オレンジの片割れへ 3

 稲垣莉央は、憎たらしいほどに完璧な俳優だった。

 あの後、白けた空気を完全に掌握して元に戻すと、手馴れた様子で次の席の生徒へと自己紹介を繋げた。稲垣莉央という人間がどんな性格で、どういった経験値や価値観を持ち合わせているのかなんて知ったことではないが、あの場を治める「高校生・稲垣莉央」という役において、すべてが完璧な演技であった。

 あの日、酢谷には後から散々ヒヤヒヤしただの、場の空気を気にしないのも大概にしろだの言われたが、夏生の意識は散乱としていただけで、完全に耳から耳へとすり抜けていた。他でもない、酢谷の言葉がそんな空気のように感じられるのは、生まれて初めてのことだった。

 それほどまでに、酢谷の初恋と、その相手がよりにもよって恋愛映画が好きだという事実は、夏生にとって到底受け入れられないものであったのだろう。

 ただぼんやりとなすすべもなく、映画のワンシーンを眺めるかのように、想い人の初恋を眺め、そんな重苦しい現実から逃れるために、目先の主義に合わない事象への苛つきに飛びついた。我ながら、なんと安直で幼稚なのだろうか。ため息すら出ない自身の稚拙さに、夏生はなおも手の甲を引っ掻き続けた。


「ねえ、おすすめの映画教えてよ。」入学初日の自己紹介やらなんやらといったレクリエーションを終えた放課後、稲垣はあっけらかんとした口調で声をかけてきた。

 クラスメイトの何人かはまばらに帰宅し始め、酢谷もちらちらとこちらの様子を窺いながら帰宅準備を進めていた。

 後ろから投げかけられた言葉に、夏生はやや反応が遅れる。錆びついたブリキのように、ギギギと首を後ろに曲げれば、稲垣の柔和な笑顔があった。「恋愛映画をバカにするのは到底ゆるせないけど、あんなご立派にご高説垂れるくらいなら、さぞかしたくさん映画を観てきたんでしょ? 」柔和なのは表情と声色だけで、発する言葉には棘しかなかったが。

「私、映画俳優になりたいんだよね。だから少しでもたくさんの映画を観て、勉強したくて。」こちらは会話なんぞ始める気もなかったのだが、稲垣は爛々とした輝きを隠せない目を向けながら、一方的に会話を繋げてきた。

「それに、ほら。」まっすぐだった稲垣の視線が、ゆら、と他所へと逸れる。「映画好きな人って、会ったことないし。好きなジャンルは違っても、語りたいじゃん? 」やや照れくさそうにはにかむ姿は、たしかに愛らしさを帯びているように感じられた。

 芸能界がいかほどのものかなんて知ったことではないが、こいつを撮りたいと思う監督はいてもおかしくないだろうと夏生ですら思ってしまうほど、稲垣莉央は魅力的に映る存在だった。

 だが、伊藤夏生といういち人物が抱く感情として、稲垣への好意や、映画として撮りたいと思うような個人的興味は、存在しなかった。「俺は別に語りたくない。」つっけんどんに言い放ち、その日は稲垣や酢谷の制止も聞かず、教室を後にした。


 その翌日からだ。夏生にとって眉をひそめたくなる日常が、始まってしまった。

 高校にもなれば部活動は自由、入っても入らなくてもいい、気楽なものだったため、夏生も酢谷も入部はしなかった。指し示したわけではないが、お互いが当然のようにその選択をした。

 そして同時に、また一緒に登下校するようになった。だが酢谷が口にする内容は今までと違い、ほとんどが稲垣莉央についてであった。元々お喋りな性質ではない夏生が自分から会話を提供することはほとんどなく、そのせいで夏生は毎朝酢谷の恋愛感情の捌け口となってしまっていたのである。

 テンションが上がりきっていたのか、当初、酢谷は稲垣のことを莉央と呼んでいた。ほとんど話したこともないのに、それは嫌われるぞ、と助言すれば、『下の名前呼びって嫌われるの!? 』と目を見開いて驚かれたっけ。

 そこじゃあなくて、『ほとんど話したこともないのに』という理由づけを強調したつもりだったのだが、あまりにも驚いている酢谷をからかってやりたい気分になり、拗ねながらも肯定した。ようやく酢谷の視線がこちらに向いた、と、柔らかい優越感すら覚えていたのだ。

 それを意識してか、酢谷は稲垣を苗字で呼ぶよう徹底していた。夏生のことは相も変わらず、死刑宣告でもするかのように毎日毎日『かお』と呼び続けながら。


 酢谷が稲垣のことを苗字で呼ぼうとも、その残酷な初恋という色が薄れることはない。

 毎朝、登校して稲垣の姿を見つけると、酢谷は教室中のすべての人の耳に入るほどの大声で、「稲垣おはよう! 今日も好き! 」と、純粋すぎる愛を伝える。夏生にとって、喉から手が出るほど欲しいその言葉を、稲垣はやや眉をひそめ、それでも穏やかな笑顔で「ありがとう」とだけ答えるのだ。

 それが、毎朝。周囲がそれに対してひやかすと、酢谷は毎回耳まで真っ赤に染め上げ、すごすごと自分の席へと着席する。恒例のような告白は恥ずかしくないのに、ひやかされるのは身体に表出するほど恥ずかしいというその線引きは、いくら幼なじみでも到底理解できなかった。


 そうして酢谷が自分の席へ戻っていくと、今度は稲垣が夏生に声をかけてくる。「ねぇ、昨日は何の映画観た? 」入学してから既に一ヶ月が経過しようとしていたが、もはや恒例と化したこの流れに夏生は、正直辟易していた。

 だが、辟易すると同時に、身体はこの慣れたくもない日常に慣れつつあった。酢谷が初恋を覚え、よりにもよって恋愛映画を好むような女から映画の話を振られるようになってから、夏生の毎日は沈み、澱んでいたが、それでも波はある。

 登校中の酢谷が、いつもより振り返る回数が多かった。ふとした瞬間の事故であったが、酢谷と手が触れ合った。そんな風に、ほんの少しだけ夏生の心が浮き上がった日は、気まぐれのように稲垣の問いかけに返事をしていた。これを人は、慣れと呼ぶのだろう。


 あいにく、今日は全くそんな気分ではなかったが。『おれも伊藤だったらよかったのに』? どんな気持ちで、どういう意図でそんな残酷な言葉を吐いたのだろう。お前と俺が同じ苗字を名乗るということは、どういう意味を孕んでいるのか知ってのことなのか?

 いや、どうせあの考えなしのことだ。そんな深くは考えていないのだろう。伊藤という苗字であれば、稲垣と席が近い。そうなればもっと話す機会も増える。なんていう、短絡的かつ安直な思考から、ぽろりと零れただけの淡い期待なのだろう。そうに決まっている。わかっている。

 恨めしい。考えなしにそうやって、夏生の虚像とも呼べる夢を簡単に踏みつけられるその神経が、恨めしくて仕方がない。「伊藤? 」背後から投げつけられる邪魔者の声も、意識から切り離せないほどに、情けなくも動揺してしまっている。

『兄ちゃん』の立ち位置に落ち着くと、そう心に決めたのだ。心に決めたのだから、『弟』の何気ない言葉に振り回されている場合じゃあない。こんな感情、『兄ちゃん』にはふさわしくないのだから。



「はぁ……惚れてるねぇ……。」意識の端っこにしがみつき続けている、目障りな声。それがどんな言葉を紡ごうとも、無視を決め込めると思っていたのに、想像だにしなかった言葉に、思わず上半身が勢いよく起き上がった。

「えっ、なに!? 」その過度な反応に驚いたのか、元々丸い稲垣の目が、大きく見開かれる。数秒、そうして夏生の反応を見定めていたかと思えば、その目は風船が萎むみたいに元のサイズへと戻っていった。

「……あぁ、もしかして。」稲垣は静かな声で言う。「バレていないとでも、思ってたの? 」どうしても、反応が遅れた。喉の奥でひゅ、と音が鳴り、それがすべての動揺を表していることは一目瞭然だった。瞳孔が開き、一瞬で身体中の水分を奪われたことに数秒遅れて気付くと、急いで唇を舐めて動揺を隠そうと躍起になった。

 が、夏生の口から言葉は出てこなかった。途端に酸素の薄い山頂にでも追いやられた気分だ。思考回路が緊急停止を起こし、身体だけが必死に異常を伝えて続けている。ただ本能だけが、今息を吸ってしまえば消化器官ではない変な場所に入ってしまうだろうという確信を持っており、それもあってか指の一本すら動かせなくなってしまった。

「え、いや、ごめんって。そんな動揺しないでよ。別に言い触らすとか、本人に言うつもりもないから! 」まぁこれで酢谷本人に気付かれていないのは、ちょっと謎だけど。そう呟きながら、稲垣は両の手を夏生の目の前でぶんぶんと振った。

 ふわりとどこかへ飛びかかっていた意識が、ゆっくりと舞い戻るのがわかる。夏生は二、三度まばたきを繰り返すと、目の焦点を正面の人間の顔へと戻した。稲垣の顔に意地の悪さやからかってやろうといういやらしさは微塵も無く、ただ純粋な申し訳なさと心配だけが漂っていた。

 夏生は既に、どうしようもなく、理解していた。この女に悪意は無い。酢谷が惚れるのも頷けるほど、まっすぐで芯の強い人間なのだ。


 だからと言って、心の城壁を崩す理由には当然なり得ないが。表情を硬直させ、視線を鋭くすると、凄むように言った。「どういうことだよ。」努めて低い声を出したが、稲垣はそんな弱い威嚇に怯むような人間ではなかった。

「……べつに。」ひらがなの声色で、目を逸らしながら稲垣は拗ねてみせた。「ちょっと羨ましかった、だけ。」完璧な角度で頬杖をついてそう答える稲垣に、俺は初めて彼女の人間らしい部分を見た気がしていた。

 いや、初めてではないか。稲垣莉央という人間が人間らしさを表出したのは、恐らく二度目だったのだろう。恋愛映画を馬鹿にするなと軽く声を荒らげた、入学初日のあれと、このとき。余裕があれば違ったのだろうが、このときは唐突に黄昏たような表情を見せる稲垣に軽く当惑しただけで、稲垣にとっての恋愛映画がどういった立ち位置なのか、その感情を推し量ることもしなかった。


「ねぇ、伊藤。」稲垣の視線の先には、ただひたすらに長閑な日常があるだけだった。「やっぱり、恋愛っていいものなの? 」完璧な角度で細く呟く稲垣の姿は、まさにスクリーンを飾るにふさわしい完成度を誇っていたのだろうが、夏生の視線は斜め先で大きくあくびをする酢谷を捉えて離さないばかりであった。

 そんな状況下で耳に入ってくる稲垣の言葉に、両手をあげて肯定できるはずもなく。皮膚の薄い瞼にどうしようもない重みを覚えながら、ゆるりと目を伏せ、必死に逡巡して答えを探した。


 そうこうしている間に空気を読まないチャイムが耳を劈き、どちらからともなく夏生と稲垣は姿勢をもとに戻した。だからといってその後集中して授業を受けられたわけもなく、思考のすべてを稲垣莉央という人間に支配されている不快感に、夏生はただ季節外れな寒気を覚えていた。

 不快感の根幹が、想い人の惚れた相手に恋心を見破られたからなのか、それともあんな顔で恋愛を排他的に語る人間に惚れた幼なじみに対して憐憫を覚えたからなのか。……恋がいいものか、咄嗟に答えられなかったからなのか。どれだけ考えようとも、答えはわかりそうにもなかった。

 排他的。そうだ、排他的だったのだ。稲垣が長閑な空気に吐き出した恋愛という文字は、紙くずをゴミ箱に投げ捨てるような音だった。少なくとも、恋愛映画に憧れているような夢見る少女の浮ついた感覚なんてものは全く存在しておらず、排他的と言うにふさわしい声の形をしていた。

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