一輪の花だけが春を作るのではない 3

 どうして。栞は再び、自分に対して疑問をぶつける。なぜ、私はこれを忘れていたのだろう。

 栞とて、他人に無頓着ではないはずだ。自分の何気ない言葉が他人を傷付けてしまったと感じたことだって、ある。弟のことはどこかおかしいと常々感じてはいたが、だからと言って粗野に扱っていいと思ったことは一度も無い。無い、はずだ。

 ただ、栞はやはり幸福だったのだ。幸福が日常であり、栞にとって幸福はもはや義務ですらあった。だが海里にとっては、ひとつの権利にすぎなかった。

 幸福だった栞は、誤解していたのだ。人間という生き物は誰であれ、幸せのために生きているのだと信じていた。それは栞にとって、信念よりも前にある、当然の摂理だった。個々人の言う幸せが多々あったり、その方向が他人を向いていたりすることはあれど、奥底には『自分が幸福感を覚えられるかどうか』というただ一点にのみ終結するものと信じて疑わなかった。


 でも、少なくとも、今目の前にいる弟は違う。弟は『自分以外の他人が幸福でいられるかどうか』しか主軸にない。だからこそ、ブレブレになるのだろう。そしてその引き金を引いてしまったのは、他ならぬ自分なのかもしれないと思うと、言葉にできないほどの後悔に襲われるようだった。それは味のしなくなったガムが靴の裏にこびりつくような、しつこい後悔だった。


「姉ちゃん? 」海里の呼びかけで、ただ一点、靴の裏のガムに向けられていた栞の気は、呼び覚まされる。「お、怒ってる……? 」びくびくと怯えながら上目遣いでそう訊ねる弟を見ていると、なぜか目の奥に涙がこみ上げてくる。なんで、どうして。酢谷海里という人間は、どこまでも暴力的なまでの利他心でできているのだろう。

 栞はなんとかため息を飲み込み、未だ蹲るようにしてこちらを見上げる海里に向き直った。「怒ってない。」しまった、言ってから思った。この愚鈍で機敏な弟には、しっかりと言葉にしなければ伝わらないと思ったからこそ『怒ってない』口にしたのに、出た声はどう聞いても怒っているものだったから。これでは逆効果だ。

 思わず下唇を噛む。が、海里の表情は依然として、かたまったかさぶたのまま微笑んでいるだけだった。「ごめん。」そんな残酷な言葉で、こいつはまた壁を築く。無遠慮に突き放されるよりも、優しい言葉で距離を保たれる方が何倍も鋭利だということに、こいつはいつ気付くのだろう。


「ごめん、って言うなら、私の方。」栞の拗ねた声に、空気が揺らぐ。「自分がしんどかったからって、あんたを無闇に傷付けた。言われたくない言葉だろうな、ってわかっていたことも、言ったってあんたは何も思わないだろうって思い込んでた。……いつもみたいに、ただ笑ってるだけなんだろうって。」

 やっとわかった。十何年もこいつの姉をやっていて、ようやく理解した。端的に自分の感情を伝えたり、どう思っているのか訊いたりするだけじゃ、海里の声は聴くことができない。誰かが人は鏡なのだと語っていたが、まさにそれで。こちらがどう思っているのか詳らかに文章化して、あなたを傷付ける意思なんて微塵も無いんだよと両手をあげて見せなければ、涙のひとつすら流してはくれないのだろう。

 なんて厄介なんだ。栞は胸中で嘆息しながら、しゃがみこみ、未だに廊下で蹲っている弟と視線を合わせた。「海里。ちょっとあんたの部屋、邪魔していい? 」弟が小さく頷くまで、そう時間はかからなかった。

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