井上心の脱獄計画

乳酸菌太郎

プロローグ: 相部屋収監


 思い出す。

 ──『人生のコツを教えよう』

 グレーのジャケットにネイビーのパンツ、真っ赤に映えた蝶ネクタイ。コスプレ染みた格好が妙に様になっている黒髪ボブカットのお姉さんが、僕に指を指して言ったこと。

 ──『悪事を働かないことだ。悪事を働いたなら、大人しく罰されることだ』

 ──『悪事を目溢しされるというのは、決して幸福なことじゃない。清算されなかった罪は、必ずキミの魂を牢獄に閉じ込める。具体的には、純真な子供を見た時に胸がこうウッてなる』

 胸を押さえて、そう零すお姉さん。今思えば、あれは自虐だったのかもしれない。

 

 さて、初めての受験を乗り越え、みな一回り大きくなった高校一年生の始業式。

 目の前には、ぱっちり大きな目をにっこり細めて、天真爛漫な笑顔を見せる女の子。前下がりショートにゆるくパーマがかかった茶髪を揺らしていて、ちょっと校則が不安になる。

 水色の長袖ワイシャツに紺色のスカート、ボーダー柄の朱色のリボン。一応は同じ学校であることが分かる──というか、初対面のクラスメイトだ。面識はとくにないはずなのだけれど。


 「インチョー帰って来てたんだ! ボクのこと、覚えてる?」


 注目を集めることなど厭わない、テンションマックスボイスを真正面から受けて、なんとなくお姉さんの言いたかったことが分かった気がした。

 

 ──眩しくて、煩わしい。


────



 自己紹介には、人生経験が表れる。

 「小さいけどバレーボールが好きです」なら、小さいことで何か嫌なことがあったんだろう、と思う。

 「趣味は料理です、大したものは作れませんけど」なら、料理を小馬鹿にされたことがあるのかな、と思う。

 特徴は、大なり小なり傷とセットだ。それでも忍んで傷口を露わにするのは、会話の糸口を掴むため。ほどほどに自分を守りつつも、耐えられるぶんだけ開帳して、他人を誘う。


 そういうことを考えるような捻じ曲がった人間性だから、先のように警戒を知らずにあけっぴろげで純真な子を見ると、畏敬を抱くと同時に妬ましくも思う。

 自分が着ている男子用の白いワイシャツ、おろしたての学ランに、ほんの少し汗の臭いが混じっているのを感じながら前を向けば、ちょうどその子の番だった。


 「井上心です! 大谷育江の声真似します!」 


 ポケットの大きさのモンスター、電気ネズミの可愛らしい鳴き声を聞きながら、僕を『インチョー』と呼ぶ彼女、井上心のことを思い返す。

 さきほど結局「誰ですか?」と返してしまったせいで、非常に気まずそうな顔をしていた彼女であるけれど、言葉とは裏腹に、僕は彼女のことを思い出していた。授業中、先生の話を聞かずに、外へ出ていっていた彼女のこと。誰とも話さず、孤立していた彼女のこと。

 

 ──『戻れ戻れってうるさいな、馬鹿真面目なインチョー』

 

 ぱっぱと指を動かして、口を閉ざしたまま指文字で、会話をこなしていた彼女のことを。


 どっと教室に笑いが起きる。その渦中の井上心は短く整った茶髪を揺らし(校則を確認したら合法だった)、身振り手振り、少年探偵団の二番目に賢い男の子の物真似をしている。

 同じ年のころ、一言も話しやしなかった女の子が今やペラペラと、別人だと言われた方がよっぽど納得できるくらい饒舌に、自分の個性を表現している。


 よほど育ちが良いのだと、逆に殻に籠った自分のことを擁護したくなってくるけれど、思い出がそれを否定する。彼女の姉は、彼女には似ず暴力的な女性であったと、きりきりとした腹の痛みが訴えている。


 (……変わったね、お互いに)


 井上心がこっちを見て、微笑んでいた。思い出してくれたかな、とでも言っているみたいで、決まりが悪くて目を逸らした。

 知り合いであることを思い出しはしたけれど、先の発言を訂正する気は起きなかった。旧交を温めようという期待には添えないと思ったからだ。


 幼い頃はそれなりに外交的だったけれど、今じゃもう全然だ。一緒にいたって楽しくない。変に期待を持たせてがっかりさせるよりは、元から関わりなんてない方がいい。



 「週末はね―、動物園に行くんだ!」


 井上心は何人かの女子生徒ともうすっかり打ち解けたようで、水色のワイシャツと紺色のスカートの集団から、彼女の声が聞こえてくる。一度変に意識してしまったせいか、高校一年生の始業式当日の喧騒の中からでも、彼女の声が聞こえる。こういうのなんて言うんだっけ、カクテルパーティ効果、というか、水族館じゃないんだ。


 ──『好きな動物はね、イルカ』


 指文字で楽しそうに話しかけてくる思い出の彼女を、首を横に振って払う。幸いにも同じクラスになった幼馴染やその友達とひとことふたこと話し、教室を後にする。とにかく、週末は動物園には行かないようにしよう。まあ、ここ数年行っていないし、わざわざ意識することでもないだろう──



────



 と、思っていたのだけれど、気付けば僕は動物園行きの電車に乗っていた。週末だけあり家族連れでごった返していて、自分の異物感をひしひし感じる。なんとも未練タラタラのストーカーみたいだが、彼女を追って行くわけではなく、一応ちゃんとした理由がある。帰るなり姉が最寄りの動物園の入場券を突き付けて、こう言ったのだ。


 「彼氏家に呼んでテメーの部屋でゲームすっからテメーはどっか行ってろ」


 つり革に掴まって外を見ようとして、窓ガラスに映った覇気のない自分と目が合って、ため息をつく。分かっている。未練タラタラストーカーだ。だって、必ずしも姉さんに従う必要は無いのだから。


 姉さんと僕の立場が逆なら、彼女はチケットぶんの代金を僕に請求し、自分の好きなところへ行くだろう。それをしない僕は、姉さんに逆らうのが苦手なのももちろんあるけれど、自由だった頃の思い出を回顧したい気持ちが、少なからずあるのだ。井上心にメリットが無いが故に気後れするけれど、僕自身は彼女と話したいのだ。

 学校では、後ろめたくて、それが出来なかったから。


 (まあ、出会うとも限らないんだけど。だってほら、休日の動物園って人がいっぱいだし、今ですらコミッコミだしなあ)


 スーツの人、子供連れ、外国人、おばさんおじさん、いろいろ躱して改札を通り抜け5分ほど歩けば、すぐに動物園は見えてくる。やっぱり人でいっぱいで、チケットを確認するゲートが見えないほどの渋滞が起きている──いや、これは単純に混雑しているだけじゃないな。全員の視線が1ヶ所に集まっている。


 「おかーさん、見えないよー」

 「見なくていいの。刺されると危ないから下がって」


 今しがた群衆から離れた親子のいた場所に身体を潜り込ませて見れば、大きく低い羽音に、わさわさ動く虫の群れが、ゲートの入口を塞ぐように縦横無尽に飛んでいる。黄色と黒の警戒色のカラーリングに、細やかな毛に包まれた比較的小さな体躯。蜜蜂だ。


 「分蜂と言いまして、もとの巣に新しい女王蜂が産まれると、古い女王蜂が配下を引き連れ引っ越すんです。蜜蜂の習性ですねー」


 ラフな動物園謹製のシャツを着たスタッフが、転んでもただでは起きるまいと解説している。けれど、僕たちは蜂ではなくもうちょい大きめの動物を見に来たのだ。自然の営みにこんなことを言うのもなんだけど、なんともタイミングの悪い。

 先程の母親も同じことを思ったのか、別のスタッフに詰め寄っている。チケットの代金はすでに払っている、呑気に解説してないで駆除しろ、と。


 詰め寄られたスタッフは及び腰だ。巣を作ったなら動物のためにも駆除せざるを得ないが、動物に影響が出ない方法にしなければならない。今は準備が出来ていない。まだここに巣を作ると決まったわけでもないし、自然にどこかに行ってくれるならそれが一番だから待ってくれ、と。


 (平行線だあ)


 こういうの見ると、関係ないのにどうにも胃が痛くなる。姉へのちょうどいい言い訳も出来たことだし、本屋で時間潰して帰ろうかな。

 そう思って、せめて行った証拠を作ろうと、入口から見た景色を記憶しようとして、キリンのスペースと、そこで餌箱から牧草を与える女の子──紺のカーディガンに、水色のワイドパンツ、軽いパーマで短くまとまった茶髪、あれなんかカラーリングに見覚えあるような──と思ったら、その子が振り向いて、思いっきり目が合った。


 「あ、インチョー!」


 こんなことあるのかと、偶然を喜んでいる暇はない。駆け足でこっちに来る彼女、井上心の姿に、僕の頭はパニックになった。この子は能天気にも迎えに来るつもりなのだ──遠くで見ているだけでも身の毛がよだつような蜜蜂の大群に、防護服も来ていない春の装いで突っ込むつもりなのだ。


 (木が影になって蜂が見えていないの? 産毛が立ちまくりのこの重低音の羽音が聞こえていないの? てかこの人だかりを見ておかしいと思わないの? 呑気か?)


 腕でバツを作って来るなとジェスチャーしても、彼女は首を傾げるばかりで、歩みを止める気はないようだ。焦りが募って、思わず大きな声が出た。


 「エコロ、待って!」


 なんだその奇抜な名前は、と蜜蜂に集まっていた周囲の視線がこちらに向く。思わず顔に熱がこもる。

 それは、昔使っていた呼び名で、先日の嘘を白状するようなもので、でも、その甲斐あって、彼女、井上心、エコロは確かに足を止める。やっぱり知ってたんだ、とでも言うかのように、エコロは顔をほころばせる。今それどころじゃないんだけどね。


 「そっちから見えてないのかもしれないけど、いま蜂いるから。周りの人見たら分かるでしょ、めっちゃ多いの。危ないの。そんな軽装で通っていい場所じゃないの。分かるー!?」


 そう言うと、彼女は立ち位置を変えて木の裏を覗き込み、そこにいる蜜蜂の集団を認めて、なるほど、と頷く。

 それだけで済めばよかったのだけれど、彼女は顎に指を当て、なにか考える素振りを見せると、悪戯を思いついた子供のように、にんまりと口角を上げる。僕への返答か、息を吸い込んで、同じく大きな声で叫ぶ準備をする、同時に、高速で指が動いた。

 いつかの、指文字。


 「分かったー!!」

 『蜂さん、ささっとどいてもらうね』


 そう言って、エコロが軽く腕を振ると、蜂の大群は何かに導かれるようにして一斉に彼女のもとに集まって、人差し指の指す天へ向かって、一斉に飛翔して──そのまま、天高く飛んで、帰ってこなかった。

 

 

 

 しばらく、誰も話せなかった。その場にいる誰もの脳がフリーズしていた。しばらくして我に返ったのは、ぺたん、とエコロが尻もちをついたから。


 大丈夫なの、と誰かの声が聞こえる。大丈夫じゃない、とでも言いたげに腰を抜かすエコロの方へ、誰かが僕の背中を押した。チケットを切るスタッフが、僕に向かって手を差し伸べる。無事を確認しに、さっさと彼女のもとへ行け、ということなのだろうけど。


 『蜂さん、ささっとどいてもらうね』


 ゲートをくぐり抜け、恐る恐る彼女の方へ駆け寄ると、待ってましたと言わんばかり、けろりと立ち上がって。


 「じゃ、行こっか」



────



 あの場で注目を浴び続けるのが嫌で、エコロの言うがまま大人しくついて歩いて、動物園の順路をまっすぐ進む。隣を歩く彼女は真っ白な半袖のブラウスに紺のカーディガンを合わせた春の装いに、黒のトートバッグを片手で持って、もう片方の手でチュロスに噛り付いている。ハムスターみたいだな、とちょっと思った。


 「いやあ昨日ぶりだねえ。まだあるんだけど、チュロス食べる? それとも買い込んだポストカード、一枚あげよっか。というかそもそも何見る予定?」

 「……ゴリラですかね」

 「しぶーい」


 ゴリラはこっちだよ、と手招きするので、ついて行く。本当におしゃべりだ。

 こっちは正直学校で知らないふりをした負い目があって、まともに顔を見られない。かといって学校での話を避けると、途端に話題が無くなってしまう。


 「……ここには、よく来るんですか」

 無い方がマシなつまらない話題に、彼女はにっこり笑って、親指を背後にさす。

 「ヘビーユーザーだよ」

 背後には、《爬虫類館 ヘビコーナーはこちらから》とある。思わず半目になった。

 「笑ってよもう。つれないなあ」

 一言交わしただけで引き下がった学校と違って、今日は露骨にグイグイ来る。それは、学外ゆえの解放感もあるのだろうけれど、それ以上の原因がある。


 ──『エコロ!』


 「ね、ね、豆知識、知ってる?」

 彼女は唐突にピースサインをし、人差し指と中指をクロスさせる。

 「ピースサインのさ、立ってる指二本をクロスさせると、『グットラック』、『幸運を祈る』って意味になるんだって」

 そう蘊蓄を披露している間にも彼女の指は止まらず、ぐにぐに動く。ピースサインは指暗号で『G』である。そのまま続きを目で追うと──『GORILLA』。


 「……そうなんですか。ずいぶんと博識で」

 「でしょう。今度から森の賢者って呼んでくれていいよ──あとはね、こう親指と人差し指と小指を立てると、アメリカの手話で『アイラブユー』って意味になるんだってさ」


 この指は『S』。指が動いて、続きは『SNAKE』。

 ヘビのように執拗だ。僕は勘弁してくれと両手を上げる。


 「僕の負けです。学校にいた段階から気付いてました」

 「だよねえ。さっきエコロって呼んじゃったもんね」

 チュロスを食べ終え、包み紙を畳んでバッグにしまうと、彼女は聞きづらいことを聞くときのように、両腕を後ろに回す。


 「すっとぼけたこと自体はいいんだけどさ、理由を聞いても良いかな。関わりたくないとかだったら、仕方ないなって諦めるんだけど」

 ずっと、ずっと目線が合わない。自分に非があるのを分かっていると、身体が言うことを聞かない。


 「……期待を裏切るのが嫌だったんです。あの時と比べて、僕はずいぶん詰まらなくなりました」

 「何それ。別にいいじゃんお笑い芸人じゃないんだからつまんなくても。なんならボクさっきクソ寒いギャグで滑ってるよ」


 上手く説明できないけれど、そういうつまらなさではない。

 彼女の駄洒落はしょうもないものではあったが、それ自体には面白さがある。他人を楽しませようという意気がある。


 僕にはそれがない。今も、何を言うより、何をするより、この場から消えることが一番彼女のためになる、と思っている。会いたいと話したいと、思っていたのは自分なのに。そういった自分自身に抱く憎しみを、口にすることは出来ないから。


 「……それにしても、新鮮です。動物園なんて、小学生以来で」


 苦しい。話題の転換方法も、客観的に見た今の自分も。

 それでも体裁だけは保ちたくて、あたりを見回す。徒歩20分くらいの距離を歩き続け、園内マップで確認するとちょうど真ん中。入り口にいたキリンは、もはや影も形もない。


 (……あれ)


 視線を外した先、男子トイレの水場に、泣いている男の子の姿があった。膝を擦りむいたみたいで、けれど蛇口に膝が届かないからか、水を掬ってちまちま膝にかけている。入り口でスタッフに詰め寄っていた母親は、見ていないのだろうか。少なくとも、近くには見当たらない。


 「なら、あれも新鮮なんじゃない?」


 隣から声が聞こえて、思考を打ち切ってエコロの指す方を向けば、マラソン大会もかくやというほどの人の群れがあった。砂ぼこりを立てながら、皆鬼気迫る表情だ。「何の行事ですか」と聞くと、「……さあ。ボクがやってたキリンの餌付け?」と適当な返事。知ってるんじゃないんかい。

 彼女に袖を引かれ、巻き込まれないように端に寄る。「それにしても、みんな全力ダッシュで、繁殖期のエミューみたい……そう、エミューって言えばね」


 僕と同じ『それにしても』で強引に話題を変えて、黒いトートバッグをごそごそと漁って、取り出したのは、直方体の手のひら大のケース。中には、二股に分かれた大きな鳥の羽根が入っている。

 「エミューの羽根のお守り持ってるんだよ。ハート型で可愛くて──」


 ドン、と鈍い音が聞こえた。

 先の人群れの体当たりを、エコロがもろに受けた音だった。衝撃でよろけた彼女の手からお守りが零れ落ち、走る人群れに一瞬にして蹴とばされる。幸い、本人は倒れる事無く、踏みとどまったようだけど。


 彼女を心配する暇も、蹴とばした下手人に文句を言う暇もなかった。人の群れは先程と比べ明らかに大きさを増していて、端に避けていたはずの僕らを巻き込んで、入口に向かって順路を逆走する。

 まるで、何かに追われているかのような──


 「逃げろ!!」


 疑問に答えるように、先頭から声が聞こえる。


 「ゾウが脱走した!!」



────



 さてみなさま、動物園の《避難誘導訓練》を見たことがありますでしょうか。


 脳内で、にこやかな笑みを浮かべた僕が、片手でマイクを握り、片手で現在の惨状に手のひらを向けている。他人事であってほしいもんだね。藪から棒になんだって、マラソン大会を乗り越えるためのチップスだよ。脳内で自分が主役のニュース番組を流すことで、疲労を感じないようにできるという秘伝の裏技。要するに現実逃避。でもこうしないと、すぐに足を止めてしまいそうになる。かれこれ2分間全速力で走っていて、正直息も絶え絶えだ。

 マラソン本番さながら、後ろから足の速い人がどんどんせっついてくるものだから、足を止めようにも止められないのだ。出席番号の早い人って先頭になりがちで損だよね。


 そんなわけで、脳内解説。


 動物園の避難誘導訓練とは、猛獣が脱走したという仮定のもと、『客を避難させつつ猛獣を収容する』ことを目指す訓練だ。本物の猛獣を放つわけではなく、関節技とプロレス技が得意なトラの着ぐるみ着たスーツアクターが暴れ回る、客も楽しめる催し物である。僕はこれを見たことがあって、解説も何故だか覚えている。


 手順としては、

 1. 猛獣の位置を把握する

 2. トラックやビニールシートでバリケードを作り猛獣の移動経路を限定

 3. 安全な場所へ客を避難させつつ麻酔銃で猛獣を無力化

 である。解説終わり。


 ……現実に戻ろう。後列ではやはりパニックになっているようで、痛いだのやめろだの悲鳴が聞こえてくる。客を避難させるはずの飼育員さんはというと、もちろん懸命に制止を呼びかけている。でも耳を澄ませてみた感じ、どうやら彼らは避難誘導の初期段階、『猛獣の位置を把握する』 が出来ていないようだ。


 最初にゾウが脱走したと騒いだのは客で、彼らはまだ半信半疑。ゾウの飼育員と連絡がつかず、事実確認ができていないようだ。それを僕が聞いてしまっているということは、周りの人も同じ。飼育員さんのことを信じられず、誘導に従わず、我先にと出口を目指す。付和雷同右に倣う人が膨れ上がって、今こうなっている。


 (……エコロは、大丈夫かな)


 最後に見たのは、予想だにしない衝撃を受けよろけた状態で、押し寄せる人の波に飲み込まれる姿。あの状態から、潰されず避難することができただろうか。出口に向かう足に迷いが生まれて、けどすぐに首を横に振って走り出す。


 後ろめたさで目も合わせられない、精神的に自分で立てない人間が、何を一丁前に他人の心配をしているんだ。僕に今できることはない。自力で命を拾っているか、飼育員か周りの大人に助けてもらっているのを期待するほかない。あの子ももう高校生だ。小学校のころと違って、自分のことは自分でできるだろう。


 ……そういや、小学校のころと違ってといえば。


 (なーんでいま、思い出すかなあ)


 膝の傷口を水道で洗っていた子供が脳内に現れて、思わず顔をしかめる。

僕に今できることは無いんだ。飼育員か周りの大人がなんとかしていると願うしかない。あのくらいの年なら、泣くか叫んで助けを求めるくらいのことはできるだろ。そうやって自分を納得させても、胸にモヤモヤがどうしても残る。これが本当に嫌いだった。


 僕は不快を感じないように生きて来た。

 僕の思う正しさと、それを否定する無数の言い訳。

 すれば後ろ指、せねば後悔。

 こういうどっちに転んでもな場面が一番嫌いだ。寝れば忘れる話ではあるのだけれど。


 気付けば、入り口に無事ついていた。キリンを横目に機能を停止したゲートをくぐり、入口でゆっくり歩く。10分くらい全力で走り続けて、正直足が限界だ。弱すぎる。筋トレでもした方がいいかもしれない。なんて、緊張から解放されて饒舌になった頭を黙らせつつ、目だけ動かしてエコロを探す。


 目が合わないなりに服装は記憶してる──最悪の発言。水色の七分丈ワイドパンツに、真っ白な半袖ブラウス、紺のカーディガン。髪型然り体格然りぱっと見ボーイッシュな見た目のせいで、距離感がバグって変な気分になる──もっと最悪の発言。


 「まだ中に子供がいるのよ。助けに行ってよ!!」


 自分との会話のさなか、急に怒声が聞こえて視線の集まる方を向けば、飼育員に詰め寄る年配の女性、というかこの人、男子トイレにいた子供の母親だ。あの子が飼育員や大人に保護されるようにという祈りは届かなかったようで、どうやらここにはいないらしい。


 「ゾウの確保が先です。脱走したのはゾウ一匹、いまスタッフ総出で囲い込んでいまして、その近辺に子供の目撃情報はありません。落ち着いてお待ちください」

 「今いないってだけでしょう! 好奇心で近寄ったら、麻酔銃が当たったらどうするの! 責任取れるの!?」

 「……どこにいるのか分かれば、探しもしましょう。場所の分からない子供探しに人員を割くより、場所の分かるゾウを追い込む方がお子様の安全に良いと申し上げているのです。ご理解ください」

 「普段だったら場所も分かるのよ。1人割くのがそんなに難しいの。なんならアンタが行きなさいよ」

 「私は指揮をしています。貴女のせいでそれも滞っていますが」

 「なら私が行く」

 「万が一の時の責任が取れませんので、ご遠慮ください」


 (胃が痛いし、エコロはいないし)


 感情的な言い合いを聞きながら、ぐるりと入り口前の広場を見て回ったけれど、ここにはエコロも、ケガをした子供もいない。姉さんもいない、知り合いは一人もいない。こういうとき、僕の思考は加速する。人間、考えないことはできないもので、話し相手がいないと、独りよがりに考えすぎる。そうして、勝手に苦しくなる。分かっていても、止められない。


 (僕は、彼の居場所を知っている。移動したとも分からないけど、少なくとも目撃時点までいた場所は知っている。そして、この情報を口に出す価値がないことも知っている)


 移動したかもしれない以上、飼育員さんは動かないだろう。僕がその場で見過ごしたことに、母親は怒り狂うだろう。実際そうとも限らないけど、その時はそう思った。動きたくとも動けない、牢獄に閉じ込められたような気分の悪さに耐えかねた。


 思い出す。あの日のお姉さんの、話の続き。


 ──『もしも牢獄に閉じ込められてしまったのなら、友人を作って、ことあるごとに考えるといい。そいつだったらどうするかって』

 

 (……エコロだったら)


 友人は、数人いて。この状況で迷い無く動ける人への心当たりも、何人かあって。それでも、思い浮かべるのは彼女のこと。


 (きょう、近くにいたから。特別尊敬しているから。無邪気な姿に、憧れがあるから)


 どれでもないような気がして。

 考えているうち、気づいたら、動物園に足を戻していた。

 

 

────

 

 

 「……まさか本当に動いていないとは。というかなんで口塞いでんですか。それじゃ大人も気づきませんよ」


 子供は最初に見つけたトイレにいた。片手で自らの口を塞いで床に体育座りで丸まって、空いた手で血の止まった膝の傷口を撫でている。僕を見るとまず人差し指を口に当て、「シィー!」と鬼気迫る表情で無言を強制する。もしかしてゾンビ映画か何かと勘違いしてる?


 しゃがんで彼と同じように座り目線を合わせ、ひそひそと彼に耳打ちする。


 「大丈夫です。脱走したゾウはゾウ舎近辺にとどまっているそうで、いま飼育員さん達がが取り囲んでいます。ゾウ舎は順路の最後です、順路を逆走して入り口に向かうだけなら、出会いようもありません。現に、入り口からここまできた僕は出会っていませんから──」


 ……から、何だろうか。

 言おうとしていた言葉は『お母さんのところに帰りましょう』だ。けれど冷静に考えてみたら、それは非常にリスキーで、利益も大して無いように思える。


 考えられるリスクは3つ。

 ゾウの囲い込みに飼育員さんたちが失敗して、入口までの道に出没していたらどうする。

 それこそあの母親が言うように、外に出たばかりに麻酔銃の誤射を受けたらどうする。

 何より、帰り道に仮に飼育員さんに見つかって、その人が僕が手前勝手に避難場所からUターンで危険地帯に入ったのを知っていたら、どう言い訳する。


 リターンは、あの母親の飼育員さんに向いた怒りが収まること。あまりにもしょっぱい。それなら比較的安全と思われるトイレに、この子ととどまっていた方が良いんじゃないか?


 (今更こんなこと考えるなよ。僕はマジで何のために来たんだ?)


 無言が続くと不安にさせてしまうと思って、とりあえず何かしゃべろうとして彼の顔を見て、気づいた。彼は大粒の涙を溜めて俯いていて、僕のことなんて見ちゃいなかった。


 「ぼく、お母さんに嫌われちゃったのかな」

 「……そんなことは無いと思いますけど。なんでそう思うんですか?」

 「きょうは、悪い子だった。蜂さん触るなって言われても追いかけて、ぜったい落とすなって言われてるお守りも失くしちゃった。これが無いと、見つけてあげられませんからねって。だから、普段と違って助けに来ないんだよ」


 ──『普段だったら位置も分かるのよ』

 母親の発言を思い出して、なんとなく、自然に言葉が出た。


 「もしかしてそのお守りって直方体……じゃない、四角かったりします。大きさは手のひらくらいで」

 彼は、自分の小さな手のひらを見つめて、

 「ううん、まあるいの。色は、たしかに中身はぎんいろ。大きさはね、うん、手のひらくらい」

 

 予想が正しければ、彼の持たされているお守りはスマートタグだ。スマホと連動したGPS機能がついた、落とし物防止アイテム。僕の小学生時代と比べ四角が丸くなり、大きさが四分の一ほどに小型化したのは、時代の流れだろう。

つまり、彼の心配は的外れだ。母親は、彼の身の安全を何より心配していた。だというのに、彼は。


 「どうしよう。ぼく、まだ、お金の稼ぎ方、知らないのに。ごはんの作り方も、知らないのに。一人じゃなんにもできないのに、捨てられちゃった」


 早く救出することに、さしたるメリットは無いと思っていたけど、あながちそんなこともなさそうだ。僕は彼より目の高さを下にして、にこやかに……笑えているといいけど。

 

 「今からお母さんがいた入り口に行くんですけど、膝を怪我されてるようですし、良ければ背負いましょうか」

 

 内心誘拐犯だと思われやしないかと冷や汗だらだらだったのだけれど、そのことを知ってか知らずか、彼は文句を一言も言わず、大人しく背負われてくれる。大変ありがたい。落とさないように後ろ手で太ももを支え、肩に掴まるよう誘導する。

 

 「帰り道すがら、キミのお守りを探しましょう。僕の友達も羽根のお守りを落としてしまったみたいなので、ついでに探してくれると嬉しいです」

 

 背中の子供が頷いたのを確認し、トイレを出る。流石にゾウはいない。情報通りならどのルートを辿っても同じだけれど、念のため、行きにゾウがいないことを確認したルートをそっくりそのままたどって行く。


 (ゾウがいないのはいいけど、飼育員さんはいてくれよ。この子引き渡すからさ。僕は用足してたら逃げ遅れたことにするから)


 愚痴はさておき、入り口で得た情報を整理しよう。


 ゾウ担当の飼育員が何らかの理由で倒れて檻が開き、ゾウが脱走した。動きは鈍く、ゾウ舎付近で立ち往生している。倒れた飼育員の安全を守るためスタッフ総出で最速でゾウ舎へ向かう、とのことだった。今まさに、大捕り物の真っ最中なのだろう。背後から、緊迫した声が聞こえてくる。


 背中に背負った子供は、そんな声など耳に入っていないかのように、穴が開くほど地面を見つめている。さっき頼みごとをしたせいだ。なにかに集中していた方が気が紛れるだろうと適当にした頼みごとをこうも熱心にやってくれると、なんだか悪いことをした気分になる。僕はと言うと、気は紛れない。誰もいないがらんどうの道を、踏みつぶされた草の匂いを嗅ぎながら進む。


 (果たして、これは本当に正しいことなんだろうか)


 いつも、いつも、考える。疲弊した身体に鞭打って、早足で入口へと向かいながら、僕は何度したか分からない自問を繰り返す。

 この子をトイレから連れ出すリスクは、改めて確認した。


 ゾウは確かに背後にいる。飼育員の声も聞こえるあたり、確かにそうだ。であるなら、トイレに留まっているより、ゾウから離れる方向に向かう方が安全に決まっている。

 麻酔銃に巻き込まれやしないかという話は、冷静に射程を考えればありえない。麻酔銃の有効射程はおよそ十数メートルで、そこまで長距離を狙撃できるものではない。

 巻き込まれないようにする、というのなら、むしろ目標から離れる方向に逃げた方が良い。


 飼育員に怒られる可能性については、もう甘んじて受け入れるほかない。なんならいてくれたほうが嬉しい。他二つに比べれば、そこまで恐れるものでもない。


 (……なのに、なんでこんな手汗でビッチョビチョなんだよ、お前は)


 何か一つ行動を起こすたび、石橋を叩いて叩いて。問題があったら他人のせい。そんな興の削がれるやつは、そりゃあつまらないに決まってる。

 背後の声がどんどん遠くなる。この調子ならあと8分も歩けば入口に着くだろう。あと二回角を曲がれば道も直線になる。悠々のラストランだ。自分への気付け代わりに子供を背負い直すと、「あ」と小さな舌足らずの声が、顔の横から聞こえる。


 「あった、あれ」


 背中から伸びた指のさすところは、通った逃げ道の端の草むら。確かにお守りらしき小さな布袋がある。ただ、遠目にもボロボロに引き裂かれている。先のパニックで、散々に踏みつけられてしまったのだろう。

 駆け寄ると、それは悲惨なもので、ピンク色で花柄の可愛らしい布は砂にまみれ引き裂かれ、中に入っていたのだろうスマートタグまでもが、ところどころ細かなプラスチック片になって、電池が外に転がってしまっていた。


 「……おかあさん」

 「怒られやしませんよ。せいぜい数千円のお守りより、貴方の命の方が大事です」


 言いながら、少しの違和感があった。拾い上げたプラスチック片は、エアコンのリモコン程度には耐久性がありそうだ。


 (人間が踏みつけた程度で、ここまで粉々になるものかな)


 嫌な想像をしてしまって、不安になって周囲を見渡す。

 相変わらず、人っ子ひとりいない。行きに見た爬虫類館にも、サル山にも、スタッフは一人もいない。明らかな異常事態に警戒したサルたちの視線が、僕に突き刺さってくるばかり。


 ……おかしくないか。

 いくら捕獲に総動員と言ったって、逃げ遅れた人を確認するスタッフや、入口に誘導するスタッフがいたっていいはずだ。現に、僕がこっそり再入場したあとで、母親のクレームに押される形で何人か配備されたのを見た(だから帰り道が億劫だった)。それがいないということは、大捕り物に参加したか、入り口に戻ったということ。大捕り物の方に参加したなら移動が中央のトイレから見えたはずで、それが見えたら子供はさっさと引き渡すつもりだったから、後者、入り口に戻った、ということ。そこまでの緊急事態があったということ。


 それを、この数トンはある物体が轢き潰したような無残なお守りと併せて考えると、ゾウは、もう一匹──。


 「ありゃ、インチョー。どうしたのそんなところで突っ立ってさ」

 「ぎょえー!?」


 背中から急に声を掛けられて、たぶん、背負った子の身長くらいは跳んだ。「ッなに、ぎょえーって、ぷくく」と後ろから聞こえる。着地した後で声からエコロだと思考を整理して、怒り顔を作って振り返る。

 するとエコロは慣れない手つきで車椅子を押していて、車椅子の上には、白髪で満面の笑みを浮かべたお婆さんが、髪にぶかぶかのセーターに、大量の干し草を絡ませて座っていた。土の臭いに混じって、すこし尿の臭いがする。


 作った怒り顔が秒で霧散するのを自覚した。

 「……どういう状況ですか?」



 外に向かいながら話そう、ということになり、隣同士人を運びつつ、順路を逆走する。

 「話すと長くなるんだけどね」

 エコロは頬を掻き、車椅子を軽く揺らす。車椅子にはシールが貼られていて、名前と思しき『コノオ』と、電話番号が書かれている。

 「インチョーが動物園に戻っていったあと、二匹目のゾウが入り口まで来てたんだ。飼育員さんも含め、脱走したのは一匹だと思ってたから、もうてんやわんやだった。……ああ、気づいてたのはボクだけだから、安心してね。ボクはそこの餌箱に隠れて様子を窺ってたから、こそこそ忍び込むインチョーの姿が見えてたの」

 「……えーっと」


 見てたのかとか、悪い予感が当たったこととかで、思考がいったんフリーズする。とっさに絞りだした一言は、僕らしい責任転嫁。

 「……なんで隠れてたんですか?」

 ぎく、と音が鳴った気がした。それくらい露骨に、彼女は目を逸らしていた。うー、とか、んー、とか、しばらく唸ったあとで、意を決したように、僕の目を見て。


 「ボクは何というか、特殊な体質でさ。動物と意思疎通が取れるんだ」

 何やら、世迷いごとをほざきだした。


 「二匹目のゾウの声が後ろから迫って来てるのは分かってた。どうにか、宥めて返さなきゃいけないと思った。でも、この体質を公の目に晒したくなかった。だから、隠れて話して返した……やっぱそういう反応になるよねえ」


 たぶん、あっけにとられた顔をしているのだと思う。けど、頭ごなしに否定するのも違う気がして、また、話を逸らす。今度はすぐに話題が出て来た。「そのお婆さんは?」


 エコロは助かったとでもいいたげに、意気揚々とお婆さん、たぶんコノオさんの顔を覗き込む。

 「何があったか、説明できますー?」

 「マサちゃん、この方はどなた? カノジョ?」

 「インチョーです。カノジョじゃないです。女の子ですらないです。あとボクはマサちゃんじゃないです」

 「またまた。恥ずかしがらなくていいのよ」

 あれだけ意気揚々としていた顔が、僕の方を向くころには一瞬で困り顔になっていた。


 「ごめん、無理そう。ボクもこの人はのことはよく知らないんだ。なんか餌箱に入ってた。ちょっとボケてるみたいだし、間違えて入っちゃったのかなあ」

 

 話しながら行けばあっという間で、気付けば曲がり角はあと一つになっていた。入り口への最後の直線を前にして、エコロは立ち止まると、「ここから二手に分かれよっか」と、入り口から爬虫類館へ直接行く横道を指さす。「ボクは正面からこの人押して注目を集めるから、インチョーはこっそり戻って」

 

 首を傾げると、彼女は微笑む。

 「さっきの話を信じるも信じないもインチョー次第。でも、ゾウが来てたのは本当で、みんなピリピリしてるから。怒られたくはないでしょう?」



────



 背負った子供を母親に返して、およそ2時間後、エコロとファミレスで落ち合う約束をしてから1時間後。ドリンクバーと小説で時間を潰し、来店のベルが鳴るたび幾度となく顔を上げて、ようやっとエコロの姿を認めた。そのエコロは予約の名前を眺め、首を傾げている。店内を見渡して、ようやく目が合ったので手を振ると、申し訳なさそうに早足で近づいて、「お借りしてましたー!!」と携帯を渡してきた。コノオさんの車椅子に記された電話番号に連絡したいと頼まれて、さきほどまで携帯を貸していたのだ。自分のは無いのだろうか。


 エコロは黒のトートバックを隣のソファー席に置いて座り、「食べててよかったのに」と言いつつメニューを開く。今は14時、遅めの昼だ。少し悩んでお互い注文を決めると、さあ本題とテーブルから身を乗り出す。


 「車椅子に書かれてたのはやっぱり施設の番号だった。電話したら引き取ってもらえたよ。おばあちゃんからお礼ももらっちゃった。ピッコロ?だってさ。綺麗だね」

 黒と銀色の小さな横笛を取り出してニコニコご満悦なエコロだけど、たぶん僕の顔は引き攣っている。

 「それ30万は下りませんよ」

 エコロの顔も引き攣った。無言で手を伸ばしてくるので、無言で携帯を渡す。アドレス帳を開いて、(勝手に登録したらしい)コノオさんに電話をかける。施設の番号にかけて、管理人さんが呼びだすシステムらしく、あれこれ騒いだのちに、コノオさんに繋がった。

 「おばあちゃんごめんなさいやっぱり返しますー!」

 今時らしく、テレビ電話を繋いでいた。コノオさんは人好きのする笑みだ。

 『いいのよマサちゃん。貰ってちょうだい』

 「だからボク、マサちゃんじゃないんですってー!」

 なるほど、どこかボケている。


 ぎゃーぎゃーと騒いで電話を切ったエコロは、疲れた様子で携帯を返す。受け取って、ポケットに入れて。何でもないことのように、口にする。


 「……動物と話せるっていうのは、どんな気分なんでしょう」

 

 エコロは何でもないこととは受け取らなかったようで、目を丸めている。

 「自分で言うのもなんだけど、こんな眉唾信じるの?」

 「少なくとも、『ゾウが入り口まで迫って来ていた』ことと、『ゾウが急に大人しくゾウ舎へ戻っていった』ことの確認は取れました」


 子供を母親に返した時、それでこっぴどく叱られた。トイレに置いておいた方が安全だった、もし帰りに鉢合わせていたらどう責任を取るつもりだったのだ、と。


 「中央のサル山は通らなかったようですから、入れ違いになってしまっていて、実際にゾウを動かしている様は見ていません。共にいたコノオさんの証言は、言ってはなんですが信頼性に欠けます。決定的な証拠は、未だありません……でも、否定する材料もありません」

 

 ドリンクバーで注いだカフェラテを、訳もなくスプーンでかき混ぜる。前を向けば、エコロは、真剣な表情で、僕の話を聞いてくれていた。そういうところが、昔、好きだったところだ。

 

 「そんなファンタジーを急に認められるほど、脳味噌が柔らかくはできていませんけど。貴女は、緊急時に嘘をつくような人ではない、と思います。ので、そうですね。質問に答えると、仮置きです。現象をこの目で見たワケではないので、完全に信じてる、とは言えませんけど、頭から否定はしないようにしようと思っています」

 

 そう言って微笑むと、彼女はなんだか、白けた感じの顔をしていた。

 「ふーん」

 「ふーんて」

 「別に―。ちゃんと話せるし、目も見れるじゃんって」


 痛いところを突かれて、誤魔化しにカップを持ち上げる。やっぱり口には出さないだけで、そういう態度は気になるものだ。一度言葉に出されると、もう目を逸らすわけにもいかない。まっすぐ見つめると、まっすぐに返ってくる。

 

 「たぶん、姉さんのせいだと思うから、言いづらいけどさ。もうちょっと他人のこと、信用してもいいと思う。つまんない人とは話したくないって人は、確かにいるかもしれないけど、目の前の人がそうとは限らないじゃん」

 

 エコロが身を乗り出して、ソーサーがかちゃん、と音を立てる。パーマのかかった前下がりショートが揺れる。昔はストレートのロングヘアだったのに、ほんとうに変わったものだ。


 「何か後ろめたいことがあると、それを解決してからじゃないと話しちゃいけないって気分になるのは分かるよ。でもさ、インチョーがいま、嘘かホントか分からないボクの話を適当に流したみたいにさ、人間、欠点がある人のことも、そういうもんだって受け入れていけるもんだよ」


 長台詞の演説には、視線が集まる。エコロは気にしないタイプなのだと思っていたが、そうでもないらしい。ハッとして縮こまる。

 

 「……昔みたいに、また、話したいな」


 さて、どう返したものか、と思う。結局、学校で感じた息苦しい試練は、再び目の前に現れた。『回数や時間で言えば、昔みたいになんて言うほど、僕たち話しちゃいないだろうに』なんて言っちゃいけないことくらいは分かる。

 

 (でも、それでも、僕は貴女と話したかった)


 それが何故か、今なら分かる。

 いつの間にか、他人に抱く『話せば分かる』という感覚は、どこかへ消えてしまっていた。

 利害を調整する価値は己にはないと、話し合いを諦める癖がついた。

 極端な人と出会って、自分を守る癖がついた。

 そうでない人にも、過剰に怯えるようになった。

 

 多分、貴女もそうだったと思うから。

 上手いこと、この悪癖から抜け出す術を知りたいんだ。

 

 だから、僕は貴女に倣おう。

 

 「……このシャーペン、背負って連れて来た子供に貰ったんです。助けてくれてありがとうって。客観的には全然助けたわけじゃないんですけれど、少なくともあの子は助かったと思っていたってことです──ちょっと救われた気分なんです、いま。なので、貴女の忠言も、素直に受け止められそうです。お話ししましょう」

 

 これ見よがしにゴリラのストラップがついたシャープペンシルを揺らして、僕は笑顔を見せる。自分の笑顔は、それなりに好きだ。相手がそうかは、分からないけど。

 

 「で、動物と話せるっていうのは、いったいどんな気分なんでしょう。例えば、ゾウとか、このゴリラとかは、知能が高くてストレスに弱いと言いますけれど」

 「一言で言うと、つまんない。人と話すのとは違うの。『どう音を出せばどう動くか』が分かるだけ。話すってより命令に近いかな」

 「命令」

 「もちろん、命令できる動物は、音声コミュニケーションを取る種に限定されるよ。例えばミツバチは、羽音でコミュニケーションを取ってる」

 「初耳です。では、ゾウは。やっぱり『パオーン』ってあれですか」

 「それとは違う、人間には聞こえない音が実はあるんだ。イルカの超音波は有名でしょ。高周波の音で、人には分からないけどコミュニケーションを取ってるってやつ。ゾウはその逆で、低周波の音でコミュニケーションしてるんだ」

 「へえ」

 「そういう中に、話してることも分からないけど、無理やり割り込めるんだ。だからあんまり使う気にはならないよ。インチョーと話してる方がまだ面白いかな」

 「……まだって何ですか」

 「そのまんまの意味―。ほい」

 

 話の流れで投げ込まれたのは、直方体のケースに、布のカバーがついたストラップ。

 

 「誕生日が近かった気がして、ボクからもプレゼント。エミューの羽根のお守り。さっきそこで買ってきたんだ。お揃いだね」

 トートバックから取り出したエミューの羽根のお守りは、多少砂に塗れているものの、彼のスマートタグと違って、大した傷はない。

 「無事だったんですね。良かった」

 笑顔を見せると、笑顔が返る。砂に塗れて無事じゃねえよとでも言いたいのか、その笑顔には、すこし憂いが混じっているような気がした。ハート形の羽根とやらを一目見ようと袋を開けようとして、エコロの腕が伸びて止められる。

 「中身は見ないでね。おまじないの効果が切れちゃうから」

 「おまじない」

 「そう、おまじない」


 そう言って、唇に人差し指を当てて、小さくウインク。

 「お久しぶりのクラスメイトとして、明日からよろしくね」

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