、君は今いくつ?」

「十二歳。先週中学生になったばっかりです」


 ホントは引っ越してすぐ始めたかったんだけど、嫌がるお父さんたちを説得した時、中学になったら部活の代わりに、って条件を付けられた。


「じゃあ無理だ。ウチはプロボクサー育成コースは十六歳以上からしか受け入れてない。っていうのも、プロテストを受けれるのが十六歳からだからだ。アマ選手育成コースも同じ。中学生が入れるのは、子供向けボクシングコースだけだよ」


 そんな。わたしは絶望する。一刻も早く強くなって、おねーちゃんを守れるようになりたいのに。ガッカリと肩を落とすと、場崎さんはきまり悪そうにせき払いする。


「えっとな。どうしてプロ育成コースに入りたかったんだ?」

「強くなりたいから。守りたい人がいるから」


 場崎さんの目を睨むように見つめる。笑わずに真正面から見つめ返してくる丸い目を見て、この人なら信頼できるって確信した。


「なるほどなあ。ボクシングを選んだ理由は?」


 場崎さんの言葉が砕けてきた。多分、こっちが素なんだろうな。


「わたし、前まで柔道やってたんですけど、あっちは礼とか正座とか、かたっ苦しくてやってらんなかったんです。でもボクシングは、入場曲を流したりとか、自由な感じがしていいなって。あとわたし、投げるより殴るほうが性に合ってると思ったので」

「へ、へえ。性に合ってんの」

「やっぱり実戦経験が大事って言いますし。たくさん試合して、早く強くなりたいんです。そのためには、やっぱりプロになるのが一番かなって」


 お父さんがため息をついた。了解しただけで、理解はしてないって感じ。


「男子だって初試合は怖がるものなんだけどなあ……。わかった。そういうことなら、やっぱり子供向けボクシングコースがいいと思う」

「……だから、わたしは強くなりたいから、それじゃダメなんですって」

「子供向けっつっても、JCL……ジュニアチャンピオンズリーグや、全日本アンダージュニアボクシング王座決定戦っていう十五歳以下の大会には出れるし、そこで勝ち抜けば日本トップレベルの女子と戦えるぞ。そもそも子供向けっていうのは、成長期の小中学生には体に見合った量と質の練習をさせようって意味で、お遊びって意味じゃねえんだよ」


 目から鱗だった。ていうか、普通はそうだ。わたし、もしかして焦って空回りしてる? 


 場崎さんは人の好さそうな笑みを浮かべた。


「もちろん楽しみでやる子もいるが、本気でやりたいならそういう練習メニューを組んでやる。なんならオレがコーチしてもいい。こう見えても元プロボクサーで、十回戦をやったことがあるんだぜ」

「ボクシングって十二回戦じゃないんですか?」


 笑みが引き攣る。


「そうか、初心者だもんな……。ボクシングで十二回戦をやるのは、世界タイトルマッチとか東洋太平洋くらいだよ。十回戦は、日本タイトルマッチだ。つまり、日本最強のボクサーへの挑戦権を手に入れるために戦う権利を得たことがあるってこと。……まあ負けたんだけど」

「え、でもすごい」


 本心だ。だってつまり、日本最強に勝てるかもしれない人の中に選ばれたってことでしょ? 


「どうやったら強くなれますか?」

「そうだなあ。オレは、戦う理由を持つこと、だと思う。例えばさっき君が言った、守りたい人がいる、とかな。……ボクシングは、どんなスポーツよりも痛みと苦しみが伴う。何しろ殴り合いで、しかも厳しい体重制限付きだからな。だが、絶対負けられない理由があると、倒れないし、倒れても立ち上がれる。強くなる理由があると、キツイ練習に耐えられる」


 頷いた。そうだ。わたしはおねーちゃんを守るために、絶対に強くならないといけない。そのためならどんなキツい練習だって耐えてやる。


「だから、場崎さんは十回戦まで行けたんだ」


 そう言うと、場崎さんは少し寂しそうな表情を浮かべた。


「いや、オレにはなかったんだ。守りたいものはあったんだが、ボクシングをする理由にはならなかった。そう気づいたから、現役を辞めてトレーナーになったんだよ」

「守りたいものって?」

「嫁さんだよ。一緒に生きていくためにお金を稼げるようになりたかった。ボクサーはよほど強くて有名じゃないと稼げないからな」


 場崎さんが微笑む。きっと心の底から大切なんだろうなっていう、そんな微笑み。親近感を覚える。そうだよね。そういう人のためになら、自分を変えるのだって怖くない。


 この人に習いたいと思った。


「お父さん、わたし決めた。ここにする」


 隣からもう一度ため息が聞こえた。


「わたし、瑞木由花。由花って呼んでください。今日からお願いします、コーチ」

「ああ、よろしく。……ってことでいいですかね?」

「はあ……。まああの、防具を付けるとはいえ、怪我だけは……いや無理か。由花だしな」


 お父さんもわかってるじゃん。


 早速入会登録を済ませてもらう。今日は雰囲気を掴むくらいでいいらしい。アップをして、早速サンドバッグを殴ったりミットを打ったりするんだと思っていたら、まずはステップの練習だった。拍子抜けするわたしを見て、コーチが苦笑する。


「ステップはすべての基礎なんだよ。……なあ由花、お前喧嘩っぱやいほうか?」

「うん」

「お、おう、あっさり頷くんだな。今どきそんなヤツめったにいないぞ……。じゃあお前は特に気を付けろよ。うちのジムは、正当防衛以外の理由でジムの外で人を殴ったら、即退会してもらうことになってるから」

「どんな理由でも?」

「どんな理由でも。なぜならオレらの拳は凶器だから。ボクサーは、正当防衛のために殴っても過剰防衛になるって話を聞いたことないか? アレはまるきり本当ってわけじゃないが、それくらい危険だってことはわかっていて欲しい。ガッツ石松は、弟が酔っ払い十数人に絡まれた時、無傷で全員に全治五日の怪我を負わせた。あの時は正当防衛になったが、ボクシングをきちんと身につけると、そんなこともできてしまうんだ。力には責任が伴う。だから、絶対間違った使い方をしちゃいけない」

「わかった。わたしは守ることができたらいいの。暴力はダメ。絶対に忘れない」


 おねーちゃんを守りたいからって、殴れば解決するとは限らないって、わたしはもう知っている。それでも力をつけたいのは、言葉が通じない暴力には、暴力で戦うしかないってことも知ってるから。


 そう、これはわたしにとっての戦争なんだ。


「よし、それじゃあステップの仕方、の前に正しい構えを教えるぞ。まず正面に対し利き手と反対側が前になるように斜めに立ち、足を肩幅に開く」


 しばらくして、わたしは心配そうなお父さんそっちのけで練習してることに気づいた。

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