オレンジの片割れへ 5

「遅くなった。」稲垣との会話で謎の提携を結んでから、一年ほどほど経った薄ら寒い初春の日。夏生はいつものように酢谷とチェーン店のドーナツ屋で待ち合わせをしていた。

 未だ酢谷は片想いを続けているようで、さすがに一年も経てば朝の愛の告白の頻度は週に一度程度まで治まったが、夏生が稲垣と雑談に花を咲かせていると、酢谷の座席の方から痒い視線を感じることが増えた。……ような気がする。

 確信できないのは、その視線に釣られて急いで見ても、酢谷はこちらを見てはいないし、後からそれとなく確認しても、はぐらかされるばかりだったから。まぁどうせ、酢谷が嫉妬しているのは十割十部こちらなのだろうけれど、その痛痒感すら覚える酢谷の視線に、正直胸の奥は高鳴っていた。

 なにも恋慕でなくともいい。怒りだろうと、悲しみだろうと、嫉妬だろうと。夏生にとって酢谷から向けられる感情ならば、なんだって贈り物になり得る。それほどまでに拗らせてしまったと自覚する度、喉につかえた感情が溜め息として排出されはするが、こいつの顔さえ見られればそれすらどうだってよかった。

 それと、変わったことはもうひとつ。酢谷の口から稲垣の話題が出てくることが、激減した。夏生からすればむしろそれは良い変化だったし、未だ失恋はしていないようだから、どうだってよかったけれど。


 そうやって、毎日当然のように施される日常に、あぐらをかいていたのかもしれない。

「なぁ、かお。」珍しく、酢谷の表情はうすら暗かった。とは言っても落ち込んでいるとか、悲しんでいる風ではない。眉間にやわらかく線が入り、奥二重が隠れるくらいには顎を引いた状態でこちらを見、口唇の中央だけが緩やかに人中へと寄っている。単純に言えば、拗ねているような表情だった。

「なに。」我ながら、つっけんどんな声が出る。まだやや熱いコーヒーを口に運びながら、夏生の視線は酢谷の口の横についた砂糖を掴んで離さなかった。なんでホットにしたのか、なんて思いながら啜っていたら、突如時間が止まる。「おれさ、もうこういうのやめる。」

 全部ひらがなのような発音で、酢谷は宣告する。呼応するように、コーヒーカップを運ぶ手は止まり、視線も口もとではなく暗い目へと走った。あ。その瞬間、なにかがつっかえたままの喉に、空気が逆流する。飴だ。愛おしい酢谷の中で唯一、自信を持って嫌いだと言える、あの目だ。

 こういうのって、なに。そう訊ねるほど、会話を円滑に繋げるために割く気力もなかった。だが酢谷は、それを無言の肯定とでも受け取ったのか、いとも流暢に会話を続けた。

「今までのお金は返す。放課後時間があって、予定が合えばこうやって遊ぶけど、でもかおからお金は貰わない。」喉になにか、つっかえる感覚が迫り上がる。そのつっかえの正体すらわからないまま、そのつっかえを取り除くために、意識の外でコーヒーを喉に流し込んだ。当然、まだ熱かったが。

「お、おれね、バイト決まったの。さっき面接してきて、来週から来て、ってなったんだ。だからちゃんと、小遣いとかじゃなくて、おれの稼いだお金で、かおに借りてたお金返せるし、かおと遊べる。」だからと言って、咳き込んだり冷水を飲んだりするなんて無様な真似、酢谷の前では絶対にしたくなくて。だから夏生は、わざと難しい表情を浮かべ、自分の中に生まれた不満と舌の痺れを一緒くたにした。


「そ、」酢谷の声が上擦る。「そんな顔、すんなよ。」酢谷が言うそんな顔が、どんな顔なのかは知らなかったが、酢谷の表情はわかりやすく強ばっていた。まるで、夏に倒れた蝉を見つけたかのような表情だった。

 気まずいのか、酢谷は幼なじみの姿をした蝉から顔を逸らす。「だ、だっていやじゃん。友だちなのに、毎日のようにかおのお金でご飯食べたり、カラオケ行ったり。おれだって小遣い貰ってんのに、かおは絶対受け取ってくれないし。」別に叱っているわけでもないのに、酢谷は訊いてもいない言い訳に、口を走らせた。蝉が説教なんざ、するはずもないのに。

「バイトはする、けどさ。お互いの予定が合えば、ご飯も食べようぜ? だからかおは、おれがいなくても、ちゃんとひとりで……」なぜか視界に入った、酢谷の前にあるオレンジジュースが、ひどく腹立たしかった。「バイトって? 」だから遮ったのだ。別に、断じて、酢谷の言動に苛立ったからじゃあない。オレンジジュースに、苛立ったのだ。

「……え? 」酢谷の肩が跳ねる。「バイトって、なんで。」バイトの内容でなく、口から出たのは理由の方だった。「別に校則的には禁止じゃあないけど、お前成績もギリギリだろ。できんのかよ。」苛立ちを誤魔化すように、またコーヒーカップに口をつける。いつの間にか、中の黒い液体は随分と冷めていた。

「……ちゃんと、先生から許可ももらったし。」軽いボールを叩きつけるような酢谷の声は、床と同化するようにして沈む。「は? 」呼応して、自分の口角が嘲るように上がる。「なにそれ、聴いてないんだけど。」

 逸らされていた顔が、こちらを見る。その暗い目には、チェーン店特有の安っぽい蛍光灯が差し込んでいるはずなのに、虚空を俯瞰しているかのような錯覚を覚えさせた。

 数秒遅れて、困ったようにひくつきながら上がる口角が、なぜか嘲笑のように見えて、喉の「……よそ見してるからじゃん。」奥で聞いたことのない音がしたが、酢谷は慌ててその音をかき消し、言葉にして言い直した。「別に、かおに言う必要ないだろ。」ぐにゃり。時空が歪む音というものを、夏生は生まれて初めて聞いた。

「そりゃ、おれ鈍臭いし、要領悪いし、いろんなことすぐ忘れちゃうけどさ。だからこそ、みんなより早く社会に慣れとかなきゃ、だろ? 」酢谷が自身に向ける、悪意のこもった言葉は、今まで散々彼の身体に刺されてきた陰口や否定だった。

「それにさ、そのバイト先って、ここなんだよ。ここ、この、ドーナツ屋! 店長も、おれのこと覚えてたし、面接でおれがちょっと吃っちゃっても、接客していれば会話も慣れるよって言ってくれたし。なんだっけ、社割みたいなのもあるって! バイト終わるまで、さ? かおがここで勉強とかして、おれのバイト終わったらここでドーナツ食って、一緒に帰ったっていいじゃん? な? 今までとほとんど変わらないだろ? だから、」そんな怖い顔、すんなよ。


 怖い顔? 酢谷の声が、意味として夏生の耳に届くまで、随分と長い時間を要した気がする。いや、別に集中していないわけじゃあないんだって。さっきから耳の奥で、暗くてもやもやしたものが詰まって、聴き取りにくいだけなんだって。別に、酢谷は悪くないよ。なんて、思っても口にはできなかったが。

 悪いわけがない。常連客になるまで通い詰めた店をアルバイト先に選ぶのも、割と賢いやり方だ。いくら登下校を共にしている幼なじみとは言え、アルバイトを始めるのに許可だっていらない。自分の苦手分野を理解しているからこそ、それを改善しようと行動を起こせるのも、勇気ある行為だ。なにも、なにひとつ悪くない。


 この柔らかい生クリームのような空気を纏う、愛という感情を超えた存在の幼なじみは、同時にブラックコーヒーより苦く残酷な言葉を、純粋無垢に吐き出してしまうだけで、なにも悪くないのだ。たとえその甘い匂いに誘われた愚かな虫が、その甘さも苦さも、暗く漂う未来さえも、全てを甘受し愛し尽くそうと覚悟を決めていたとしても。そんなことを露ほども知らないこいつは、本能的に虫から逃れるため、自らの全てを否定し、姿を変えようと藻掻いているだけなのだ。

 あぁ、口惜しい。今度は夏生が、酢谷から目を逸らす番だった。

 腸が煮えくり返るほどの口惜しさに、口の中でコーヒー以外の苦味が広がる。今すぐにでも、目の前にいるこの男の胸ぐらを掴み、衝動的に、貪るような口づけができたなら。なにもしなくていい、傍にいさせてくれるなら、お前の望みは全部叶えてやると、そう言えたのならば。

 それをしてしまえば、この感情の大きさを知ったこいつはきっと、裏切られたと絶望し、そして翌日にはそれらが全て存在すらしていなかったかのような顔で、慈愛と諦観を織り交ぜて下手くそに微笑むのだろう。そんな姿、夏生は絶対見たくない。柔らかくとも、拒絶だけは絶対にされたくない。


 叶わない想いに、すっかり慣れた溜め息が喉から這い出でる。恋愛は溜め息でできた煙という言葉が本当ならば、自分はきっと医者が匙を投げるほどのヘビースモーカーだろう。

「やめとけよ。」意気地なしの嫌煙家は、嘆くように煙に言葉を乗せた。「別に、金なんか返さなくていいし。お前が気に病む必要ねぇよ。接客業なんて絶対大変だし、向いてねぇよ。やめとけ。」

 吐き捨てた言葉は煙よりも汚れていて、その言葉が喉から出たのだと思うと、なぜだか無性に咳き込みたくなった。「ていうか、貸してるつもりないし。奢りだよ、奢り。それにお前だって、いくら借りたとか覚えてねぇだろ。」

「覚えてる。」酢谷が珍しく、間髪入れずに答えたせいで、喉の咳が行き場を失った。息を飲むように空気を吸い込んでみると、喉の奥の器官までがからからに乾いていることに気付いた。意志のない手をコーヒーカップに伸ばすが、辿り着くより前に酢谷の言葉が続いた。続いてしまった。

「かおが飯に誘い出したの、高校入ってからだし。小遣い貰ってるからっておれが財布出しても、横から払ってくるから値段は知ってる。書き忘れたのもあるかもしれないけど、ちゃんと携帯にメモってるから。」言いながら、取り出したスマホの画面を忙しなくタップすると、酢谷はその画面をこちらに見せた。眩しいほどの白い画面に、日付と値段、店名が羅列している。


「……お前、そんな几帳面な性格じゃあねぇだろ。」「だってかお、こうでもしないとなあなあにしちゃうじゃん。」呆れ声で瞼を重くすると、酢谷は携帯の画面を自身に向けなおし、唇を尖らせた。

「……そりゃ、おれだってさ、接客向いてないとは思うよ? 思うけど、だからって向いてないことから逃げ続けていられるような、才能? とか、センス? とか、そういうもの、おれにはないじゃん。」何を操作して、何を見ているのかは知らないが、酢谷は尚も携帯を弄りながら、独り言ちるように呟いた。

「性格変えて、稲垣に振り向いてもらうためにも、色々やってるけど……全然うまくいかないし、……それどころか、距離取られてる、感じするし……。」あぁ、やっぱりこいつは、人の感情の機微には敏い。鈍い眩さに夏生が目を細めるも、酢谷はただ訥々と話し続けるだけだった。

「だからやっぱり、根本的に変わんなきゃいけないんだよ。もっともっと、本当の意味で明るくなれたら、稲垣だって振り向いてくれるかもしれないし、さ? それでお金もらえて、かおともっと遊べるってなったら、なんだっけ、一朝一夕? じゃん! 」そんな晴れやかな笑顔でついでのように言われて、俺が本当に喜んで同意すると思っているのだろうか。

 それを言うなら一石二鳥な。負け惜しみのようなツッコミは、声になったかわからない。ただ存在すら忘れていた卓上のドーナツを一瞥し、口内の薄皮をぷちりと噛んだ。


「……なんとか言えよ。」晴れやかな笑顔に影が差し、眉がふにゃりと下がる。不安げに重くなったその瞼は、暗い瞳からより一層光を奪い、いやに俺の心に鳥肌を立たせた。「おまえさ、不機嫌になったらそうやって黙るの、よくないよ。」まるで兄がそうするかのように、酢谷の静かな説教が空気をなぞる。

「そ、そうやって、自分の感情を素直に出せるのは、さ。いいところだと思うけど、こっちは会話したいんだよ。不機嫌です、ってことだけ表されて、なに思ってるか教えてくれなかったら、どうしようもないじゃんか。」酢谷の言葉に連動するように、その指が忙しなくコップの面を掻く。その度に張り付いた結露が指のはらを汚すようだったが、珍しく、酢谷の意識はその不快感には向いていないらしかった。

「……言いたかないけどさ、そういうところ治したら、かおは絶対もっと友だちできるよ。いいやつだし、優しいし、……おれのことも、見捨てないし。」酢谷の指が、濡れていく。夏生の目はただそれだけを見つめ、それ以外の意識はどこか遠くへ放り投げられているようだった。

「もちろん感謝してるよ。おれがこう……なに言ったらいいかわかんなくなって、じたばたするみたいに喋ってても、かおはただ静かに聴いてくれる。急かしたり、話をぶった切ったりしない。でも、おれだって、さ? かおがなにを思ってるのか、ちゃんと聴きたいよ。」だって友だち、じゃん、おれたち。


 なぜか頬を淡く染めながら、酢谷は忙しなく指でコップのガラスを擦り続けた。なぜその単語で照れられるのか、なぜその単語を口にできるのか、理解できないと瞳孔を縮ませた後、夏生はすぐに理解してしまった。

 あぁ、こいつは本当に、俺を信用しているのだ。友だちだから話せば理解してくれるし、友だちだから恋愛感情を優先してもゆるしてくれる。理解した途端に視線は太陽から逸れ、ただ注ぐようにコーヒーの面を眺めることしかできなくなった。


 良かったじゃあないか。自分に言い聞かせる。信用されて、周りが信頼できなくなって、人間の感情に刺されて傷付いて、孤立して。そうしていつの日か、諦めたように信用を選んでくれれば、俺の隣を選んでくれれば、それで十分だと、そう願っているんだろう?

 だのにどうして。どうしてこんなにも、友だちという無垢な単語に心が沈むのか。自分はただ、砂浜に落ちる小さな小石にすら気を取られて、言葉を紡げなくなる酢谷のために、全部の小石を払って見守ってきただけなのに。そうやって、小さな信頼を少しずつ重ねてきただけなのに。

 テスト勉強のためにひとつひとつの問題を解くように、大切に大切に育ててきた。横から他者にかっさらわれようと、その他者が酢谷に興味がないのならどうだってよかった。そう言い聞かせてきた。

 それなのに、これは違うだろ。お前が自ら小石だらけの舗装されていない道に突っ込んで行っても、いつかはこちらに戻ってくると信じ、それだけに縋って自分を律してきたのに。お前は残酷に笑うのか。『おれは小石だらけでも生きていけるようになるよ』『そこにお前は必要ないよ』と。


 変わらなくていい。そのままでいい。そのままのお前を肯定すると、全身で現してきたじゃあないか。お前もそれを、心地よく感じてきただろうに。

 それなのにどうして、どうして俺じゃなくてあいつを選ぶ? 俺のために変わらない道を捨て、あいつのために変わる選択をする?

 ああそうだ、酢谷が明るくなってから、ずっといらついていたのは『それ』もある。モブと同じものを向けられる屈辱もあったが、なんで俺が肯定してやってるのにそこから逃れようとするんだよ。もたらされる感情が、足りないって言うのか? 俺はこんなに、こんなにも溺れているのに。


 なんで、どうして。そんな怒りが沸々と音を立てているのに、やはり言葉にはならず。視界の外で酢谷が視線を巡らせ、なにやら逡巡している空気を察していたが、夏生の口はひどく重く、とても動きそうになかった。

 そんな様に、酢谷は呆れることはない。ただもごもごと、口の中にある飴玉を居心地悪そうに動かすように、次の言葉を探しているらしかった。ただそれだけの動きを空気の揺らぎで感じ取っているだけなのに、苛立ちや懊悩を全て相殺してしまうほど、愛おしさに温もりを覚えている自分は、きっとどこかおかしいのだ。


「かお……。」名前を呼んだはいいものの、次に紡ぐ言葉は見つからなかったらしい。今にも泣き出しそうな声で平仮名を洩らすと、酢谷の指は動きを止め、手はなぜかこちらに伸ばされた。

 ふと、思わず、顔が上がる。そのせいか、酢谷の意外にも節くれだった指はびくりと動きを止め、大きな黒目はばちんっと弾かれたような音とともに夏生の顔を映し込んだ。

「……なに。」さも呼ばれた名前に応えただけ、という風を装って、硬くなった不機嫌な声をぶつける。それは酢谷の止まった手を呼び戻したいがためのひねくれだったが、当然伝わらず、酢谷は硬い表情のまま目を伏せ、手を引っ込めた。


「だって、こんなのおかしいだろ。」自分の方へと戻した手でコップを持ち、もう片方の手でストローをつまみながら、酢谷はオレンジジュースを飲もうとする。だが喉の渇きよりも、言葉が先んじたのか、口元まで運んだストローに口をつけることなく、酢谷はいじいじと歯がゆくストローで水面を回した。

「今のかお、お金払っておれとご飯食べたり、遊んだりしてるわけじゃん。それってなんか、友だちってより、さ。そういう、仕事みたいな。お金で繋がってる、みたいで。おれ、かおとは対等がいいんだよ。」対等、友だち、幼なじみ。そんな無垢な単語がどれだけ夏生の首を絞めているのか、こいつはきっと、全くもって考えちゃいないのだろう。


 結局言葉に詰まったらしい酢谷は飲まずにコップを置き、尚も手を伸ばしてきた。今度はその手から逃れるように、こちらがカップに指をかける。余裕を示すかのようにわざとコーヒーを啜ったが、そんな虚勢も、この鈍感な想い人には伝わりゃしないだろう。

 あぁ、でも。伝わらない方がましなのか。散らかった感情の隅の隅に、ずっと変わらない形をした希望を見つける。

 お前に安心して、そばにいてほしい。安心から、いつか諦めたように手を取ってほしい。諦めではなく、望んで愛してほしい。それらは全部本音で、全部共存する感情だった。

 幼なじみとしても、愛する人としても、恋する人としても、全ての立ち位置から、俺はただ貪欲に、お前の幸せを願っている。ただ伸ばされた手から逃れただけで、目に薄く膜を張るようなお前に想いを伝えないのも、決して臆病だからだけじゃあない。

 ただ、ただ、この想いに気付かないでほしい。残滓のように燻った願いを胸中で言葉にした途端、口角に自嘲が生まれた。

 気付いたら、きっとお前は答え合わせをしようとする。一体どこから俺の行為に恋愛感情が付随していて、いつから下心ありきで付き合っていたのか。そして全てに裏切られた気分になり、俺から距離を取る。そうならないために、想いを伝えるのはお前の外堀という外堀を全て埋め切ってから、然るべきときでないとだめなのだ。絶対に、どう足掻いても逃げられないように舞台を整えてからでないと、お前はきっと俺からそっと離れていくから。


 嘲笑を携えたまま、夏生はやおら視線を前に上げた。酢谷の瞼はぱちぱちと拍手でもするようにまばたきを繰り返し、目に張った薄い水の膜を誤魔化しているようだった。

 その美しい水面を見て、ふと思う。嫌な仮定だ、考えたくもない。もし、こいつが既に、俺の感情の色に気付いているとしたら、だなんて。

「……なに。」拗ねた声色を隠さず、口を尖らせ、目を細めて酢谷が言う。たったそれだけで、自分の表情が当惑からの怒りではなく、穏やかで柔和な思慕へと変わっているのだと、わかってしまった。

 幼い頃から、他の何者よりも長く、想いを込めて見つめてきたからだろうか。自分の表情筋や身体の動きよりも、こいつの表情の機微を眺めている方が、自分の感情がよくわかるのである。


 そして同時に、この表情に安堵した。こんなにも素直な表情を浮かべる酢谷海里という男が、既に俺の感情に気付いているはずがない、と確信したのだ。

 そんなこと、お前が俺のもとから去って行くよりも耐えられない。だってそれはつまり、俺が何年もかけて温めて、否定と諦めを繰り返して育ててきてしまったこの想いを、お前は嘲笑っていたことになる。知っていたなら早々に殺してほしかったし、知っていたならこんな汚い花を咲かせる前に枯らしてほしかった。全てを知らなかったからこそ、お前に罪は無いのだ。無垢で敬虔で純真な地獄だと呼べるのだ。

 お前の願いを全て叶える。お前の想いを全て肯定する。そんなことができるのはきっと俺だけだ。だからまた。夏生下手くそに微笑んで頷いた。「バイト、頑張れよ。」

 てっきり晴れやかに笑うであろうと思っていた酢谷の表情は、唇の薄皮を噛むような、歪な微笑であった。

  

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