今日も象が部屋にいる 5


 夏生は別に、気持ち悪い、と外野から言われたことに対して凹んだわけではない。元々友だちがいるようなタイプではないし、学業の成績が優秀だったためか、他人と壁をつくっても学校での評価にはほとんど影響が出なかった。

 もちろん保護者面談や通知表には、『もっとクラスメイトと仲良くしましょう』なんてことをアドバイスされる生徒だったけれど、母自身小さな箱庭での人間関係なんかどうだっていいと考えている人間だから、それについて母から注意されることもなかった。そして母から注意もされず、海里が否定するわけでもない現状を、夏生が変えようとするはずもなかったのである。

 なんて、『時計じかけのオレンジ』冒頭の、目に余るほどの暴力を見つめながら、中学二年生の夏生は考える。このシーンも、この一年間で何度も観たな、なんて思いながら。「夏生くんは、休み時間も外に出て遊んでいなくて、本を読んでいるか特定の子としかおしゃべりしていないようですが、お母さんは心配じゃないんですか? 」小学校のいつだったかの担任に、そう言われたこともあるっけ。

 いや、正確には言われたのは母で、夏生は横で座っていただけ。つまりあれは、三者面談の場だったのだろう。特定の子、というのは言わずもがな、海里のことで、それはきっと、いや絶対、母もわかっていた。

 外に出て遊んでいなくて、と暗に『活発でない子ども』だと評価されたときには変わらなかった表情が、特定の子、という単語が出てきたときにはわかりやすく歪んでいた。たしか、あのときが初めてだ。母は海里のことが好きじゃないのかもしれない、と気付いたのは。

「夏生は、」歪んだ顔のまま、母は答えていた。「夏生は、中学受験してこの地区も出るんです。他の生徒と交流を深める理由は、ないと思いますが。」ちょうど、スクリーンの中でも主人公の母親が喋る。けれど、むしろ主人公の方があのときの母の目に似ているな、と思った。


 外で遊ばなかったのは、海里が教室にいたからだ。それはつまり、裏を返せば海里が休み時間なんていう短い時間すら謳歌しようと外に出てはしゃぐような人間であれば、自分もそれに倣ったという意味で。まぁ、もし海里がそんな人間だったならば、これほど恋慕を拗らせていたかはわからないけれど。

「……ちがう、かいり、じゃない。」なんて、そこまで考えてから夏生は深く項垂れた。と言っても映画から目は離したくなかったから、両手で包み込むように顔を押さえ、指の隙間から薄く開けた目をスクリーンに向けていたのだが。


 何度目かの緩い自責。本人を前にすればこんな風に口を滑らせることはないのに、未だに自分の中で彼を思い出すときは下の名前で呼んでしまう。海里、なんて、もう呼んじゃだめだ。自分は一年前、酢谷を馬鹿にされた苛立ちから人を殴ったあの日、初めてこの映画を観たときに、誓いを立てたのだ。口唇に馴染んだ想い人の名前を呼ばない。彼が自身の苗字があまり好きではないことを知りながらも、彼のために苗字で呼ぶ、と。

 ぽっと出で有象無象のモブキャラと同じように、幼なじみを苗字で呼ぶことにも、もう慣れた。むしろ遅すぎたくらいだ。見ないように、気にしていないように振る舞ってきたけれど、小学生の頃だって高学年になると下の名前で呼び合う様は奇異の目で見られていたじゃあないか。

 夏生は自身に言い聞かせる。俺はいい。酢谷への感情が間違いだなんて思わない。でも、他人の目を誰よりも気にしてしまうあいつが、人知れず傷付けば? そうでなくとも、もう既に二度、酢谷は夏生に隠れて中傷を受けているのに?

 三度目の正直という言葉だってある。今度同じようなことがあれば、酢谷は静かに夏生から離れていくかもしれない。そうだ、もとより夏生の不安はここにあった。

 世間から後ろ指を指されることも、両親から理解されないことも、気持ち悪いと笑われることも、夏生にとってはなにひとつ怖くはない。ただ夏生は、酢谷が自分から離れるかもしれないことだけが怖い。ずっとずっと、ただそれだけを恐れている。夏生はもうとっくの昔に、唯一の光を幼なじみだけに預けてしまっていた。



「おはよう、酢谷。」初めてそう呼んだ一年前のあの日、彼の飴玉はちろりと暗く光った。いつもの朝みたく、最初は重いまぶたがその目を半分近く覆っていたのに、酢谷、と呼んだ途端ぱちりとまぶたが跳ね開けられた。ぱちぱち、と火花が舞うくらい鮮烈に短くまばたきをすると、朝なのに騒がしい太陽の光が酢谷の目に光を当てたのだ。

「お、はよ。」戸惑いを隠さずにそう答えるまでに要した時間は、わずか数秒程度。それを受容だと捉えた夏生は、口角を上げて、いつものように跳ねた酢谷の寝癖を手で押さえつけた。「跳ねてる。」

 何度か押さえつけても彼の柔らかい髪の毛は暴れたまま、でもその下にある表情は動揺を存分に映し出しており、たったそれだけで夏生の中にいるはずの覚悟とやらがぐらぐらと揺らぐ音がした気がした。と、同時に、この表情をずっと見ていられたらいいな、なんて場違いなことも、ふんわりと思った。

 しかしそんなことも言っていられなかった。かぱりと開いた酢谷の目は、朝日を浴びて甘く潤んでいたが、だんだんとその潤いが引っ込んでいくのがわかったのだ。吸い込まれそうなほど甘やかな目をしているな、なんて。まだ眠かったのだろう、自分の中に浮かんだ寝言のような褒め言葉に小さく自嘲しながら見つめていると、ひとつのことに気付く。こいつ、もしかしてまばたきしていないんじゃないか?

「酢谷? 」身長差に膝を折り、その目を下から覗き込むようにして声をかければ、「……え、? 」わずかに上擦った声で反応が返ってくる。いつかのようになにも映していなかった黒い飴玉は、声とともに焦点が合い、ばちりと音を立てて視線が交わった。


 あ、まずい。直感がそう呟いた。ふと、本当にふと、意識や理性とはかけ離れた場所で、思ってしまったのだ。キスしたい。

 鼻先が触れるくらいの距離と言うにはまだ少し余裕があるものの、酢谷と夏生の距離は思考が止まるほどに近かった。心配から何の気なしに顔を近づけたものの、視線が交わるとこんなにも理性が飛んでいってしまう距離だったなんて、思いもしなかった。

 このまま、事故を装って顔を前に突き出せば、こいつはどんな反応を返してくれるのだろうか、なんて。覚悟のかの字もない好奇心が夏生の胸をかすめる。

 まばたきをしているか心配になって顔を覗きこんだのに、酢谷の黒い目は未だにまぶたで隠されず。でもたしかに視線を絡ませたまま、夏生の目をまっすぐと見つめていた。

「なに? 」夏生の目を見たまま、酢谷が言う。いつもより少しつっけんどんで、でもまだ酢谷も眠いんだろうなと思わせるような柔らかい声。「なぁ、なんだよ。」照れているのだろうか? 少し焦れったそうに口もとを動かし、ようやくぱち、とまばたきをした。それでも、夏生も酢谷も、目を逸らそうとはしなかった。

 この状況に、ほんの少しでも照れを覚えているのならば。なんて、続きのない仮定が頭に浮かび、同時に視界が変わった。顔ごと逸らしたのは、夏生の方だった。


 返事のひとつもせずに顔ごと逸らしたのは、目の前で夏生を見つめる答えに、どこか喜びの色が滲んでいるんじゃないか、なんて思ってしまったから。なにかの手違いで、こいつがこの状況に恥じらいめいた感情を抱いているんじゃ、なんて。

 そんなこと、絶対にありえない。だってもしそうだったら、『知った上で見て見ぬふりをしている』ということになってしまう。

 こいつが夏生の好意に、気付いているはずがない。こいつがそんな、器用な残酷さはもちあわせているはずがないのだ。「なぁ、なんだよ……。」顔を逸らし、人知れず思考を巡らせようと手で口を覆った夏生の視界に、酢谷がとてとてと歩いて入ってくる。身長の低い酢谷は、普通にしているだけでこちらを覗き込んできて、夏生の顔をまじまじと見上げた。

 大丈夫、夏生は自分に言い聞かせる。こうやって俺の顔色すら伺ってしまうようなかたい表情は、いつも通りの酢谷海里だ。夏生は事実に胸を撫で下ろすと、もう一度酢谷の髪に触れた。

「別に、なんでもねぇよ。」跳ねた髪を押さえつけながら言うと、酢谷はわざとらしく口を真一文字に結び、反抗するような目つきでうなる。

「……なんだよ。」今度は夏生が訊く番だった。わかっている、こいつが夏生に不満を抱えている理由くらい。幼なじみから、突如苗字で呼ばれる居心地の悪さを言葉にできるほど、こいつが器用じゃあないことだって、わかっている。

 それでも、夏生は察してほしかった。夏生が苗字で呼ぶのなら、自分も苗字で呼ぼう。そうすれば周囲からからかわられることも、少しは減るかもしれない。そう思ってくれ、そんな思考に至ってくれ。頼むから、一度くらいは俺にお前の思考の舵を握らせてくれ。中学校に入学して明るくなったお前なら、幼なじみの呼び名を変えることくらい大したことじゃあないだろう?

 そんな真意を視線で伝えるように、酢谷を眺める。それでもやっぱり、眩しくて。酢谷の表情はいつも通り今日も眩しくて、目の奥が窄まる。夏生のくだらない真意なんか、その静かな温もりにすべて吸収されるのではないか、なんて、よくわからない不安すら頭をかすめた。

 しっかりまっすぐ酢谷を見られなかったからだろうか。夏生の真意は伝わらなかったらしい。

 酢谷は目をきゅうっと細め、口唇でアルファベットのWをつくるように微笑むと、たしかな悪意を持って、いじわるく呼んだ。「べつに? 行こ、かお! 」いつもと何ら変わらない、ひらがなの愛称だった。



 ぼんやりといつかの朝のことを思い出しながら、夏生は右手に持っていた体操着に目をやった。スクリーンに映し出されているのは、何度も繰り返し観た映画。英語で綴られる台詞も、もうある程度諳んじられる。だからといって集中しなくていいわけではないが、正直今の夏生は映画に対して気もそぞろだった。

 今日はひどい暑さだった。夏休みはもう終わったというのに、この暑さはさすがに気も削がれる。そんな中で待ち構える、五限目は体育の授業。しかももう九月だからというくだらない理由でプールですらない。冷房のない灼熱の体育館で、バスケなんて正気の沙汰じゃあない。

 なんて、うだつのあがらない思考に頭痛を覚えるくらいには、朝から軽く憂鬱だった。夏生は噛み殺す気もないあくびを教科書に吸い込ませ、少しでも早く時間が経つことだけを願っては、時間をやり過ごしていた。


 例の事件から一年以上経っても、夏生は立派に孤立していた。殴られた殴られたと声高に叫ぶほど奴も馬鹿ではなかったが、むしろそのせいで、暴力事件の理由は明らかにされず、噂の的となった。夏生が同級生を殴った理由には、尾ひれや背びれがびらびらと付け足されることになり、最終的に夏生は『怒らせると問答無用で手が出る成績優秀者』とかいうギャップ盛りだくさんな立ち位置に落ち着いたらしい。

 そして当然、そんなやつに好き好んで話しかけようとする物好きはいない。ただひとり、日に日に明るくなっていく幼なじみを除いて。

「かお! なぁ、かお! 起きてんだろ? 」休み時間、机に突っ伏して寝ようとしていた夏生の耳に飛び込んできたのは、その稀有な幼なじみの声だった。一年前の梅雨、夏生が立てた一世一代の誓いを無下に、未だに夏生を苗字で呼ぼうとしない酢谷は、廊下から身を乗り出して夏生を呼んでいるらしかった。

 らしかった、というのも、夏生は机に突っ伏したままで、そちらには目線すら動かしていなかったから。時々、酢谷に名前を呼ばれるうちの十回に一回程度、夏生はこうして酢谷の声を聞こえないふりをした。苗字で呼ぶまで反応しないぞという反抗心を含めての行動だったが、大体すぐにこちらが折れる。

「かお! あ、ねぇ、伊藤夏生呼んでもらっていい? 」今回も、夏生がクラスで孤立していることを知りながら、クラスメイトの女子に声をかけるあいつの声に、夏生は上体を起こす結果となった。なってしまった。

 あ、起きた、なんて声をぽつりとあげるそいつは、満面の笑みで大きく手を振る。教室という境界線があるだけで、ふたりの距離はたかだか走り幅跳びで跳べば届くくらいのものなのに、酢谷の素振りはまるで体育館の端っこからするかのように大袈裟だった。

 好きな人のそんなさまを見れば、仏頂面もたやすくほどかれるというもの。夏生はふっ、と自分の眦が垂れるのを感じながら、席を立って扉の前まで歩いて行った。

 それに合わせて、すすす、と酢谷に話しかけられていた女子が距離を置くが、そんなことはどうだっていい。「なに、どした。」酷暑の名にふさわしい熱がかすんで見えるくらいのどろっとした感情を胸に、努めて柔らかく問う。

「へへ、お願いがあって。」酢谷の溶けるような笑顔を見るたび、思う。こいつも自分も生まれは初夏で、それも由来してか名前に夏や海なんて漢字がつけられているが、自分と酢谷の夏はあまりにも姿がちがう。

 朝と夜、初夏と晩夏、炭酸とセミの鳴き声、爽やかさと湿り気。見た目も声色もなにもかも、正反対にもほどがある。「なに、また教科書でも忘れた? 」呆れた声で訊きながら、夏生は鼻で笑うふりをしてニヤける頬を隠した。

 それでも。酢谷のちょっとばかし気まずそうな表情に、夏生の中で逆説の接続詞が浮かぶ。朝は朝でも、朝陽が昇ったばかりの静けさ。初夏といっても、まだ雨のにおいがするような梅雨あがり。炭酸とは言えども、静かに喉を隆起させる鋭くて甘みの薄いそれ。ちぐはぐにも見えるそんな酢谷の相反する魅力に、夏生は自身の背筋がぞくぞくと震えるのを感じた。中学生になってからより色濃く出るようになった高揚を、夏生はいつだって拳を握り締めることで身体から逃がそうとしていた。

「教科書、は、大丈夫なんだけど……。」こちらを見ていた視線を落とし、右手で左肘を忙しなく掻く。言いにくそうに唇を食んでいるのを見ると、どうやらその先の言葉は紡げないらしい。

 酢谷が忘れものをしてくるなんて、なにも初めてのことではない。小学生の頃なんかほとんど毎日と言っても過言ではなかった。それが今ではひと月に二三度にまで減ったのだから、夏生からすれば酢谷がこんなにも罪悪感を覚える理由がわからなかった。

「その、一組は四限が体育でさぁ……。」なかなか本題を切り出せずにもごもごと遠回りをする酢谷の姿は、最近は隠れていた本来の姿であった。「なに? 体操着? 」あぁ、まぁでも、体操着を借りに来るのは初めてだったか。酢谷の代わりに夏生がそう続ければ、酢谷は肘を掻く手を止め、ゆっくりと項垂れるように頷いた。

 教科書を借りるときは割かしあっけらかんとした表情で言い出せるのに、体操着になると何倍も言いにくそうになる理由はよくわからなかったが、「わかった。俺らは五限だから、昼休みには返しに来て。」酢谷の緊張をいち早く解すためにも、早口でそう答えた。

 途端、酢谷の表情がぱあっと花やぐ。「まじ!? ありがとうかお!! 」教室中に響くくらいの大声でそう言うと、酢谷は両手で夏生の手を握り、ぶんぶんと振り回した。「先生にはバレねぇようにするし、汗もできるだけかかないから! いやぁまじでありがとう! 」

 されるがままに肩が外れそうになるくらい強く振り回されながら、夏生はあぁ、そういうことかと、合点がいった。教科書と違って、胸に大きく名前が書いてある体操着は、借りてきたことが隠しにくい。ましてや今回は酢谷の方が先に使うことになるから、衛生的な不安もあったのだろう。だから教科書を借りるときとは別人かと思うほど、気まずそうだったのだ。

「体育の成績やべぇから休めないし、他のヤツには借りらんねぇし、まじかおがいなかったらやばかった! ありがとな! 」そう言って勢いづいたまま手を離すと、ぐらりと酢谷の体勢が前傾に揺らぐ。「おあっ……! 」相も変わらず落ち着きがなく、未だ自分の身体の扱いに慣れていない酢谷は、予想外の出来事になすすべもなく夏生の肩口に向かって倒れ込んだ。

「な」思わず、動揺が声に漏れる。と同時に、自分の手が脊髄反射で酢谷の肩を掴んでいたことに気付いた。毛穴という毛穴から、ぶわっと汗が噴き出す。「なにしてんだよ! 」口から出た声は想像よりずっと大きくて、肩を掴んでいた手は軽く酢谷を突き飛ばしていた。

 突き飛ばされたことで、酢谷はまたバランスを崩したようだったが、すんでのところで踏みとどまったらしく、尻もちをついたりどこかに背中をぶつけたりすることはなかった。それをちゃんと視認して安堵する自分に、夏生はまた苛立つ。「あはっ、ごめんかお。このクソ暑いのにひっついちまった! 」

 そう乾いた笑みを浮かべながら手を合わせて謝る幼なじみに、気まずさや遠慮がちといった負の感情は一切無く。夏生はその姿に、今度はしっかりと鼻で笑った。ひどく安心したのだ。

 怒られるかもしれないとどこかで感じながらも、夏生にはものを借りに来ることができる。夏生相手でも借りるものによっては『他人の顔色をうかがいすぎてしまう自分』が顔を出してしまうが、それもすぐに姿を消す。その線引きや理由はやっぱりよくわからなかったが、そんなことは夏生にとってどうでもよかった。


 ふと、初めて酢谷と呼んだときの反応を思い出し、夏生は目を細める。自分の想いがバレたかもしれないと感じ、バレてしまえばいいと思ってしまった、あのときの張り詰めたような酢谷の顔。あんな顔は、やはり二度とさせたくない。


 酢谷と離れるなんて、夏生には想像できない。想像もしたくない。それでも、他人の目を気にする酢谷海里という男が、率先して自分の意思で夏生のそばにいることを選んでくれるとは思えない。『同性で恋愛感情を向けてくる幼なじみの傍で生き続けてもいいのか

 』なんて疑問、抱かせる暇すら与えない。離れるかどうかの選択肢すら、与えたくはないのである。

 ただずっとずっと、当たり前のようにそばにいて、酢谷のすべてを受け入れればいい。酢谷海里にとっての酸素になればいい。

 大人になるまでいろんな人の目に疲れた酢谷が、世間の評価とか幸せの定義とか全部全部考えることすら放棄した酢谷が、最後諦めたように夏生を選んでくれれば、それでいい。

 だからそれまでは、考えさせてはいけないのだ。それまでは甘い言葉と肯定だけを与え続け、硬く結ばれた酢谷の心の糸をほぐしきってしまえばいい。

 夏生は今一度自分の意思を確認すると、口角で弧を描いた。「身長全然違うしサイズ合わねぇけど、それはいいのかよ。」「う、うるせぇよ! ナチュラル高身長マウントするんじゃねぇ! 」袖まくればいけるし! と反論しているが、全くもって論理的ではないことには気付いているのだろうか。

 性格を変えて明るくなった酢谷のことだ、他クラスでも体操着を借りられるくらいの関係性の友人くらいいるだろうに、それでも敢えて身長差のある夏生に頼る。この視野の狭い選択肢が、夏生にとっては愛おしくてたまらなかった。

 このまま大人になっても、世界が途方もなく広いことを知っても、俺を選んでよ。そんな歪な想いを抱え、夏生は机のフックに掛けていた体操着の袋を手に取り、酢谷に手渡した。



 その体操着が、今夏生の手に握られている。夏生は尚もぼんやりとスクリーンを眺め、物思いに耽っていた。

 ごめん、悪い、ゆるして! と手を合わせながら酢谷が教室に飛び込んできたのは、昼休みが始まって十分足らずのことだった。

 勢いのまま走ってきたからか、最初酢谷は数歩ほど教室に入って来ており、そのまま夏生に体操着の入った袋を手渡そうとしていた。が、周囲の視線に気付いてか、はたまた我に返ったのか。大声に驚いた夏生と目を合わせた状態で表情と身体を固まらせると、一歩二歩と大きく後退り、数時間前と同じようにドアの前に身体を収めた。

 先ほどまでの大声が嘘のように、酢谷は顔をドアの縦枠に隠すと、ちょいちょいと左手で小さく手招きしてみせた。「……んだよ。」不機嫌だったわけではなく、むしろ酢谷の挙動に口角が上がりそうになっていたのを隠そうとしていただけだが、夏生の思っていたよりも低い声に、酢谷の眉間の皺がより深くなる。

 でも、それは思わず出てしまった表情だということを、夏生は知っている。『突如』低くなった他人の声なんて、酢谷からしたら狼狽する要素でしかないが、それも夏生相手なら話が違う。現に、酢谷は夏生が近寄ってくるのを見ると、信頼の証とでもいうようにふわりと顔を綻ばせ、へへ、と声を出して笑った。

「調子乗った。動きすぎて汗びっしょり……。」ごまかすためか、目を細めてえくぼを際立たせるその笑顔は、いつもより何割増しかで愛らしかった。が、それを表情に出すほど浅い想いでもない。

「はぁ? お前……ッ、俺この後体育だって言ったろ……!? 」声を張り上げるわけではないが、それでも夏生の狼狽えは伝わってくるのだろう。酢谷は目をぎゅっと閉じ、また手を合わせ、平謝りを続けた。「ごめんってばぁ! しょうがねぇじゃん、体育館めっちゃ暑いし、バスケなんておれ走り回ること以外なんにもできねぇんだからさ! 」

 なんて、言い訳にもならない弁解をまくし立てているものの、それならしょうがないな、とはさすがにならない。夏生は酢谷の弁解を流し聞きながら袋を開け、中身の体操着を視認するが、触るより前に紐を閉じた。これはやばい、こんなもの、着れるはずがない。脳がけたたましく警鐘を鳴らすのがわかった。

「……お前、汗はできるだけかかないって言ってたろ。」途端に酢谷本人すら見れなくなり、あさっての方向を向いた夏生の口から出てきたのは、小声の反論だった。酢谷が夏生の異変に気付いていたのかはわからないが、少しの間の後、酢谷は悪びれもなく言った。「へへ、忘れてた! 」

 見なくともわかる。酢谷があのとき、どんな顔でそう言ったのか。謝罪の気持ちはもちろんあるのだろうが、それよりも信頼が上回っているのだろう、きっと借りるときのような気まずさは一分も無い、晴れやかな笑顔だった。


 信頼が大きいのは誇らしいことこの上ないのだけれど。夏生は手の中にある自身の体操着に酢谷の声を思い出しながら、大きく息を吐いた。友人としての信頼が、これほどまでに恋愛感情を苦しめているなんて、あいつはきっと思いもしないのだろう。

 結局、夏生は今日の体育は見学した。



 少々どころではないイラつきを隠せない思春期真っ只中の夏生は、今日初めて酢谷を待たずに帰宅した。用事もないのに放課後になってすぐ帰路についたのは、酢谷と登下校を始めてから約八年間で初めてのことだった。

 怒っていたわけではない、イラついていた。見学に費やした体育の時間はもちろん、六限だってびっくりするほど集中できなかった。暑さのせいだけじゃない、むしろ暑さなんてほとんど感じなかった。

 ちらりと視線をずらせば自分の体操着が入った袋が机の横に掛けられているのがわかり、誰かに冷やかされたわけでもないのに慌てて視線を逸らす。そんなことを、無意識のうちに何度も繰り返した。帰るために鞄に教科書などを詰め込むのは、いつもみたくすぐ終わったのに、机の横の袋に手を伸ばすのは意味もなく躊躇した。持って帰らないという選択肢などハナからないはずなのに、どうしてもこれを手に取る勇気がなく、同時に持って帰ったら洗濯しなければならない現実を直視したくはなかった。

 苛立っていたのは間違いなく、ここまで拗らせてしまった自分自身に対してだった。目を覆うほどの暴力がスクリーン全体に映し出されているというのに、夏生の神経のすべては右手に注がれている。帰ってすぐに洗濯機へ直行してぶち込むべきだった、なんて後悔は、形になる前に視界から消した。

 無理だ。夏生は項垂れた。両足を抱え込み、膝に目もとを擦り付けた。『そんなこと』をすれば、もう二度と酢谷の顔を見られなくなる。見るたびに浅ましい自分を思い出し、友人としての立ち位置までもを放棄してしまうだろう。

 唯一信用している幼なじみが離れていけば、あいつはきっとより一層人間不信になる。そんな酢谷は見たくないし、現に『この人だけにはどんなことを言っても離れていかないだろう』という圧倒的な信頼はこの上なく心地良いのだ、手放したくはない。


 それでも。夏生はちらりと垂れた右手を見た。もうさすがに温度はないだろうに、まだじんわりと温い気がしてならない。くしゃり、と掴む手に力を込めれば、距離が離れている鼻腔まで匂い立つようだった。

 というか。夏生は冷静になろうと一度大きく息を吐く。そうだ、冷静に考えろ、これは自分の体操着なのだ。広げなくとも、その胸部に書かれている苗字が自分のものであることはわかりきっている。サイズだって酢谷とは違うし、あと一年以上着用する必要のある衣服なのだ。そんなものを一時の感情で使ってしまえば、後から心にどうしようもない痛痒感を覚えてしまうことは自明の理に他ならない。

 が、そんななけなしの理性もすぐにたち消える。抱えていた膝を下ろし、丁寧にソファの上で座り直せば、自然と空いた方の左手が下肢の中心へと吸い寄せられていった。

 これから先のことだなんて、夏生の頭には存在しなかった。明日酢谷の顔が見られなくなるかもしれないことも、二度と体育の授業を受けられなくなるかもしれないことも、そんな不安要素はなにもかも姿を消し、ただ一点の滲みのようにあったどうしようもない情欲がじんわりと広がり、侵食されていくさまに身を委ねるしかできなかった。


 頭がガンガンと強く音を立てている気がする。だが痛みではない。むしろ陶然とするような心地良さがあった。夏生の手はすすすとズボンの上を滑り、指が熱を帯びつつある膨らみに触れた。

 同時に、右手が眼前へと迫ろうとしているのがわかる。どこか遠くの映像を見るかのようなこの感覚は映画を観ている感覚に近く、気付いたら自分の視界には物語を映すスクリーンと、自分の体操着があった。

 伊藤、と書かれた体操着が、現実を突きつけてくるが、それすら遠い世界の出来事に思えてならない。左手が包み込むように膨らみを触れる。もうどうにでもなれ、とどこからともなくそう思い、欲に委ねられるがまま体操着を眼前に近付けようとしたとき、嫌な台詞が耳に張り付いた。

「善は選択することで善となるんだよ、アレックス。」擦ろうとする左手と、顔に近付こうとする右手。どちらもが動きを止めた。「人間が選択できなくなったとき、その人間は『人間ではなくなるんだ』。」


 一年間、この一年間何度も観た映画の何度も聴いた台詞が、まったく違う意味で耳に入り込んできた。その異物感たるや。吐き気すらもよおした。

 意識の外で動きだした右手は体操着を床へと叩きつけ、左手は人差し指と親指が針となり、触れていた膨らみを抓った。鋭い痛みが本能を傷付けるが、それよりも脳への鈍痛の方が遥かに上回っていた。

 両手で文字通り頭を抱える。視界が闇に埋め尽くされ、全てがぐわんぐわんと歪んでゆく気がした。今まで信じていたものの根底が覆ったような、天変地異とはこのことを言うのだと証明するかのような、どうしようもない居心地の悪さに視界がひっくり返る。

 無常に物語の続きを紡ぐスクリーンに、目を覆う力が強くなった。痕になってしまうかもしれない、なんて場違いな心配が過ぎり、苦悩に目を抉ったオイディプス王までもが思考の端を掠った。「しょうがなかったんだよ」、どこからか声が聞こえる。スクリーンの中からではなく、頭の中からの声だった。

「しょうがなかったんだよ」。舌っ足らずな声で、だれかが言った。だって、いつから好きだったか覚えていないでしょ? このませた話し口調は、昔の自分に似ているな、なんて。ぼんやりと思う。

 いつから好きだったか、なんで好きだったか覚えていないのに、『選択』なんかできるわけないじゃないか。子どもじみた言い訳が、舌の裏にこびりつく。選択することが人間の善たらしめるのならば、獣のままに情欲へ溺れようとした自分は『間違い』で『悪』だということになってしまう。「しょうがなかったんだよ」。

 もう少しで、映画は夏生が一番好きなシーンに辿り着く。目を開かされ、残酷な映像を見せ続けられる主人公。恍惚すら覚えていたものが苦痛と繋がり、忌避するものになる。ああ、絞り出すような呻き声が、自分の喉から這い出たものだとは到底思えなかった。

 結びついてしまったのだ、自分の中で。俺は本当に酢谷海里という人間が好きなのか? ただずっと隣にいたから、目が離せないほど危ういやつだったから、それを恋愛感情と履き違えていただけじゃあないのか? 本当に俺は、『酢谷海里という人間を選択して好きになった』か?

 その上、あまつさえそんな相手を一時の情欲で汚そうとしたのか? 本当に好きなのか、恋愛感情なのかなんて考えたことすらないのに、本能に走り、人間とは呼べない獣に堕ちようとしたのか?


 恋は溺れるものだと言う。恋は落ちるものだと言う。現に自分は、酢谷海里という無垢な地獄に堕ちたのだと、事ある毎に実感している。でもそれは、自分の感情を正当化する言い訳になってしまうのではないか? それは、下等だなんだと散々馬鹿にしてきた、酢谷への想いを否定する下劣な奴らと同等になり下がるということに、なりかねないのではないか?

 それはだめだ。海里への感情は、いつかの未来、肯定されなければならないんだ。そのためには、『善』でなければならない。獣のように情欲に溺れ、恋に落ちるだけの人間を、あいつが選ぶはずがない。

 だから自分は、『選択して酢谷に恋をしなければならない』。欲ではなく理性で、本能ではなく論理で。そんな恋、聞いたこともないが、あの純真な悪魔に認められるにはそれくらいしなければならないのだろう。


 ネガティヴが重く身体にのしかかる。答えのない合致が脳内を走り回る様子は、まだ知らないはずの酩酊に近かった。それでも、手を離した前に現れた視界は、さっきよりも明るい気がした。

「そんなのこじつけだよ」。またどこからか声が聞こえる。好きとか嫌いとか、それも本能でしょ? 本能に対して正直に生きて、それを矜恃として生きているんだからいいじゃないか! 都合のいい言い訳だ。そんなご立派なものではないことくらい、自分が一番よくわかっている。

「考えすぎだよ」。まただれかが言う。今の今まで考えずに、酢谷海里を選んできたのだから、これからもそれでいいじゃないか。

「それじゃダメなんだよ」。頭の中でがんがんとした痛みを孕みながら、窘めるような口調で、口論が始まった。欲が行動という形で表出してしまった今だからこそ、考えなきゃいけないんだよ。ぼうっと惚けた顔で虚空を見つめ続けていても、視界の奥では無情に物語は進んでいた。


 何度も何度も観た物語を、ぼんやりと眺めているうちに、恐らく体操着の匂いもこの部屋に馴染んでしまったのだろう。エンドロールの暗い画面になって、自分の目がとろんと溶けそうなほど無心状態になっているのがわかった。

 当然時間が経てばエンドロールも終わり、プレイリスト画面に戻る。その頃になってようやっと重い身体を動かす気になり、立ち上がって床に叩きつけた体操着を拾って部屋を出た。

 階下に降り、脱衣所まで行くと洗濯機の蓋を開く。その間ずっと手に持っていた体操着に対しては、もう何の感情も湧いていなかった。むしろ汚らわしい自分の権化のような気すらして、洗濯機へ放り込む手が強く、荒くなった。

 その足で脱衣し、風呂場の扉を開けて乱暴にシャワーのノズルを捻る。頭を冷やそうと冷めた水温で頭髪を濡らしたが、そんなことしなくったってもうとっくに欲は消え去っていた。

 シャワーを終え、最初に手に取ったのはタオルではなく、つい先日買ってもらっばかりのiPod touchで。流れるようにTwitterのアプリを開いた。映画一本分の時間を使って出た結果がこれだと思うと、嘲笑が零れた。

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