夕映えの曠野に死す

寺 円周

第1話

 北に向かう列車の中、七、八歳とみられる女の子の浴衣を着た少年が白いスーツ姿の男に甘えて甘栗を所望している。すると、もう一人の洋装の女が、もうすぐたくさん食べさせてあげるわよ、と少年の頬を透き通るほどの細く白い指でつつく。男は自分たち3人の姿が彼らを取り巻く荒涼とした地形に不似合いであり、冷たく拒絶されていると思っていた。今は昔、あの暗い井戸の中にいた頃の息苦しさがひどく懐かしく、あそここそ自分には似合っていたのかもしれない。常に後悔の無い生き方をしてきたつもりだったが、自分だけなら喜んで自分の境遇と自己満足が織りなす運命を楽しんだものを、この二人を道連れにしてしまったことだけは、と男は後悔の念に苛まれている。


 彼らの長い汽車の旅はいつ終わるのだろうか、車窓に流れる映像は、何処までも果てしない荒くれた緑の草原と茶色い土が続く曠野を映し出している。あの先に、あの男がいるのだ。彼らをこの旅に送り出した男が待っている。とにかくあの男に会わねばならない。


 蒸気機関車「あじあ号」の汽笛が虚しく満州の空に響き渡っていく。


   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 整然と並ぶ椅子の一つに頬杖をついて腰掛け、二つの険しい眼で、展開される光の粒子がつくる陰影を食い入るように見つめていた男が、突然突き放された。スクリーンに映されていた映像がまっ白い光に変わった。フィルムが切れたのだ。


 映写技師が飛んできた。「申し訳ありません。まだまだ我々がつくったフィルムは弱くて。すぐに繋ぎますからしばらくお待ちください」と頭を下げる。


「もう、いい」男は、低い声で応えた。


 ここでつくられているフィルムは輸入フィルムに比べてまだまだ完成の域には至っていなかった。そのフィルム自体の試写に立ち会っていたとはいえ、男は、もともとスクリーンに映し出されていた映像にも関心はなかった。彼が見ていたのは、かつて自分が関わった3つの魂だった。


「大杉栄。貴様に私を恨む資格なんかない。お前が存在すること自体が俺たちには許すことのできない大罪だったのだから」


 男は、小柄な体を大きく伸ばしたとおもうと、バネ仕掛けのように勢いよく立ち上がった。80人ほどで一杯になってしまう試写室の最前列で見ていたその男は、静かに傾斜のあるコンクリート床の冷たい空気に満ちた部屋から外に出ていく。いったん外のマイナス30度近い凍てつく外気に触れて身をそばめながらも威厳に満ちた姿勢を崩すことはない。中庭を横切って歩いていくと、行き交う所員たちは男の鋭く人を射るような冷徹な目を恐れ、いそいそと避けて道を譲る。試写室の隣の大きな棟は、撮影スタジオになっている。その大きな建物には不似合いな狭い入り口から中に入ると、暖房が無くても少しは寒さをしのげるようだ。そのだだっ広いスタジオには、天井の無い事務所のセットが組まれ、明日から始まる新作映画の撮影準備に忙しそうにスタッフが右往左往している。その映画には、今最も注目されている中国人女優が出演することになっている。


「甘粕理事長」


 声をかけてきたのはその女優、日本国内でも人気の高い李香蘭だ。


「いつもお気遣いありがとうございます」


「いや、私は何もしていないよ。現場は製作部の連中に任せているからね」


「それがいいのですわ。自由にのびのびやらせていただけるから。私も良い作品に出合うことができて幸せです。しかも日本で最も人気の高い男性俳優との共演だなんて。おかげで先日、日本へ行っても、大変良くしてもらえました。私の歌も大変好評なようで、レコードもよく売れているそうです」


「君がみ胸に、抱かれて聞くは~、っていう作曲が服部良一、作詞は西條八十の蘇州夜曲だね。あの歌はいい。私も大好きだ。だが、戦争に明け暮れているときに、恋愛映画なんぞけしからん、とうるさく言う輩も多いんだ。それでもね、私は、何より日本と中国とが互いに手を携えていくことがこれからは大事だと思っている」


 李香蘭は、もともと日本人である。何らかの事情で中国人の家族に育てられ、中国人と一緒に学生生活を送ったがゆえに、話す言葉は自然で、ほとんど中国人に思われても不思議ではなかった。それだけに、李にとって甘粕理事長の日中関係に対する考え方にはひどく共感させられるものがあったのだ。

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