目が遠ざかれば心からも……?

目が遠ざかれば心からも……? 1

 春というにはぬるく、夏というには活力がなく、秋というには朗らかで、冬というには温もりがあった。酢谷海里という男はとにもかくにも掴みどころがなく、目を逸らせば追ってくるくせに、その手に触れようとすればするりと指の隙間からすり抜けてゆくような、そんな人間だった。

 パソコンの小さな画面で観ているだけでも、撮った瞬間の感覚が蘇る。数え切れないほど重ねた編集作業はもはや習慣に組み込まれたもののひとつで、とっくに終わらせたはずのエンドロールはただむなしく画面にしがみついていた。


 あんなこと、しなければよかった。何度目かの後悔が、夏生の全身を襲う。

 思えば自分の人生は、後悔してばかりだ。酢谷と同じ高校を選ばなければ、酢谷を好きにならなければ、いや、もっと言うならば、酢谷に出会わなければ。

 もし、自分が産まれる前に両親がローンを組んで買ったこの家の場所が違っていたら。もし、母さんが妊娠したときに駆け込んだ病院が違っていたら。生産性のない仮定が、しゃぼん玉のように浮かんではぱちぱちと割れて消えてゆく。


 もう長いこと、母がいるであろう寝室の扉が開いているのを見ていない。リビングにはゴミが散乱するようになり、洗濯物はかごや洗濯機に入れられることすらなく、ただただ脱衣所にはこんもりとした山ができあがっているだけだった。

 相も変わらず毎日千円札だけは綺麗にリビングの卓上に置かれているが、もう随分と長くそれを置いている人の姿は見ていない。本当にごく偶に、父から連絡が来るけれど、それも毎回たった四文字。『元気か? 』

 家族全員が全員、見て見ぬふりで目を背け続けてきただけで、全員とっくに気付いている。もうこの家は、手の付けようがないところまで破綻しきっている。その現状から逃れるために、父はよそに愛人をつくり、夏生は画面の中に想い人を閉じ込めた。

 それだけで、たったそれだけで満足しておけばよかった。触れることができるはずもない柔らかい表情に手を伸ばし、ぴたりと画面に触れる。当然そこには生温いだけの電気の硬さしかなく、手のひらは一縷の痛みすら抱かないまま名残惜しげに画面をなぞった。


 そうこうしている間にも、携帯はうるさいバイブ音を鳴らしている。通知なんか後ろ髪引かれることなくきっぱりと切ってやればいいのに、残された承認欲求と来る保証もない酢谷からの連絡は逃したくないという醜い想いが、その選択をよしとしてくれなかった。

 窓から差す、長閑な平日の日光が目に痛い。もう学校に行かなくなって、四日目になる。明日は行こう明日は行こうと思うのに、その明日が今日になれば心は根元からぽっきりと折れていた。

 無理やり登校させようとする親がいたならば、そんな折れた心も無視できたのかもしれないが、当の親は家の奥の暗い部屋で今も閉じこもっている。学校に行っていないことすら気付いていないのではないだろうか。まぁいつものようにリビングの千円札は毎日回収しつつ、冷蔵庫の中身や戸棚のインスタントラーメンを拝借しているから、さすがに気付いていないということはないか。

 母も母で、毎日食事は採っているようだった。最低限の食料が押し込まれた冷蔵庫の中身は、少しずつではあれど減ってはいる。人間とは愚かなもので、生活できないほど精神を病んでいたとしても、腹は減るし食事をしたくなるものだ。


 そんな愚かな人間たる母を、哀れだとは思うが、異質だとは思わない。自分も似たようなものだったから。

 人間、空腹になれば食べものを欲する。そしてそれと同じように、満腹なときは明日の献立を考えやしない。満たされている間は不安になる暇すらなく、打算すらなかった。

 カメラを向けている間は、好きになってほしいとかいう醜い感情も何も無かった。ただばかのひとつ覚えみたく、明日もまた同じように満たされた自分が居るのだと信じて疑わなかった。

 出来上がったものに、満足したことはない。ただ撮っている間はどうしようもなく満たされていた。久しぶりに口にした酢谷の愛称たる呼び名も、数ヶ月もすれば呼び慣れていき、カメラ越しにその表情を見る度にどうしようもなく満たされた。

 撮り終えたものを何度も編集して、幾重ものこだわりで画面の中に酢谷を閉じ込めた。そんなことをしている間にも、現実に生きる酢谷は稲垣との距離を縮め、季節は本格的に夏を終え、秋も終わり、遂には昨日、今年最初の雪も降ってきてしまった。

 編集作業をしている間は、昏い感情を抱きながらも焦燥が常に迫ってきていた。少しでも納得のいく作品に仕上げなければ、いや、最高の映画にしなければ、酢谷に失望されてしまう。そうでなかったとしても、これはもはや願掛けだった。

 これで最高の作品に仕上げて、世間に映画監督として認められるようになれば、この臆病で幼い恋慕も昇華される。そう自分に言い聞かせて、言い聞かせて、自分の中だけで燻って終わらせることもできなくなった。

 我ながら笑える。偉大な映画監督になってトロフィーと花束を持って跪けば、この恋が報われるとでも思っていたのだろうか。そんなの、聞き飽きたおとぎ話以上にご都合展開の楽観主義だろうに。



 ある程度完成した一週間前、酢谷に作品を観てほしいと思った。会心の出来とは言えなかったが、ここいらで本人に観せないと一生作品として出来上がらないことくらいは薄々勘づいていた。

「あっ、かお! 聞いて驚くなよ? まじ絶対内緒なんだけどさ、今日の放課後稲垣と飯食いに行くんだ! 」だが、作品を酢谷に観せることはできなかった。メッセージアプリでのタップひとつで送信することもできたが、少しでも素直な酢谷の表情を近くで観たくて、脇目も振らずスマホを握り締めて登校した、のに。

 そんな夏生を迎え入れたのは、何よりも大好きで憎らしい晴れやかな笑顔。そこまで距離が縮まっていたのか、なんて、絶望は言葉にならなかった。

 あれから数ヶ月は経っていたが、稲垣に発言を謝っておらず、むしろ会話すらほとんどしていない。映画を撮っている間に酢谷から稲垣の話を聴くような愚かなことはしなかったし、酢谷はずっと自分の傍に居てくれるものだと信じて疑わなかった。

 あのふたりの間に何があって、何がどうなって、どういう関係になったのかだなんて、映画を撮っている間は微塵も気にならなかったのに。目を逸らしてきた問題全部が急に降り掛かってきたようだった。酢谷を目の前にして、抱き締めたいだとか触れたいだとかいった感情よりも、突き飛ばしてしまいたいという感情が前に出てきたのは、夏生にとって生まれて初めてのことで。どうしたらいいのかわからなくなった夏生は、感情に奪われた水分を瞬きで補給し、酸素が行き渡らなくなった肺をなんとかしようと呼吸を繰り返した。

 人間として当たり前の行為をあんなにも意識的かつ必死に繰り返したのは初めてで、それなのに何故か目の前がぐらぐらと揺らめいていた。

 晴れやかだった酢谷の表情は徐々に曇り、これ以上醜態を晒して酢谷の表情から温度を奪うくらいならとトイレに駆け込んだのは、我ながら英断だったと思う。朝礼ギリギリに教室へ戻り、なにもなかったような顔をして授業を受けたが、結局その日酢谷が夏生に話し掛けてくることはなかった。


 だから仕返しのつもりだった。いつの間にかフォロワーが四桁後半に差し掛かっているTwitterのアカウントを開き、供養のつもりで動画を投稿した。短編映画とは言え二分程度に収められはしなかったから、URLを貼ってYouTubeにも投稿した。

 なにか反応が欲しかったわけじゃあない。むしろこれだけ頑張ってこだわり抜いたものを、全人類にスルーされればいいとすら思った。願掛けも結局意味を成しそうになく、誰の目にも映らない場所で屍のように消えてゆく感情。そっちの方が終わりとして相応しいだろう。

 この感情は報われてはいけない。どこか遠くで、夏生はそう理解していた。散々苦しんできたからと言って、答えを求めてはだめだ。答えを、報いを求めたら、戻れなくなる。

 そう自分に言い聞かせて眠りについたのが、先週の金曜日の夜。あのときはまさか、起きたら通知で画面が埋め尽くされているなんて想像すらしていなかった。

 文字通り頭を抱えても状況は悪化の一途を辿るばかりで、それなのに待てど暮らせど酢谷からの連絡だけは来なかった。名前も覚えていないいつぞやのクラスメイトなんかからも連絡はきたのに、酢谷からだけは来なかった。

 所謂『バズった』のは、自分の撮影技術が高かったからじゃあない。コメント欄を見ればそんな現実は一目瞭然だったし、それでもただひとり酢谷からの反応だけが欲しくて投稿を消せなかった。いや、というのは建前で、ほんの少し、小さじ一杯分くらいは承認欲求だってあった。あってしまった。

 実際にフォロワーは三倍以上に跳ね上がった。まぁ誹謗中傷めいたコメントは、十倍以上増えたけれど。


「撮った人、絶対この男の子のこと好きだよね。」バズった原因は、フォロワーの数が夏生よりゼロ二個分ほど多いインフルエンサーの発言だった。そこから芋づる式に多くの人の目に入り、夏生の感情は芸術以外の場所で散々弄ばれた。

 フォロワー六桁のインフルエンサーとやらにも、悪意などはなかったのだろうが、そんなことは夏生にとってどうでもいいことで。ただ投稿を観る人の数が増えるたび、通知に携帯が震えるたび、酢谷からの連絡かもしれないと意味もなく胸を高鳴らせた。

 でも、酢谷からの連絡を夏生の携帯が知らせることは、今の今まで無い。


 こんなんじゃあだめだ。夏生は自分を叱咤する。自分が直接酢谷に観せて反応を確認したいと思ったように、酢谷も感想は直接伝えたいと思っているのかもしれない。そうだ、きっとそうだ。だから未だに連絡が来ないんだ、そうに決まっている。

 項垂れ、顔を上げ。またパソコンの画面に閉じ込められた笑顔の酢谷を見る。あぁ、映画を撮っていた頃に戻りたい。感情の行先も、辿り着く未来も、あのときはどうだってよかった。取り繕わなくとも酢谷の目はこちらを見ていて、夏生の姿を映していた。素直な表情を向けてくれて、照れながらも要求に応えてくれた。

 あの頃に、戻りたい。そう思う頭の片隅で、数日前に見たコメントがちらつく。「この男子、絶対主(投稿者)の気持ちに気付いてるだろ」。揶揄というにはあまりにも下世話なコメントだった。それに対して批判や否定よりも、「それな」といった同意や、「いやむしろ付き合ってる」といった冷やかしが多かったことも、夏生の心臓に爪を立てる要因となった。

 そんなコメント、酢谷が目にしたら、酢谷のことを知るやつらが目にしたらどうするんだ。そう怒りながらも結局削除ボタンは押せず、いつの間にか沈みきっていた太陽と共に、今日もまたベッドに潜り込む。


 稲垣は、観たのだろうか。投稿してから一週間が経とうとした今、ようやく酢谷以外の人間の反応が気になった。それまで稲垣の姿など、思い出す兆しすらなかったのに、どういう風の吹き回しだろうか。自分でもわからない。

 稲垣なら、単純に映画の技術を採点してくれるだろう。恋心など抜きにして、酢谷のことも夏生のことも冷やかすことなく、映画としての感想を伝えてくれるに違いない。

 一旦そう思うと、どうしようもなく稲垣と話がしたいと思った。初めて謝らなければいけないとも思ったし、改めて酢谷となにがあったのか訊きたいとも思った。寝る直前の淡い形をした決意だからこその素直さなのかもしれないが、それでも明日こそは学校に行こうという自分への後押しにはなった。

 稲垣とも連絡先交換しておけばよかったな。なんて、自分の中に浮かんだ似合わない感情にほくそ笑みながら、久しぶりに安らかな眠りについた。もう治る兆しもない腕の傷は、珍しく痛まなかった。

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