幕間4:グルーミング・2

 ヒナコは、どこまでも普通の女だった。取り立てて性格が悪いわけでも、良いわけでもない。平均的な身長で、そこまで大きくない水族館で受付をしている。太ぶち眼鏡と金色のポニーテールが特徴の、素材のわりにやけに素朴で子供っぽい可愛らしさがある女だった。


 水場特有の滑りにくさを重視したごつごつした床を踏みしめ歩くと、それだけで視線を集める。日本人離れした身長は何かと注目の的になる。はにかんでみせると、視線は散り散りになる。


 「今日も大人気ですねえ」

 「揶揄うのはよしてくれ」


 声が聞こえた方向には、金髪に黒縁メガネの、陽菜子がいた。膝を折って目線を合わせながらチケットを渡すと、「あんま子供扱いしないでくださいよー」と、頬を膨らませる。


 「でも、いつもありがとうございます」とこっそりと囁くのはいつものことで、年々変わるのはその音程。はじめは秘密の共有にどぎまぎして高音が抑えられていなかったのが、今や落ち着いて慣れたもの。柔らかな笑顔の仮面が、見ていてとても心地いい。


 「妹さんの調子はどうだい」

 「もー言うこと聞いてくれなくて我儘三昧。振り回されて疲れちゃいますよまったく。正幸さんの言うことはちゃんと聞くのになんなんでしょうかねこの差は」

 「性別の差じゃないかな。幼い頃は同性に敵意を燃やすものだろう。これが思春期になると逆転するんだ、つまりもうしばらくの辛抱だ。私が嫌われ、君が懐かれる」

 「だと良いですけど。言うこと聞かせるコツとか隠してるんだったら承知しませんからね」


 あまり納得していない様子でヒナコは金のポニーテールをかき上げ、そのままの手の動きで屋外プールまで繋がる廊下の一室を示す。「お姫様は控室にいますので、エスコートよろしくお願いします、王子様―」


 言われた通りの場所に足を運んでも、心はいない。となれば、今いる場所は。


 「……部屋で大人しくしていろと言われているはずなのに、いけない子だ」


 心を家まで連れ帰るのが、今日の私の仕事だ。彼女は控室から屋外プールに移動していて、プールサイドに四つん這いでいた。黒い長髪をプールに垂らして、私には一切気付いていない。用を終えるなら彼女の腰をひっつかんで、そのまま連れ帰ってしまえばいい。


 それでも、私はプールサイドに腰を下ろした。イルカたちがひとりでにショーの演目をこなしているおかしな光景を、もっと目に焼き付けたいと思ったからだ。


 「いや、ひとりでに、ではないか」


 ノートPCを取り出し、心の頭にヘッドセットを取りつける。声の波形を見るに、やはりイルカの出す超音波に反応して、返答している──どうやったら平々凡々な姉の次にこんな子が生まれるのか不思議で仕方がないが、そうなっているものはなっている。心が操ることで、この光景は生まれている。


 クリックス、ホイッスル。イルカの超音波の呼び名。彼女はそれを模倣して、本能的に動物に指令を下す方法を知っている。その分、動物側の声が「どんな行動を期待しているか」も分かるから、あっちこっちへふらふらしてしまう。


 まあ、そうした主体性の無さは成長と共にじき治るだろう。そんなことより、気になることがある。


 彼女のこの能力は、動物を操る能力は、生まれつきだ。動物の声を本能で知っている。


 「人間を操る声は、あるのかな」


 むしろそっちが先であるべきなのに、そんな素振りは見受けられない。

 好奇心が止まらない。大人になってからというもの同じことばかりの繰り返しで辟易していたところに、突然現れた摩訶不思議な子供。

 最近、朝の寝覚めが良い。興奮と共に一日の始まりを歓迎できる。

 

 

 

 生物の能力は、すべて生きるために発揮される。

 体罰で身の危険を覚えれば、人間を操る声を発するのではないだろうか。始めは軽いところから、徐々に馴らして、虐待を常態化させてしまおう。そうすれば、能力の進化を見ることができる。

 そう思って、井上陽菜子に近づいた。今では、家に上げてもらえる仲だ。


 「靴は脱がないで上がってくださいねー」


 海外では靴を脱がないというのはそうなのだが、それを日本の一般的な木造二階建てての家でやられると、ちぐはぐな感じがする。とはいえそれは自分が靴を脱いで育ったからであって、ここで育った心は慣れた様子で玄関マットで土を落として、土足のまま家へ入ってゆく。手を引っ張られ、私も土足のまま入った。


 「やっぱり梶さんが迎えに行くと素直に帰ってくるんですよねえ。そんなにイケメンがいいかコラ」

 私と手を繋いだままの心に対して、陽菜子は怒り顔を作ってみせる。心は笑う。陽菜子も笑う。良い雰囲気だ。

 「そう、言うことを聞かせるコツだけれど。体罰はある程度なら有効だと思うな。やってはいけないことを身体で覚えさせるんだ」

 途端に、陽菜子の表情が曇る。

 「……幼稚園でも言われたんです。しつけがなってないんだって。でも私、やっぱり体罰は良くないと思うんですよ。梶さんは、やったんですか?」

 「デコピン程度だけどね。それでも効果はてきめんだったよ」


 今日も気軽に嘘をつく。4歳になっても未だ話せもしない心が言うことを聞かないのは当たり前だ。そのうち言語教育を施す必要があると思う。そのことは言わない。虐待を常態化させるための危機感を煽るのに必要だから。


 陽菜子は心の不思議な能力について、未だ知らない。だから、私がイルカの声をサンプリングして、心に命令を与えていることにも気づかない。体罰に意味はない。心にとって、言葉が通じる相手は、今のところ私ひとりなのだ。


 だから、どんな罰を与えようかと、逡巡しているキミの思いは、全て無為なんだ。心のうちでほくそ笑む。さあ、さあ。


 「決めました。この間たまごボーロを勝手につまみ食いした罪に対して、お、お尻ペンペン、です」

 「……まあ、良いんじゃないかな」


 陽菜子は、空になったたまごボーロの袋を心の前に出し(初つまみ食い記念とやらでとっておいたらしい)、心の額を人差し指でさす。

 

 「これは、やってはいけないことです。メッ!」


 あらゆる動作を大袈裟にして、おそらく何も分かっていないだろう心の身体をひょいと片手で持ち上げる。きゃっきゃとはしゃぐ心、持ち上げていない方の手が震えている陽菜子。

 どれだけそうしていたか、彼女はひしと心を抱きしめて、縋るような瞳で私を見る。


 「……無理です、やっぱり可哀想ですよう!」


 ……まあ、焦ることはない。時間はたっぷりあるのだから。

 私は膝を折って、2人を丸ごと抱きしめた。

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