喫茶去 小説に死(不治の病気)と可愛らしい子供やペット、手紙形式を出したらそれだけで一翻(イーハン)
一翻(イーハン)というのは、麻雀用語で役が一つあるという意味である。
タイトルの通り、人が死ぬまたは死にそうな話、無邪気な子供が出てくる話、ペットなど可愛らしい動物が出てくる話、手紙によって語りかける話は、それだけで読者の共感度や没入感がアップする。それも、小説を書く技量とは関係なく、である。
繰り返しになるが、これらの題材を使用すれば、読者をそれなりに感動させ、心を動かせるということである。すでに役が1つできあがっていると言いたいわけだ。
わたしたちはしばしば、これらの「一翻作品」に頼りがちで、しかもそこだけをフォーカスして書いてしまうことが多い。非常に言葉が悪くて失礼極まりないのだが、「お涙頂戴作品」で客を呼び込んでしまっている可能性があるわけである。
これらのテーマに対して、わたしは一翻分の下駄を履いていることを理解してから読むようにしている。そうしないと賞レースにおいては公平でないと思うのだ。無論、「一翻作品」がまったくダメなわけでも悪いわけでもない。あくまでも選者としてのわたしの物差しとして、こう考えている、と言っている次第である。
では、わたしのいう「一翻作品」でどうなれば更なる満足感を得られるのか。わたしの答えは、「起承転結」の「承」でどれだけ「結」である「感涙や感動のシーン」に説得力を出せるのかということだたと思う。「結」、つまりクライマックスシーンに至るまでのプロセス(ここでいうプロセスとは、過程というよりも理由というニュアンスになるだろうか)に、どれだけ読者を引き込めるのかということだ。簡単に言えば、クライマックスへの助走をきちんととってほしい、と言っているわけである。
わたしとてそれなりに普通の感性を持っているから、可愛らしい猫の話が続けば心が温まるし、子供がいじめにあっているシーンがあれば、母親としての自分が怒りと悲しみを覚える。しかしながら、それは「話」によって引き出された感情であって、「小説」から汲み上げだされたものとは少し違う気がするのだ。極論すれば、小説でなくてもその作者自身が書いたものでなくても、別に良いではないかと思ってしまうわけなのである。
読者は人間である。作者が読者の感情を引っ張り出したいと思うように、読者としては納得した上で泣き笑いしたいと思うのは当たり前な気持ちではないだろうか。ゆえに、納得には心の準備というものが必要で、それをいかに「承」の部分でさせてくれるかによると思うのだ。
今回の参加作品で、「承」のプロセスをしっかりと書けた一翻作品は、二翻(リャンハン)どころかそれ以上の役にまで発展したと思う。しかし感動テーマだけを前に出しすぎすたものは、やはり一翻どまりになってしまっている。それはとても残念で不幸なことだ。
ただの読者としてのわたしであれば、素直に「感動しました!」「泣けました!」「心が温まりました!」という作品でも、選者の目を通して読む場合には、さにあらず、という場合があることを知って頂けると幸いである。
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