幕間3:井上心の罪状

 姉さんと違って、梶さんは優しかった。清潔感のある黒髪を一本に縛って、身長190センチの美丈夫でありながら、女性と見紛うほどのたおやかな微笑みで、いつもボクを癒してくれた。土曜日に家に遊びに行っても、文句一つ言わず出迎えてくれる。


 「学校に行きたくないのなら、無理に行かなくてもいい。私が勉強を、言葉を教えよう」


 ボクの難聴は、雑音によって言葉がマスクされることによって起きる。突破方法は思いのほか単純で、音を録音して、イヤホンで聞けば、普通に聞こえる。それを発見してくれたのも、梶さんだ。


 「君だけがイヤホンをつけていると落ち着かないだろうから、私もつけよう。こうすればお揃いだ」

 ワイヤレスイヤホンを耳に嵌め、ぎこちないウインク。細やかな気遣いが、大好きだった。


 「今日のルールは『種類』だ」

 同じグループのものが描かれたカードでペアを組み、捨てるババ抜き。梶さんのお手製のオモチャだ。

 『電車』『バス』……乗り物。

 『アイスクリーム』『チェダーチーズ』……食べ物。

 『イヤホンジャック』『ご当地ストラップ』……周辺アクセサリー。


 彼は途方もない労力をかけて、大量の言葉を教えてくれた。

 自然に耳に入る言葉も、キミの耳には入らないからと、ほとんど使わない言葉まで、音声にまで録って教えてくれた。


 「続いて単語しりとりだ」


 『ショルダーバッグ』

 『バッグクロージャ―』

 『クロージャーボックス』

 『ボックスティッシュ』


 カードを交互に出してゆく、この時間がボクの幸せ。

 ちなみにバッグクロージャ―はパンの袋を閉めるアレ、クロージャ―ボックスは電柱にぶら下がってるケーブルどうしを繋げるアレのことである。まあ、それは良くて。


 「昨日の昼は何を食べた?」

 「……オムライス」

 「そうか。陽菜子のオムライスは絶品だからなあ。羨ましいよ」


 ボクは、曖昧な微笑みを返す。

 梶さんみたいな良い人が、姉の恋人なんてやっているのが不思議で仕方が無かった。何度、現実を教えてやろうと思ったか分からない。貴方の恋人は、ボクを虐める、酷い人ですよ、って。


 でも。

 彼の幸せそうな笑顔を見るたび、そんな悪意は霧散する。

 いつかボクにも、その人のことを想うたび、こんな顔になれる相手が現れるのかな、なんて、そんなことを思いながら、いつも、頑張って恩を返そうとしていた。

 水族館に迎えに来る彼の袖を引っ張ると、優しい微笑み。慈愛に満ちた声。


 「ああ、またイルカショーを見せてくれるのか。ありがとう」


 見るたび、聞くたび、幸せが溢れる。

 勝手に父親代わりに思っていた。まだ見ぬ妹と共に、日々を生きる心の支えだった。


 誤解していた。彼がなぜ、ボクに言葉を教えてくれていたのか。世話をしてくれたのか。

 それはきっと、彼自身に備わった優しさではなくて。ボクが、彼の大好きな人のの妹だから。




 木魚の音が、等間隔に聞こえる。

 喪服の黒一色に、同じような顔が並んで、ボクに刺さるのは同情の視線。姉がひとりでボクを育てていたとか、両親が借金のうえ蒸発したとか、根も葉もない一人歩きの噂が飛び交う中で、ボクは所在なく無表情でいた。なんか号泣しながら抱きついてきた人もいた。今思えば、あれは水野さんだったのかもな。


 死因は交通事故。ボクは泣けなかった。ついこの間した空想が現実のものとなったことに、喜びも悲しみも無かった。喜ぶのは憚られるし、悲しむ権利も無いような気がした。

 人目もはばからず泣きわめく、小さな女の子がいた。甲高い泣き声が、合間合間に少し聞こえる。無関係なのに殊勝なことだ、と思った。


 梶さんは、喪主を務めていた。諸々が終わるまで、ボクは彼を待っていた。

 横から見ていても、柔らかな微笑みに変わりはない。けれど、その目に一度もボクは映らない。

 なんだか、胸が苦しかった。死んでしまえば良いのにと、不吉な願いを込めていた過去が、聞かれていたかのような錯覚に陥った。

 諸々終わって、一息ついて、彼は、こちらを見ずに。


 「ご飯でも食べようか」

 「……いい。食欲が──」

 「いいから」


 手を引かれて、痛みが走る。やめてって言おうとしたけど、声が出なかった。それは、彼の内心を直感したから。

 彼の瞳は、行き所の無い怒りに満ちていた。


 いきつけのファミレスで、梶さんとテーブルを挟んで座る。ハンバーグから立ち昇る湯気が顔を覆うけど、まるで食欲が湧かない。それでも茶色の塊を凝視する。前を向きたくは無いから。注文をせずに水だけ飲んでいる梶さんが、たぶんボクをじっと見つめて、話を始める。


 「ドライバーが言うにはね、陽菜子は道路に倒れ込んできたそうなんだ。まるで、自ら死を望むかのように──キミの叫びは、脳震盪を引き起こす。これは前に言った通りだ。もう使うな、とも言ったね」


 でも、お友達がヒナ姉に蹴られて。

 すぐに治るんだし、べつに。


 「脳震盪というのはね、一日で重たい症状が出ないこともある。2日3日経ってから、眩暈や吐き気を引き起こすこともある」


 促されて、ハンバーグを口に含む。味がしない。


 「それだけが原因だとは、必ずしも言えない。けれど、心情の問題だ。私はもう、キミを愛せない」


 ぞっとするくらい色の無い瞳で、彼はボクを眺めていた。

 急かされている気がして、味わう資格が無いような気がして、味のしないハンバーグを、慌てて口の中に詰め込む。喉を通らない。せき込んだ。立ち上がって、彼の側に置いてあったお冷を注ぎ、胃に流し込む。


 「食べ終わったか。なら行こう」


 もう彼は、ボクとの時間を楽しんではくれない。なんでもない無駄話を聞かせてはくれない。手を繋いでもくれない。


 「これから数日、キミに会いに行く。独りで生きるための知恵を身につけて貰う」


 彼は大人としての義務感だけで、ボクと対峙している。


 「それが終わったら、さよならだ」


 最後通牒を突きつけられて、ボクも姉を気遣う余裕が無くなった。


 「姉さんは、ずっと、ボクを蹴ったり、殴ったりして、ご飯も、これ見よがしに妹にあげてて──」


 ぱちん。

 小さく頬を張られた。子供相手に配慮した、明らかに加減した一発で、でも、さっき食べたご飯を全部戻してしまいそうだった。

 梶さんのワイヤレスイヤホンと繋がったピンマイクが外れそうになって、慌てて握りしめて。彼はそれを、冷めた目で見ていて。


 「……それは、そうだった。遺品の中に日記があってね。キミがされてきたことが、すべて書いてあった。正当防衛だと、責められる謂れは無いと言うんだろう」


 彼と、今日初めて目が合う。


 「それでも」


 どす黒い憎悪を宿した瞳から、目を離せない。離した瞬間、何をされるか分からない。


 「それでも私は、キミを許すことが出来そうにない」


 声が出ない。喉が引き攣る。唾がどんどん落ちてくる。


 「あれだけ人に使ってはいけない力だと言っただろう。一度キミが能力を暴発させたとき、相手が生きているのは奇跡だと、口を酸っぱくして教えたはずだ」


 覚えている。反省はした。それとこれとは話が別だ。そう思う。言えない。


 「穏便に話し合えば、お互い幸福に生きる道が見つかったかもしれないのに」


 話し合う道なんて、あの時にはもう無かった。ヒナ姉は言葉では止まりそうになかった。止めなければ、インチョーが死んでしまいそうだった。


 そもそも殺す気なんて無かった。梶さんに教わった通りに1秒できちんと止めたのに、勝手に死んだ。

 そう、言えるはずがなかった。喉に唾が溜まって、息が苦しい。


 「……普通の人間は、どれだけ殺意が湧いてもまずは話し合うモノなんだ。殺したら、自分が罰されてしまうから。でもキミの力は、証拠が残らない。罰されない。だから、軽々命を奪っておいて、罪悪感のひとつも抱けない」


 憐れみと憎悪の入り混じった視線が、ボクを恐れずまっすぐ射抜く。


 「覚えておけ」


 ボクは耐えきれず、目を瞑った。


 「私は、キミが犯した罪を、ずっと、ずっと忘れない」


 「幸せに生きられると思うな。人を愛して生きられると思うな。禁を破ったその時に、私はキミの前に現れる。不幸のどん底に落とし込んでやる」


 「死ねるとも思うな。ずっとずっと、罪を償って生きて行け」




────


 広くなった家に、ひとりいる。

 洗濯の仕方が分からなくて、ご飯の作り方が分からなくて、そんなことをする気にもならなくて、寝転がってぼんやりと天井を眺めていた。ミルク色の壁紙に、光の入っていない蛍光灯。じっと見つめているとだんだん大きな目に見えて、気分が悪くなる。


 ──『そんなところで寝ていると、風邪引くよ』


 梶さんの声は、もう聞こえない。

 心にぽっかりと、大きな穴が開いていた。

 これからどうすればよいだろう。家のことはなんだかんだ姉がやっていた。ボクは一応、彼女に頼っていた。


 寝返りを打って横を向くと、暗号表が目に入る。

 能力で反抗の意思を見せると、姉の支配はすっかり衰え、何かしたいことはないかと、媚びへつらうように聞いてきて、それで、とくに思いつかなくて、インチョーからの贈り物を壁にかけたんだ。

 思えばあの日を境に、インチョーの引っ越しが決まって。梶さんが怒って。ボクは、ひとりぼっちになってしまった。


 「……なんで」


 どうしていなくなっちゃったの。何も言わずに引っ越しちゃったの。

 姉さんが怒ったから? 初めから決まっていたの?

 ……それとも、ボクが怖かったから?


 梶さんの真顔が、記憶に蘇る。

 ──『私はもう、キミを愛せない』



 一つ、言えることがある。

 あの日の決断は、暴力に暴力で応じた決断は、きっと間違いだったのだ。


 「取り返しのつかないことを、してしまった」


 自分に言い聞かせるように、独りごちて、涙を堪えるために、ぐっと唇を噛み締める。

 寂しいなんて言う資格は、ボクには無い。ボクは、人を殺したのだから。


 かちり、と小さな音がして、頭上でドアが開いて。

 慌てて起き上がって、目元に溜まった涙を拭って、ドアを開いた人を見る。葬式で思い切り泣いていた女の子だった。自分とそっくりな長く伸ばした黒髪に、Tシャツに半ズボンを合わせたとびきりラフな格好で、梶さんに用意された喪服を着たままのボクと目が合った。

 大人びた眼差しをしていた。ボクより背の低い、幼い見た目で可愛いのに、可愛がってはいけないような、触れがたい空気があった。そんな彼女は、どこからか取り出した無骨なヘッドセットを付けると、ボクの耳に入ったままのワイヤレスイヤホンを片方取り出して、ああでもないこうでもないといじくりまわして、「よし、繋がった」と独り言のように呟いて耳に戻す。


 この人、ボクのこと、知ってる。ボクは、確信を抱きながら、喪服の袖で雑に涙を拭った。

 「……どちらさま。ここ一応ボクの家なんだけど」

 「私の家でもあるわよ。私は夢生、貴女の妹。言葉を交わしたことはあれど、こうしてお会いするのは初めてね、お姉さま」


 予想は、できていたこと。ボクは、罪悪感で目を合わせられなかった。


 「それよりほら、泣くなら一緒に泣きましょ。さっき散々泣いたけど、まだ出るわ、涙」

 「いい」


 差し伸べられた手を、軽く払う。


 「……ボクは、姉さんが死んだのが悲しくて泣いてるわけじゃないから。一緒には泣けない。なんなら、キミの愛しのお姉ちゃんの死因なんだ」


 怒られると思っていた。泣かれると思っていた。どちらでもなく、彼女は肩をすくめて、心外だとでも言いたげに。「愛しの、ねえ」


 「確かに私は下姉さまと違ってヒナコ姉さまに虐げられることは無かったわ。けど、そんなことをする人間を好きになれると思う。私が泣いていたのはヒナコ姉さまと梶さんの面子のためよ。姉妹ふたりに嫌われて逝くんじゃ、あれだけお友達が集まる中面目丸つぶれで、可哀想だもの」


 急にペラペラと捲し立てられて、どう返したものかわからない。それでもひとまず前を向くと、彼女は自分の頭に指をさして、目が回った、といった感じのポーズを取る。


 「……話したいことがいっぱいあって、混乱してきたわ。でも、まずはこれよね」


 それから膝をついて、美しい土下座。せわしない。


 「まずは、ごめんなさい。姉さまに虐げられる貴女を、助けることができなかった。自分が標的になるのが嫌で、言葉を交わすだけで精一杯だった」

 許されるはずが、許す立場だ。

 「いいよ別に。ボクでも、そうした」

 そう言うと、「ありがと」と立ち上がって、

 「それで、下姉さまはどうして、自分が死因だとかよくわからないことを言っているの。死因は交通事故って話でしょう。赤信号で背中を押したの?」


 ほんとうに、忙しない。いろんな動作が大袈裟で、見ていて少し、楽しくなってしまう。そんな気分になってはいけないのに。


 事情を話し終えると、夢生は口をへの字にしていた。

 「能力うんぬんの話はまあ、ヒナコ姉様からそれっぽい話を聞いていたから良いとして。脳震盪については、結局梶さんが勝手に言ってるだけじゃない。解剖の結果そうだったってワケじゃないんでしょう。お医者様から直接話を聞いたの?」

 「いや、梶さんから、だけ」

 「じゃあ嘘よ。ウソウソ」


 あまりに軽く言い切るので、元気付けられていることも忘れて、声を荒らげる。


 「どうしてそう、言い切れるの。梶さんが嘘をつくメリットもない」

 「メリットなら例えば、血も繋がってない子供のお世話が面倒になったとか。ああごめん嘘よ、泣かないで」

 「泣いてない!」


 叫んだボクを、夢生はそっと抱きしめる。

 あまりに突然で、拒めなかった。


 「大丈夫よ」


 これでは、どっちが姉なのか分からない。

 ボクより低い体温が、ボクを冷静にさせてくれる。


 「大人がいなくたって、私たちは大人になれる。あの人は、知恵を教えてくれるって言うんでしょう。なら好都合、利用できるだけ利用して、強くなって──」



 「──自由に生きてやりましょう」

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