7 温かな涙

妹が兄の僕に甘えることはあまりない。お互いに干渉をせず、深く関わることが苦手な僕に妹がいつも合わせてくれている。妹の結婚は僕にとっても嬉しいことだった。僕たちに家族はいなかったが、妹には幸せな家庭を持ってほしい。そして以前紹介してくれたあの信という青年は妹を心から愛してくれているようだった。何より、妹が幸せそうだったのだ。もうなくなんてしなくていい。そう思っていた。妹からの連絡も途絶えていた。それは僕たち兄妹にとっては喜ばしいことだった。お互いに辛いことがないということなのだ。

だが、そんな日々も長くは続かない。信が事故にあった時も突然だった。そして今度も。

「まただ。再発した。今度はもう無理かもしれない。」

妹からのメッセージはいつも短く淡白で、ストレートだ。病院の場所が後に続いたこの文章には、自分の気持ちは一つもない。辛いはずだ。いつもそうだった。辛い時でも決して感情を言い放ったりしないのが、彼女だ。これまでと違うのは、今は信がいるということだ。きっと心強いはずだ。彼なら彼女と一緒に闘うと言って、一緒にいてくれるだろう。

休暇を使って妹が入院している病院に向かう。気の利いたことなど言えないタチだが、彼女の笑顔がまた消えてしまうのがただただ怖かった。

妹の病室に続く廊下は少し賑やかだった。笑い声が廊下に響いている。男女の話す声が微かに聞こえる。病室のドアを開こうとして立ち止まる。彼女が笑っている。そう思うと今はドアを開けるべきではないと思えてならなかった。少し時間を潰してまた出直そう。二人の間には何者も入り込めない。入らずに見ていたい。そう思えるほどの美しさがある。

もう僕は必要ないのかもしれないな。

病室から離れて、病院の中庭に行ってみる。比較的景色の良い場所を見つけてそばのベンチに腰掛ける。

彼女の笑顔はもう消えない。

さっき自販機で買った緑茶のペットボトルの蓋を開ける。喉を通っていく緑茶がやけに冷たく感じた。

嬉しいような少し寂しいようなそんな不思議な気持ちがした。そんな自分が少し怖くも誇らしくもある。自分にこんなにも感情があったのかと動揺もしている。

「大丈夫ですか?」

誰かの声がして、ハッと我に返る。声のした方に目を向ける。そこには患者の着るガウンを身につけた30くらいの可愛らしい女性が僕の顔を覗き込んでいた。彼女は「あっ」と言って、ポケットに手を入れると、ティッシュを取り出して僕に差し出した。

「えっ…」

唖然とする僕に彼女が優しく言う。

「大丈夫、泣いてもいいんですよ。」

その時初めて自分の頬が濡れているのを感じた。僕は泣いていた。何が悲しかったのか、もしくは、嬉しかったのか。もう自分の感情はわからなくなっていた。彼女から受け取ったティッシュで涙を拭って、「どうも。」と彼女にお辞儀をかえす。彼女もペコリとお辞儀をしてそのまま病院内に続く扉の方へ去っていった。僕はただ彼女の後ろ姿を呆然と眺めていた。同じ扉から、見覚えのある顔と目があった。整った顔立ちのその男性がこちらに気づき手を振りながら近づいてくる。もう一口緑茶を流し込み、気持ちを切り替える。

「あ、どうも」

近づいてきた賢さんに挨拶をする。

「玲さんもいらしてたんですね。」

そう話しながら僕の隣に腰を下ろす。

「病室に行ったんですけどね、あまりに二人が楽しそうに話しているのが聞こえたんで、お邪魔かななんて思っちゃってね。」

ハハハと笑いながら賢さんが話す。

「僕もです。」

二人で笑い合って、あの二人の間にはなかなか入れないと話す。

「僕ね、あの信という青年のことも桜依という女性のことも好きなんですよ。二人はとっても遠回りしてきた。神がいるのなら僕は神を恨みますよ。こんな仕打ちないでしょうって。」

賢さんは悲しそうに話す。そうだ。もうこれ以上辛い思いなんてしなくていいんじゃないかと思うのに、どうしてまた二人を引き剥がさんとするように事が回っていくんだと。

「妹は、信くんに出逢ってからとても幸せそうです。それだけでも救いだった。彼女の笑顔はずっと消えていたんですよ。それを彼が取り戻した。兄の僕ではできない事です。彼には感謝しかない。」

そうですねと賢さんが頷き、妹の回復をただただ祈ろうと話し終えてから、二人で病室に戻ることにした。

病室に行くと、信はちょうど席を外していた。

「兄さん!賢さん!ありがとう」

そう言って笑いかける妹は少しやつれているように見えた。それでも先ほどまで信と笑い合っていたからか、頬は少し赤く血色がよかった。

「あ、あのね、二人には少し話したいことがあるの。」

これまで笑っていたであろう顔を少し曇らせて僕たちに向き直る。

「私はもう治らないの。だから二人には私のいない世界の彼の日々を見守ってほしいの。」

妹は死ぬのが怖くないのかと思えるほどに冷静に話している。僕には理解ができないような、残していく者の心配をしている。自分ことを後回しにする癖はずっと変らないな。

「桜依ちゃん⁈」

賢さんが驚いて聞き返している。

「君の願いなら僕らはなんでも聞くさ、でも、諦めてほしくはないんだ。君に生きてほしい。信と一緒に。」

そう話す賢さんに首を振りながら諭すよう妹が話し始める。

「主治医の先生に聞いたの。私の寿命。私ね、ずっと自分は不幸だと思ってきた。でも、自分の寿命を聞いた時、怖かったのは残していく彼のことだった。その時同時に、よかったと思ったの。私は幸せだった、この人に会えたから。ただ不運だっただけだって。彼と一緒に生きていけないのはとても悲しい、だけど、彼が生きていること、私を見つけてくれた事実が私には嬉しいの。」

返す言葉が見つからなかった。生きてほしい。これは生きていくものの傲慢に過ぎないのかもしれない。そう思えるほど、彼女の意思が変わらないことは明確だった。彼女が諦めたとは思わない。だが、自分を見ないようにしているのではないかと思えてならなかった。賢さんを説得した桜依。賢さんはわかったと渋々頷きながら、納得のいかない顔で病室を後にした。賢さんのいなくなった兄妹だけの空間は静かだった。

「兄さん、ありがとう」

そう妹が呟く。彼女の頬に流れる涙が窓から差し込む太陽の光を反射して輝いている。僕は何も言わずに彼女の横たわるベッドの端に腰を下ろした。そうやってどれほど時間が経ったろうか。もうとっくに日は沈み、外は暗かった。カーテンを閉めようと立ち上がる。

「怖い。」

「わかってる。」

当然だ。カーテンを閉める僕に妹が囁く。大丈夫なんて言えない。それでも張り詰めた彼女の息のつける家になりたかった。その夜は信が来れない日だった。代わりに僕がいよう。その日は静かな夜だった。どんなに静かで暗い中でも、一睡もできなかったのは、妹も同じだったようだ。最後に信への手紙を僕に託した桜依に、

「ありがとう、妹として生まれてきてくれて。」

そう呟いて信と入れ替わるようにして彼女の病室を去った。彼女は笑ってくれた。


病院からの電話。心の準備をする時間はあったはずだった。それでも受け入れるのは容易いことではない。

彼女の葬儀はとても静かだった。

火葬場で棺に横たわる妹はやはり微笑んでいるように見えた。初めて妹にあったあの夜に、僕の手を必死に握り、笑った時のような愛らしさがあった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る