幕間6:人生やり直したいな

 「……ううん、いいのお母さん。お父さんも忙しいのは分かってるから。またね」


 話すたびに必ず謝ってくるお母さんを今日も許して、受話器を置く。ダイニングテーブルの下を覗くと、電話中のさっきまでと同じ、セミの抜け殻みたいに丸まったポーズで妹はずっと座り込んでいる。とりあえず、好き勝手動いていないことに安堵する。


 両親は2人とも日本にいない。父は私が子供のころからずっと海外で働いていて、碌に顔を見たことも無い。けど、根っからの仕事人間ってわけではなく、寂しがり屋であることは分かる。父は私の独り立ちに合わせて、母を国へ呼び寄せた。


 このとき幼い妹の心は、母についていくものだと思っていた。でも、母は心を日本に置いていく選択をした。住み慣れた国の方が良いとか、食べ物がおいしいとか、衛生的だとか、そんなことを言っていた。

 父が拒んだのだと思う。私が彼を親だと思えないように、彼も私たちを──普通ではない子供を、自分の遺伝子を引き継いだ生き物だとは思えないのだ。子供のころは、父の夢を叶えてあげられないことに罪悪感のひとつも覚えたものだけれど、今では全然。もうどうでもいい。赤の他人だ。


 椅子に座って、竹馬もびっくり30センチの張りぼて、仕掛け付きの黒革ブーツを放り捨てる。外から見ると5センチほどの厚底ブーツだけれど、実際は脛の部分まで張りぼてになっている。身長130センチで童顔の私は、こうでもしないと大人として扱ってもらえない。金のウィッグは、身長を嵩増しすることで生まれる日本人離れした膝上膝下のバランスをクオーターの外人の遺伝子ゆえだと誤魔化すため。こんな強引な印象操作に付き合ってくれる館長には、短い足を向けて寝られない。


 ──『幼稚園に預けて、迎えに行けばいいだけだから、ね?』


 母の甘言を思い出す。可愛い妹と2人暮らし、養育費は全部親が持つ。そう考えれば気楽なものだと、私は呑気に頷いた。水族館の事務をやってる間は幼稚園に心を預けて、帰ったらちょろっと育児の真似事をすればいい。自分の生活のついでにひと手間増えるだけだ、と思っていた。でも──


 鍵の開く音が聞こえて、慌てて立ち上がる。いつの間にか心はテーブルの下から移動して、何も言わず玄関から外へ出ようとしている。慌てて捕まえて、抱き寄せて膝の上に置く。「どこかに行きたいときは声を掛けなさい」と何度言っても覚えやしない。こんなだから、幼稚園でも問題児扱い。最近は送り迎えも億劫になってきた。ブーツを履いたままだと、周囲の目も気になるし。


 ──『心ちゃん、その、診断の結果は健康そのものなんですけれど、なぜだか喋らないみたいで……まだ馴染めていないってこともあると思うのですけれど、確認として。おうちではきちんと喋っていますか?』


 やけにオドオドへりくだって、そのくせどこか敵意に満ちた、先生の視線が嫌だ。なんでも梶さんが言うには、虐待を疑われているのだそうだ。家庭環境が劣悪だと、喋らなくなる子もいるらしいから。


 「こら、腕なんて食べても美味しくないわよ。たまごボーロ出したげるから、そっちにしなさい。……やめなさいったら」


 虐待なんてしたくもない。お腹いっぱい食べさせて、暴力は絶対に振るわない。それが正しい育児の在り方だと、そう思っていた。最近は、自信がない。


 『お宅のお子さんは躾がなっていないわ』

 『落ち着いて話を聞かせるトレーニングをさせるべきかと』

 『いくらシャイでも、挨拶くらい覚えさせて欲しいものね』


 ──『罰を与えて、やってはいけないことを覚えさせるんだ』


 「梶さんまで言うんだもんなあ。……甘いのかなあ」


 仕事先での飲み会も、最近は育児を理由に参加できていない。

 まあ、お座敷の居酒屋とか行くとブーツのことがバレちゃうから、もとより行く気も無いんだけれど。妹の面倒を見ると言って辞退すると、大概の人は憐憫の目を向けてくる。自分の子でもないのに、ということだ。普段は愚痴ばかりの同僚も、育児の話を口にすると、しばらく口をつぐんで愚痴らなくなる。もっと大変なやつもいるんだと、自分を戒めているのだろう。余計なお世話だ。


 たまごボーロを口に入れて、花の咲くような満面の笑みを浮かべる心に、頬が自然と緩む。


 「ふふ、美味しいねえ。よかったねえ」


 後悔なんて、していない。

 だって、こんなに可愛いんだもの。


 呼び鈴が鳴る。

 たぶん、梶さんだ。ブーツを履き直して、エコロを椅子に座らせて、玄関へと小走りした。


────


 ──『やっぱり、できません。かわいそうです』


 動物を操る力を持つ、井上心。彼女に人を操る力はあるのだろうか。

 確かめるため、実姉を使って実験をしようとしたところで、出鼻をくじかれてしまった。


 「いつから私は、こうなってしまったんだろうな」


 人生が同じことの繰り返しと感じるようになった時点で、予兆はあった。自覚していなかった強烈な欲望が、胸に秘めておくべき欲求が、悲鳴を上げている。


 未完成の花の蕾を、花開く前に腐らせてしまいたい。

 綺麗に熟すと知っているから、他人の目に触れるその前に、手折ってダメにしてしまいたい。

 詩的な言い回しを止めるなら。

 誰かの人生を間違った方向に導いて、間違いに気づいた末の姿を見たい。


 微笑みを作って、呼び鈴を鳴らす。家の中でもブーツの音を鳴らして、陽菜子は私を出迎える。屋内であるにもかかわらず履いている黒革のブーツは仕掛け付きで、30センチの底上げがされている。そのことを、私は知っている。彼女も、私が知っていることを知っている。


 「……毎度思うけど、足、疲れないのかい。膝曲げる時とか地獄だろう、それ」

 「足が疲れようと頭皮が蒸れようと、お洒落は我慢ですー。それより相談、聞いてくださいよ、ね」


 そう言って彼女は、金のウィッグを外して現れたロングの黒髪を手で払って後ろに回して、テーブルの上にiPadを放り捨てる。金に染めるのでは色落ちで嘘がバレる、とのことだが、ウィッグにしたって、水泳帽みたいなネットやらピンやらで長い髪を畳んで毎回収納するのは手間だし、どうせ嘘を突き通すつもりでいるなら、いっそ切ってしまえば良いものを、と思う。

 さて、テーブルの上のiPadの画面には、『赤ん坊が話し始めるのは遅くとも1歳半!』と書かれたウェブサイトが表示されている。私は口角が上がりそうになるのを抑えて、無表情を保つ。陽菜子には、そんな私の表情の機微など、見えていない。


 「てんで言うことを聞かないし喋らないんです。聴覚検査は問題ないし、物の名前もちゃんと書けるし、身体に問題はないはずなんですけど。こんなだから、幼稚園でも一人ぼっちみたいで……小学校って、通わせないで育てられないでしたっけ」

 「教育を受けさせる義務というのが日本国民にはあってだね」


 ですよねえ、と不満げなキミはいま、人の親になる覚悟がない。子供に反抗されようと、周囲の人間にどう言われようと、正しい方向へ子を導く覚悟がない。当たり前だ。大人になったのは年齢だけで、キミの親としての経験値も、キミの身体も子供のソレ。これから持ち前の素直さを活かして、時に逆境にさらされながらも様々な経験をして、立派に子供を育て上げるのだろう。


 その時に、虐待をさせ、エコロの真の能力を発現させるのが私の研究計画だ。

 だがいま私は、それ以上に。まっすぐな少女の未来を、捻じ曲げてみたくなってしまっている。


 キミには、私の表情の機微が見えていない。

 見えているのは、周りの人が自分に向ける感情が負か正か、それだけ。


────


 『同級生はもちろん先生の呼びかけにも、一言も応じません』

 『ただ聴覚検査は健康そのもの、成績は中ほど、特別悪くもありません』

 『心の問題、あるいはギフテッドとかいうヤツかもしれませんな。ほら、最近流行りでしょう、はは』

 『ご家庭での教育はどうなさっておりますかな』


 小学一年生、春。

 井上心の特殊な難聴──ヘッドホンで音を聴くことになる聴覚検査では検出できない難聴について知らせないでおいた。かつ問題なく授業についていっているように見せかけるため、マンツーマンで言葉と知識を与えた。


 井上心の沈黙は、次第に人格の歪みと捉えられるようになる。

 人格の歪みは家庭環境の歪み、責任追及の目はキミへ行く。キミは親では無いのにね。


 相談を聞きに、私は陽菜子のもとへと通う。

 「ちょっとは、喋れるようになったみたいで。ただ、意思疎通は取れないままです。《くるま》とか、《ごはん》とか、単語が言える程度で。こっちからの声掛けには、ちっとも」

 彼女は頭を抱え、うなだれている。前であれば、《初めて喋れるようになった記念》とかやりそうなものだが、どうもそんな気分ではないようだ。消え入るようなか細い声で、今日の相談を口にする。

 「……ほかのママさんが、支援学級っていうのに通わせた方が良いって、一般学級に居られると迷惑だって」

 「身体検査は健康で、成績も悪くない。何より、落ち着いて座って授業を受けている。問題は無いと思うがね。恥ずかしがりなだけだ」


 自分に育児の経験が無いことも、経験が無いからと言って失敗が許される訳ではないことも、キミは分かっていた。だから、愚かにも私に頼った。私がいなければ、独りでいれば、開き直って強くなれただろうに。心無い声にも負けずにいられただろうに。


 別の日、くつろいでいると、窓からこんこんと音が聞こえる。心が私の家に来た音だ。ビルトインガレージで、家の一階と駐車場が一体化しているのが私の家。その窓を開けると、駐車場から入ってきた心が私に背を向けて、停められた車を指す。「──ま!」聞こえやしないが、私は鷹揚に頷く。彼女の耳にイヤホンをつけ、自分もつけて、優しく手を引いてやる。


 「お腹が空いたろ。何食べたい?」


 問いながら、家にある材料で作れる食べ物が絵で描かれたカードを渡す。彼女が目移りしている間に、日めくりカレンダーを捲る。今日の日付の数字は黒い。平日だ。彼女は、学校から抜け出してきたのだ。

 心は、私と彼女の会話を成立させるもの──イヤホン──が何なのか、分からない。だから、周囲の人間の声が成立していない理由が、成立させるには何を求めればいいのかが分からない。先生にも、同級生にも、陽菜子にも。答えはとても、シンプルなのに。


 「大丈夫」


 憐れみと、興奮を背に。


 「辛いなら、学校へ行かなくたっていい。これまで通り、私が言葉と知恵を教えよう」


 冷凍のミートソースパスタを貪る心の頭を撫でると、彼女は満足そうに頷いた。



────



 小学一年生、秋。


 『登校日数が少なくなっておりましてな、ご存知ありませんでしたか。保護者の方に隠れてサボっているようですな。来ても保健室で休んでいるばかりでして。規則として不登校児のご家庭には登校を促さねばなりませんので、参りました』

 『……まあ、業績は振るわないし、どんどん人は辞めて行ってるがね、最年少館長の水野サンの名にかけて、なんとかしてみせるよ。受付がそんな心配せんでよろしい』


 キミがどれだけ身を粉にしても、納得のいく成果には結びつかない。


 「どうして休むの。なにか、辛いことがあったの」


 膝を折り曲げ心と向かい合っても、彼女はそれに答えられない。何を言っているのか分からないから、曖昧な笑顔を浮かべるばかりで、その温度差が、キミを苛立たせる。


 いずれキミは見失う。

 なんのために苦労しているのか、なんのために生きているのか。そうしたフラストレーションは不発弾になって、これからの人生に埋められる。

 あとは、起爆剤を用意するだけ。


 ──『被害者は男子児童一名、症状は脳震盪。被害児童は回復後、何もしていないのに突然心さんに引き倒され、平均台に頭をぶつけたと主張しています。いちおう、一方の主張のみではいけませんから、心さんにもお話を伺いたいのですけれど……その、例によって何も話してくれませんで』


 陽菜子は、心の肩を掴む。

 「どうしてなの」

 心には、聞こえない。ただ事ではない雰囲気だけが伝わって、泣き笑いみたいな表情で、陽菜子の目を見つめる。

 「何か嫌なことをされたの。……黙ってちゃ、分からないわよ?」


 『ウチの子が死んだらどうしてくれるの。後遺症が残ったらどうしてくれるの』

 『不登校の子の親よ』

 『一言も喋れないんですって。虐待かしら。可愛い顔して怖いのね』


 健気にも、キミは心を信じようとしている。けれど、それは身が保つまでだ。自分に危機が迫れば、人は忍耐を切り捨てる。

 「相手の子の嘘よね。男の子って、気になる子にちょっかいかけちゃうもんね──私は、私だけは、信じるから。だからね、ほら、話してみて?」

 心は答えない。答えられない。


 「……なんで」


 キミは見失う。何のために、生きているのか。


 『躾がなってない』

 『受付の仕事じゃない』

 『教育がなってない』


 誇りが無ければ、人は、生きていけない。

 キミの心を蝕むのは、何よりも、守るべき人が、自分に怯えていること。


 「なんとか、言いなさいよ……!!」


 初めてキミは、小さく怒気を発して。

 心は、それで耐えきれず、奇跡的に、意味のある言葉を発する。


 「かじ、さん────」


 骨を折る思いで育てても、感謝されないことに気付いて。

 陽菜子は、生まれて初めて、娘を、他人を殴った。



────


 答えを言うと、先に手を出したのは男の子の方だった。心が喋らないのを良いことに、殴ったり蹴ったりやりたい放題。心は耐えかね、一度だけ第4の能力を使い応戦した。一切加減の効かない状態での能力の発動で、気絶で済めば安いほう。それを知るのは私だけ。キミがそれを知るのは、公園で実際に能力を受けてから。


 「……いつまで、そうしているつもりだい?」


 久しぶりに足を運べば、陽菜子はずいぶんと衰弱していた。ソファに寝転がって、ぼうっと天井を眺めている。一階の部屋はずいぶんと汚くなって、床は足の踏み場もないほど物で溢れていた。大部分は洗濯物の山々。その合間を縫って、お菓子のゴミとか、アンガーマネジメントの本とか、得体の知れない錠剤の薬とかが散乱している。


 陽菜子は、私を一瞥すると。

 「……私を、ころしてください」

 「どうして?」


 当然の疑問を返すと、彼女は、少し黙って、それから、震える自分の右足を見つめて。


 「抵抗されないと分かってから、暴力が、選択肢に入りました。止めようとしても、止まらないんです。やっちまえって、よくないって、頭では、分かっているのに。あの子、ほんとうになんにも言わないから、なんにも、抵抗しないから」


 それはまあ、私が能力を使うなと、散々説いたからなんだけど。抵抗しないサンドバッグの存在は、彼女にとっては麻薬に等しいようだ。かといって無抵抗の人間をいたぶり続けられるほど、彼女の心は強くなかったらしい。本来であれば、捨て置いても良かった。陽菜子に心を虐待させるという当初の目的は達成した。

 同情も特にない。陽菜子の言い分は結局のところ体のいい言い訳に過ぎない。心の持つ能力を、男の子を一瞬で昏倒させた第4の能力を教えれば、アンガーマネジメントもクソもなくすぐに止められるようになると思う。人間、自分より強い人を衝動で殴ろうとは思わないからね。


 (……でも、まだ心が人を操れるか、分かっていないしなあ)


 心は辛抱強く耐えている。耐えるだけで、状況を打開しようとしない。それはたぶん、希望を知らないから。自分でどうにかしようと思えるほど、未来に希望を見いだせないから。なら、希望を与えよう。それが叶わないことを知れば、自分でどうにかしようと思うだろうからね。


 「……スタンフォード監獄実験って知ってるかい。善良な市民を看守役と囚人役に分けて生活させると、次第にその役割通りの態度になるってヤツ。キミは多分、親でもないのに親をやろうとしたから、そんな風に性格が変化してしまったのさ。衝動を抑えられないのは、キミのせいじゃない」


 陽菜子は、起き上がって私を見た。揺れ動くその目には、小さいながらに確かに、希望の光が灯っていた。私は内心、鼻白む。『キミのせいじゃない』なんて、他人に言われるのを当てにしたって、なんの意味も無いのにね。ソイツが悪い奴だったら、どうするつもりだって話だよ。とはいえ好都合、彼女が履いたままのブーツに手をかける。彼女は抵抗しない。されるがまま、私の言葉を待っている。


 「単純な話だよ。子育てに必要な役割を増やせばいい。親が罰してしまうなら、ついつい甘やかしてしまう、子供自身も張り切って守りたくなるような、そんな役割を増やせばいい。普通の人じゃ不可能でも、キミなら出来る。天から与えられた才能を持っているんだからね」


 レコーダーを買ってきて、彼女に渡すと、嬉々として、声を吹き込んだ。新しい命に、生まれ変わるように。来世では、もっと上手くやれますようにと。私は、後頭部で後ろ手を組んだ。


 (……無理だと思うなあ。心の症状にも、私の症状にも最後まで気付けなかったキミじゃあねえ)


 とはいえそうして、彼女が生まれた。




 ──『初めまして、心お姉さま。わたし、妹の夢生と申します!』

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