応援コメント

すべてのエピソードへの応援コメント

  • 本文と、コメントも少し読ませていただきましたが、私は皆様より浅いステージで世の中を見ていたようです。

    特に、努力は等価交換であるが、結果の価値は人間が決めているから、努力と結果が比例しないという考えは目から鱗でした。

    私はテセウスの船のパラドックスが好きなのですが、これも同じ理由で生まれていたのですね。

    浅い人間なりの言葉で言い換えるなら、努力はガチャを引く行為なんでしょうね。
    一発で目当てのSSRを引く人もいれば、人生賭けても引けずじまいの人、望まないSSRを引いて扱いに困る人もいる。

    早くにSSRを引けばダンジョン攻略もスムーズで、仲間や能力も手に入り、様々な刺激とともに世界を広げていける。
    その一方、才に恵まれなかった者は、地道な努力を重ねるか、親の力で重課金するしかない。



    …書いている内に発見の興奮が冷めてきて、虚無感が襲ってきました。
    どれだけ努力しても、目当ての結果が引けない限り、社会的には意味がない。
    その社会評価Fランクの自分を、捉え方を変えた自己の思い込みで納得させるしか救いがないなんて。

    そんな酷い話あっていいのか……。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。
    「個人の努力と社会的な評価(結果)のズレをどうすべきか?」は難しい問いだと思っています。
    この問いの答えは古今東西どこを探しても見つかりません。
    天才の業績が生涯認められず、変人のそしりを受けながら貧困のまま死に、その後に「別人の業績として」評価されたという例は数えきれないほどあります。
    逆に鬼畜を絵にしたような人物が好き放題やって満足げに死ぬ例もある。
    それを「等価」だと言えるの? というのがダンテの主張でした。

    この問いの何が厄介か。人生の最後(下手すると死後)までその人の価値が本当はどうであったのか、誰にも分からないという点なのです。
    少し前に流行った「親ガチャ」「ギフテッド」という言葉があって、そこに羨望の眼差しを向ける人もいたようですが、SSRが引けたところで、それがいつまで通用するかなんて判断出来ません。
    SSRという例えで語るなら、昔のSSRがインフレによって使い物にならなくなる、あるいはナーフされたり、禁止制限されたりしますが、そうなったらその人に一体何が残るのでしょうか。
    大体、年老いれば十中八九過去の経緯すらあやふやになってしまうのに。
    「自己の思い込み」という文面を使わせていただくのなら、社会的な意味、社会評価というもの自体が一時の思い込みかもしれないのです。

    だから私は思うのです。重課金してSSRを引き当てて豪遊するプレイヤーもいてもいい(むしろゲーム会社的にはそれが望ましい)ですが、
    Nを引いても楽しくゲームが出来るに越したことはないし、そういうゲームを一生懸命に探すのがこれからの生き方になるのだろうと。

    編集済
  • 昨夏、「貨幣の意味」をキーワードに、人類学的「贈与論入門」がテーマの講演会に参加する機会があり、目から鱗が落ちたような気がしました。

    「交換」に関して、政治学的・経済学的議論とは別に、人類学的アプローチも面白いなぁ、と思いました。

    (このアニメは見たことがないのですが、詳細なコメントのやり取りを含めて、とても参考になりました!!)

    作者からの返信

     コメントありがとうございます。
     贈与論と言いますとマルセル・モースのことでしょうか。
     自分の浅学ゆえ、与える義務、受け取る義務、返礼する義務だったり、取引で交換される物は単純なモノに留まらない、といった部分程度しか分かっておりませんが……
     鋼の錬金術師が人類学の「交換」まで触れていたかは怪しいところですが、原作ではヒロインとの「交換」のやり取りが該当するのかもしれません。
     現在における「交換」は専ら資本主義経済的な文脈で使われますが、どうか血の通った交換が続いてくれることを願うばかりです。

  •  こんばんは。
     ハガレンのアニメは、第1作はかなり熱中したのですが、第2作は断片的にしか見てないです。僕の中では第1作できれいに完結した話でしたし、ご存じの通り、かなり精神に負荷が掛かる展開が多かったので、あれを再体験したり、もっと刺激が強い表現に触れたりするのは気が進まない、という思いがあるのかもしれません。ニーナとアレキサンダーの件は1回見れば充分ですし、誤解を恐れずに言えば2度と見たくないです(笑)
     何年か前に、動画配信サービスで第1作の印象的な回を見返したことはありますが、最初に見てから十数年も経っていると忘れている内容も多いですね。脳幹さんのエッセイを読んで「そんな話してたんだ?」と驚きました。以下に長々と書いたことも、アニメ第1作を見返すことなく、遠い記憶と思いつきだけで書いているので、実際の作品は全然違っているかもしれませんが、もしかするとどこかで何かの参考になるかもしれませんし、せっかくなので書かせていただきたいと思います。

     大人と言われる年齢の今になって思うことですが、ハガレン以前の世間で「等価交換」と言えば、一般的にはマルクス経済学の概念ではないかと思います。僕は『資本論』を読んだことがないので偉そうに語れませんが、入門書の記述と記憶を頼りにした上でかなり大雑把に言っていいなら、「経済市場において交換が成立するとき、物品は等しい価値を持つと想定される。ただし、同じ物品でも場所や時期によって値段が変わることがある。また、工業化社会においては、原材料と加工品では後者の方が高価になる。その価値の違いを生み出しているのは何か、労働だ(労働価値説)」、そんな感じではなかったかと記憶しています。この場合の労働は賃金労働に限らない広い意味の言葉のはずです(うろ覚えにうろ覚えを重ねると、後世の哲学者アーレントがこれを労働、仕事、活動の3つに分けていました)。人間は「労働」に喜びを見出し生き甲斐にすることもできるのですが、資本主義社会の工場労働者は「労働から疎外」されて生き甲斐を見失っていく、といった具合に話が続いていたと思います。
     もちろん、マルクスが念頭に置いていたのは第二次産業までの社会ですから、第三次以降の産業がすっかり一般的になっている現代において、労働価値説はあまり説得力を持ちません。脳幹さんがおっしゃる通り、学歴がなくても発想力やセンスがあればYouTuberになることはできますし、企業で社員として働くよりそちらの方が効率的に稼げる人もいるわけです。ただ、それで等価交換や労働価値説という概念が全くの無意味になったかと言うとおそらくそんなことはない、というわけで、近年、多くは新自由主義を批判する文脈で『資本論』の再評価が行われていますね。
     さておき、ハガレンの場合、ラジオが壊れても錬金術なら一瞬で直せるわけですが、主人公たちは最初、その時間とエネルギーがどこから補填されているのか無頓着でした。部品が揃っていれば時間とエネルギーを無視して物体の状態をイメージ通りに変えることができる、それが(ハガレンにおける)錬金術という超技術です。マルクス流に言えば、これはどこかで誰かの労働を「搾取」していないと起こりません。錬金術による繁栄は、まるでマルクスが批判した産業資本主義のように、誰かの犠牲の上にしか成立し得ないということです。

     ハガレンの錬金術における等価交換は、基本的に、エネルギー保存の法則や質量保存の法則などのような物理法則だったように思いますが、厄介なのは物質(元素・質量)の技術が主人公たちの社会的な価値観を強く規定してしまっているところです(これはとてもリアルで、ダーウィンの進化論が登場したとき、それを曲解した上で「人間社会でも自然淘汰が正義だ、それを阻害したら社会は進化できず停滞してしまう」と主張する社会進化論が流行した歴史を彷彿とさせます)。物理の面から人間を構成する元素をいくら集めても、亡くなった母親の代わりにはならないし、だからこそエルリック兄弟は人体錬成に手を出す。物理的にはそれが可能なはずの超技術(錬金術)もある。それなのに失敗して、むしろ悲惨な結果になる。ただ、「失敗」や「悲惨」は人間が勝手に下す評価であり、社会的な価値ですから、物質的には「等価交換」が成立しています。この皮肉がきっついですね。

     前置きが長くなりましたが、この文脈で、ダンテの問いを考えてみます。
     エドワードはこの世界のすべてに等価交換が成立するという信念を持っています。ただ、それは物質的価値と社会的価値を混同した議論です。作中ではあまりはっきりと言われなかった気がしますが、ダンテやホーエンハイムが指摘する矛盾もそこだと思います。ひとたび社会的な価値を考えれば、等価交換が成立しないのは自明だ、と。この意味で、因果応報とか「努力は必ず報われる」とか言ってしまうのは「幼稚」ということになるのでしょう。
     等価交換の否定と、哲学を代表する問い「真に存在するのは対象か、認識か」とを考え合わせると、ダンテやホーエンハイムにとって、世界は認識次第でいくらでも変わるものなのかもしれません。だから、1つの物理現象に対して1つの認識しか持たないエドワードは「幼稚」に見える。
     エルリック兄弟のあやまちは、母親を物理的に取り戻すことでしか社会的価値(幸せ・喜び)を取り戻せないと思ってしまったこと。でも、その「等価交換」には見過ごされたもの(作中の言葉では「魂」)があり、それがなければ社会的な存在であるところの母親は完成しないし、社会的価値も達成されない。物理的には母親と「等価」でも、全く「別物」が出来上がってしまったというのは、当然と言えば当然の帰結なんですよね。死んだ「人間」はよみがえらないし、取り戻すこともできません。
     では、人間が努力することは無意味なのか、母親を失った子供が再び幸せを掴もうとするのは高望みなのか。エドワードなら再びその問いを発するかもしれませんが、先述の通り、「無意味」とか「幸せ」とか「高望み」といったことは社会的な評価なので、認識次第でどうとでも変わってしまうものです。母を失った悲しみが消えることはないかもしれませんが、「認識」が許すなら、別の何かで乗り越えられるということです。世界は不完全で常に変化し続けるので、ある意味、達成された幸せは失われる宿命にありますが、その中で自らも絶えず変化を続け、行動や認識によって幸せを模索し続けるのが、人間の特徴であり、それが「人間として生きる」ということなのでしょう。
     このように考えると、ダンテが延命を続けていたのは、自らの世界観を突き詰めていたからこそかもしれません。ダンテの世界観では全ての価値の源泉は認識なので、認識が(物質的に)終わってしまうと自分の存在の意味もなくなってしまう。自分が単なる物理的存在ではなく社会性を持った存在として「生きて」いたことを証明してくれる存在は、究極的には自分自身しかいない。自分の存在が価値を持ち続けるためには、自分についての認識を他者に委ねるわけにはいかない(ダンテの世界観では、他者の認識、他者に認識されることに価値などないでしょうから)。自分が肉体的に死んでも他者の中で生き続けることや、自分が残したものが他者の幸福につながることに対して、徹底的なまでの懐疑や不安感がないと、ここまで生に執着することにはなりません。社会的価値の点から等価交換を否定したダンテは、正しく努力すれば良い結果を得られるとか、誰かに何かを与えれば同等以上の何かが跳ね返ってくるといった楽観論を捨てたせいで、自ら孤独に沈んでいったのかもしれません。彼女はこの世界の価値が人間の認識に立脚した社会的なものと気づきながら、他者や世界を信用できず、自己完結による安寧(幸福、あるいは消滅という究極の不幸の回避)を求めた。そう考えると、成熟した大人としての考えを持てなかったという意味で、彼女もまた「幼稚」だった、と言わねばならないかもしれません。
     余談ですが、虚無主義的な彼女とは対照的に、ホーエンハイムはこのことを前向きに捉えていたように思います。エドワードに「母から子への愛は等価交換で説明できない」と言ったのはそういうことでしょう。だから、彼は「光のホーエンハイム」と呼ばれていたのかもしれません。彼が育児放棄している間に息子たちが人体錬成に手を出してしまったのは、何とも皮肉ですね。

     結局のところ、等価交換が成立するとかしないとか、価値があるとかないとかいったことについて、両極端にどちらかを突き詰めるような考え方をすること自体が、自分自身の首を絞めることになる、ということでしょうね。そう言ってしまうと月並みではあるのですが、しかし、実際問題として人間はそれを忘れがちです。努力すれば報われると信じたり、逆に、あらゆるものは無意味なんだと不貞腐れたりする。今にして思えば、ハガレンというダークな作品は、「生きていれば色々なことが起こるけど、それでも生きることも努力することも「無意味」なんかじゃない」という力強い信念に貫かれていたように思います。

     長文失礼しました。
     ここに書いたことに妥当性があったとしたところで、アニメ本編を見れば誰もが分かることを難しく言い直しただけだった気もしなくはないですが、この長文がどこかの誰か(もちろん第一には脳幹さん)にとって、ごくごく小さくても何らかの意味を持つことを願います。

    作者からの返信

     コメントありがとうございます。
     あじさい様の深い洞察について、つい時間を忘れて読み耽っておりました。優れた文章というのは血肉となる反面、多くのエネルギーを消費するものですね(苦笑)
     可能な限り受け答えしてみます。

     まず……2期については1期に比べるとだいぶ救いがあります。ニーナとアレキサンダーの件は大筋は大きくは変わりませんが、悲惨さを増すような演出がないため、耐えうるのかなとは思います。辛いですが。
     何よりも作品の進行に応じてアルフォンス兄弟に頼れる仲間が次々入ってくるので、心理的な安心感が大きいんですよね。大人はちゃんと道を示してくれるし。(光のホーエンハイムさえイマイチ頼れなかった1期とは大きく異なります)

     未熟、無知、浅慮によって決して消せない罪を背負ってしまったアルフォンス兄弟ですが、彼らの行動や周りの支えがその罪に押し潰されないだけの力へと繋がるのが2期(原作)の考えでした。あじさい様の仰る「それでも生きることも努力することも「無意味」なんかじゃない」というメッセージは1期よりも伝わってきた印象です。
     対する1期は「罪」に徹底的にスポットが当たっていました。
    「君達は知らず存ぜぬでやったんだろうけど、それってどういうことか、本当に分かってる?」と問い詰められている気分でした。
     それを象徴するようなキャラクターがホムンクルス(特にエンヴィー)であり、ダンテだったわけです。1期におけるホムンクルスは人体錬成の結果であり、エンヴィーの原型がダンテとホーエンハイムとの間に生まれた息子(つまりアルフォンス兄弟とは異母兄弟にあたる)だったことからもそれが伺えます。これもあじさい様の仰る通りですが、この因果もハガレンの「等価交換」からすれば特段おかしくない結果で、それが悲劇的な要素になっていました。

     アルフォンス兄弟(のみならず、ショウ・タッカーを始めとした多くの錬金術師、更に穿った言い方をすると我々大衆)の過ちは等価交換≒科学技術を、普遍的な万能の解決策として解釈した点にあると見ています。
     科学とは根拠を基にすると言っても、所詮は哲学と同じく見方の一つにすぎず、アリストテレスからニュートン、更にアインシュタイン、更に……と地盤が変わり続けている分野です。
     その技術にすがり、釣り合わない望みを叶えようと考えたこと自体(幸か不幸か彼らに才覚があったこと)が彼らの罪だと思っています。
     技術を盲信し過ぎてリスクの見積もりを甘くしたり、誤った結果を正しいものと主張したり、逆に主観的な考えを頭ごなしに否定してしまうというのは、現実世界でも多く見受けられる態度でしょう。

     そんな彼らを冷笑したダンテもまた、過ちを犯しています。その内容は既にあじさい様が大方説明されていますが、彼女はすべてを否定するあまり、自分が既に欲するものを手に入れていたことに気付けませんでした。
     彼女は「ある目的のために生きようとするうち、生きること自体が目的にすり替わった」キャラクターであり、自分が口にする主張に対し行動が伴っていない点もふくめ、実に人間臭い。
     そういう点ではエドワードもダンテも自分の(経験に基づく)理屈に拘泥していたのは否めないでしょう。
     ダンテは「世界は残酷で、だからこそ美しい」との台詞を出していましたが、その美しさは世界の残酷さに対してではなく、それでも生きようと立ち上がる生き物達に対しての言葉だと思っています。

     話が飛び飛びになってしまい申し訳ございませんが、ハガレンの1期・2期(原作)の両方に共通する要素が、無意味さに対する反抗なのだと思っています。
     個人的な感覚では、1期は個人が胸に抱く「約束」であり、2期は皆と結んだ「絆」がキーワードになっているようでした。
     結論が違うのも当然で、1期は2期ほど(原作がそこまで進んでなかったのもあって)仲間が現れず、アルフォンス兄弟の受難が多く描かれています。彼らは互いの存在を以て自分を保つしかなかった。
     だからこそ皆と結ぶ「絆」よりも「約束」が優先されたのだと思っています。
     リチャード・ローティが出した考え方に「ファイナル・ボキャブラリー」があります。「色々突き詰めたけど、要するにコレだ」というもので、少年漫画はここに「友情、努力、勝利」といった語彙が入ってきます。
     上述のハガレンなら「約束」や「絆」が最終結論なのでしょうが、いついかなる時もそれらの言葉で解決できるわけでもないでしょう。(無論、「神」や「虚無」といった他の言葉でも同じ)
     一つの結論に甘んじることなく、対話を続けていきたいところです。

    編集済
  • ハガレンのアニメ一期は原作と違う良さがありますよね!ダンテもそうですし、ホムンクルスが人体錬成された人っていう設定も良かった記憶があります😌原作以上にダークになっていますが…笑

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。
    人の過ちの象徴としてホムンクルスがあるというのは、七つの大罪に即しているかは別として、業を感じますよね。
    他にも一話限りのエピソードも悲劇的なものが多いというか、夕方に放映するにしては刺激が強すぎるというか……そのせいで、ハガレンのエンディングはずっと「消せない罪」のままです。