第三話 神医

三話:一

 その後すぐ、王靖ワンジンが兵を動かして荷華仙女の屋敷へ向かったが、彼女はとうに逃げた後だったという。


「――え、度生司に所属する部隊がいるんですか?」

「借り受けているんです」

 荷華仙女の屋敷に向かってから五日が経った。貧血に効く煎じ薬を楊汐ヤンシーに運んで行くと、彼女は療養で退屈なのか、赤い蝋燭を弄びながらそんなことを言った。

「王靖殿の昔の麾下だそうです。有事の際だけ特例で借りられるんだとか。でも仙女の逃げ足の方が速かったみたいね」

「一体どこに逃げたんだか……」

「天界にでも行ってしまったのかしら」

 くすくすと笑い、楊汐は安玖アンジウが差し出す薬を蝋燭の先で避ける。


「――度生司の情報もどこかから漏れているようだし、王靖殿は毎日大変みたいです。結局失踪した人たちの行方も分からなかったし……魂の抜けた人間を集めて、一体何がしたいんでしょう」

「俺にはさっぱり。それより楊道長、薬を飲んでください」

「……苦いのは嫌いなの」

「虫だとか猫鬼だとか蝋燭よりましです。ほら」

 渋い顔をした楊汐は、白湯の入った湯呑を揺らす。

「あなたは意外に世話焼きですね」

「仕事の内です。また投獄されるのは嫌なので」

「前にいた道医はもうちょっと適当でしたけど」


 楊汐は文句を言いつつ薬を飲んだ。顔色や脈を確かめて退出しようとし、その前に彼女に訊いた。

「そういえば、シェン道長を見ましたか?」

「沈道長? 昨日来てくれましたよ。この蝋燭について話を聞きたかったようで」

 彼女は赤い蝋燭を軽く振る。

「一体どんな話を?」

「大したことは何も。まだ全然調べられてませんから」

「そうですか……」

 安玖の浮かない顔に、楊汐は訝しそうに首を傾げた。


「何かあったんですか?」

「いや、なんか沈道長に避けられているみたいで」

「はい?」

「この五日、全く顔を見ないんです。偶々かと思ったけど……さっき来る途中、向かいの廊下で見かけたら走って逃げられました」

 明らかにぎょっとした表情だったと思う。呼び止めないうちに逃げられて、もしや怒らせただろうかと思ったが心当たりは特に無い。

「俺、なんかまずいことしたんでしょうか?」

「知りませんけど……」

 楊汐はあからさまに面倒そうな顔をした。

「避けられて困ることってあります?」

「顔見て逃げられたら嫌じゃありませんか?」

「いえ、別に」

 真顔で否定され、安玖は大人しく引き下がった。彼女に人並みの共感を求めても無駄だと察したのだ。




 ――とはいえ、気まずいまま一緒に働く方が面倒だ。どうせ次の仕事までは度生司の官舎で待機するしかないので、暮白ムーバイを探してみようと思い至った。


 避けられているのが勘違いならそれでいいし、怒らせたのならさっさと謝ってしまえばいい。それくらいの軽い気持ちで度生司の中を散歩した。

 官署となっている古い道観はあちこち改築され、妙な回廊や何にも使われていない堂屋が出鱈目に繋がっていて迷いやすい。方士の逃亡を阻止するためですよ、と楊汐は言っていたが、そう言った時の彼女の顔を見る限り本当かは怪しかった。


 立ち並ぶ柱の影が檻のように石畳に濃く落ちている。堂屋に囲まれた院子なかにわは閑散として薄暗く、こんな場所で呑気に散歩しているのは安玖ただ一人だった。

 道観の本殿の裏には園林が広がっている。元は美しく整えられた庭だったらしいが、現在はその半分が薬草栽培のための畑に変わっていた。そこに足を向けた安玖は、池の端に佇んでいる暮白の姿を見つけた。

 珍しくぼんやりしている様子の暮白は、安玖が近づくまで気づかなかったらしい。俯いて水面を見ている暮白の背後に立ち、安玖は笑み含みの声を掛けた。

「何してるんですか」


 勢いよく振り返った暮白は、狼狽したのか大きく目を瞠った。そのまま身を翻して逃げようとしたので、慌ててその袖を引く。

「あの、すみません、なんで逃げるんですか?」

「逃げているわけではないです」

「いや俺のこと見て逃げてますよね?」

「勘違いでは?」

「じゃあこっち見てください」

「……」


 暮白は苛立ったように袖を掴む安玖の手を振り払い、振り返る。彼は剣呑に安玖を睨んで躊躇いがちに口を開いた。

「……その顔は何ですか」

「何か怒らせたなら謝りたいな、という顔です」

 半笑いで言った安玖は、宥めるように手を振った。

「一応本当ですよ。気に障ったことがあるなら謝ります。俺は謝罪が得意なので」

「……それを言ってしまっては駄目でしょう」

「ごもっともです。それで、沈道長はなぜ逃げるんです? 俺の顔が気に食わないなら面でも被りましょうか」

 軽薄に喋る安玖の様子を見て、暮白は小さく息を吐いて肩の力を抜いた。


「――すみません。大夫だいふに嫌な態度を取ってしまった。謝ります」

 生真面目にそう言われ、安玖は苦笑するしかなかった。

「構いません。俺が何かやらかしたわけではないんですか?」

「いや、私が……あなたに、謝らなければと思って」

 非常に言いにくそうにそう呟いて、暮白は視線を彷徨わせる。

 怒ってはいないようで安堵したものの、予想とは違う話になりそうだった。安玖の提案で池のそばにある四阿に向かい、二人は白玉の凳子とうしに腰かけた。


 石卓を挟んで向かい、暮白はまだ迷うように目を逸らしている。安玖は試しに言ってみた。

「あの、俺には謝られる覚えが無いんですが。寝てる間に俺を殴ったことを気にしてるなら、別にいいですよ」

「それは違う」

 唯一の心当たりはあっさり否定された。むしろ本来なら謝るべきじゃないかと、安玖は若干複雑な心境になる。

「じゃあもう謝られること無いな……あ、俺に背負わせたことですか?」

「それも別に――いえ、迷惑はかけたと思っています」

「まあ仕方ないです。というか、痩せすぎだからもう少し食べた方が良いですよ」

 言いながら、こういう余計な口出しをしてしまうのが世話焼きだと言われる所以だろうかと思った。しかし、何年も医者の振りをしたのが染みついてしまって、今さら直せない。


 暮白は訝しげな目を向けてきた。

「本当に分かりませんか?」

「分かんないです。正解は?」

「面白がってませんか」

 胡乱に見つめられて曖昧に笑う。彼は呆れたように目を細め、ぼそぼそと答えた。

「……逃げていたわけではなく、ただ、私がいたら大夫だいふが不快だろうと思い……」

「不快?」

「私が……あなたの夢の中でやったことは……あれは、良くなかった」


「――ああ」

 何が言いたいのかようやく分かり、安玖は拍子抜けした。

 遅れて、気まずいような妙な気分になる。咄嗟に何を言えばいいのか分からなくなって、そうなった自分に驚いた。

「……あー、いや、どうせ幻だし……」

 ようやく声が出たが、自分でも明らかに狼狽した声に聞こえた。

「気にしてませんから……いや、本当に。あなたは俺を助けただけで、別に悪いことはしてないし……」

 養母の胸から剣を引き抜いた暮白の姿を思い出し、目を伏せる。――思い出さないようにしていたのに、一度蘇るともう駄目だ。


 深く息を吐いて額を押さえた安玖を見て、暮白は慌てたように少し身を乗り出した。

「申し訳ない。言わない方が良かった。――忘れてください」

「いえ、あー……まあ、そうかも」

 床に広がった血の生温さを思い出し、意味も無く指先を衣で拭った。居心地の悪い空気に耐え切れず、強いて明るく笑う。

「でも平気ですよ。そんなに気にしないでいい」

「……そう、ですか」

 暮白は微妙な顔で引き下がった。何かくだらない話で誤魔化してしまいたかったが、なぜか上手く話し出せずに口を閉じる。


 どうしようかと困り果てた時、暮白は不意に視線を四阿の外に向けて立ち上がった。突然の動きに面食らい、安玖は彼を見上げて問う。

「どうしました?」

「――何か、今、音が」

 緊張の滲む声で答えた暮白は、ふと唖然としたように目を見開いた。

「あれは……」

 彼の視線を辿った安玖も呆気に取られた。


 道観を囲う高い石壁に取り付いた人が見えた。もたもたしながら壁をよじ登っている。まさか賊かと思ったが、あの服は道服だ。

「――リー道長!」

 暮白の怒鳴り声に、その人は痛そうな音を立てて石壁から落下した。

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