1 彼女

煌く星。淡く光る月。僕らを包み込む夜の闇。だけれど僕らの間には光があるように感じた。彼女が僕を見上げた。目に涙を浮かべて。僕が彼女の方へ手を伸ばすと彼女は僕の胸に顔をうずめた。

「あなたの、あなたのそばに、いてもいいですか」

彼女は小さな声でそう言った。

 「もちろん。」

僕がそう言うと、彼女は僕を見上げて嬉しそうに微笑んだ。

静かな夜に雪が舞い始めた。



 毎日立ち寄る喫茶店に彼女はいた。

落ち着いた雰囲気の喫茶店で、一人の時間を満喫するには、最適の場所だと思う。紅茶をすすりながら、本を読んだり、仕事をしたり、ゆっくりと寛げる。喫茶店のオーナーの浅葱賢さんとは顔見知りになった。僕はその日も喫茶店の一番奥の席で店内の様子を見ながら紅茶を楽しんでいた。カランと音がしてお客さんが入ってくる。美しい横顔のその人は、トレンチコートを左腕に掛け、ドアを優雅にくぐり抜けていく。彼女はそのまま店内を見回すこともなく、カウンター席に向かった。艶のある長い黒髪に指を通しながら、賢さんに珈琲を注文した彼女は、白いシャツにタイトパンツ、ピンヒールを履いていた。PCを開いたまま、画面から顔を上げてただひたすら見惚れている僕に気がつくと、彼女は僕の方をちらっと見て、その薄い唇をさらに薄くして微笑んだ。優しく美しい笑顔だったが、僕は少し違和感を覚えた。彼女の微笑みはなぜか悲しそうに見えた。彼女は賢さんから出来立ての珈琲を受け取り、まだ湯気の上がっているカップにそっと唇を添えて、珈琲を少しだけ口に含んだ。彼女の細い喉が微かに上下し、まだ温かい珈琲が通っていった。しばらくの間、彼女は両手でカップを大事そうに持ち、カップの中のまだ半分以上残っている珈琲を一心に見つめていた。カップ越しに見える景色が湯気で少し霞み、揺れるカップの中で渦巻く珈琲の苦い香りが店いっぱいに広がった。

「凄く美味しいです。」

彼女は顔を上げることなく、カップの中を見つめたまま、唐突にそう言った。

「ありがとうございます。」

誰に向けたわけでもなく放たれたその言葉に、珈琲でシミになった台を拭いていた賢さんが、彼女の方に目を向けることもなく、ただ合いの手を入れるように答えた。

僕には驚きだった。突然の彼女の言葉にも、賢さんは驚いていない。ただいつもそうしているように、淡々と、何も見えていないかのように答えている。僕は、まだ珈琲の入ったカップを見つめ続ける彼女の頬に一筋の涙が流れるのを見ただけで驚いたというのに。彼女の悲しそうな笑顔と賢さんのいつも通りの答え。僕は、彼女を気遣った賢さんの心意気に感激すると同時に、彼女のその美しい横顔に流れる涙が気になって仕方がなかった。彼女はカップから離したその右手で優しく頬の涙を拭って、珈琲をもう一口飲んだ。彼女は壁にかかってある大きな時計をチラリと横目で確認した。まだ湯気の立つ飲みかけの珈琲をそのままにお代をテーブルに置いて店を出ていった。彼女の滞在時間は15分にも満たなかったが、僕には何時間もその姿を眺めていたような気持ちになった。彼女が扉を開けて店の敷居を跨いで行った後も、僕は自分がしていた仕事のことなど忘れて、彼女をただ見つめていた余韻に浸りながら、あの悲しげに微笑む美しい彼女に思いを巡らせた。また逢いたい、そう思った。その後数日間、僕は彼女のことで頭がいっぱいだった。

これを人は一目惚れというのだろうか。


あの日から、1週間は過ぎただろうか。彼女にまた会いたいと願ってから、そんな夢物語が叶うはずもなく、さすがの僕も彼女に会えることを諦め始めた頃だった。

またいつものように、いつもの喫茶店で、いつもの端の席で、いつもの紅茶を嗜んでいた。彼女は以前と同じように突然に、そして変わらずに優雅に現れた。真っ白い膝丈のワンピースを着こなし、綺麗な黒髪をなびかせながら、扉を引いて、そのスッと伸びた右脚から喫茶店に入る。カウンターテーブルに向かって歩く彼女の足音が、狭い店内に響き渡った。映画のワンシーンを見ているようだ。彼女は前と同じようにカウンターに軽く腰を下ろし、透き通るように穏やかな声で、賢さんに珈琲を頼んだ。僕はまた、彼女から目が離せなくなっていた。彼女をじっと見つめる。以前にもまして身体のラインが細くなったように感じた。僕は彼女の頬に儚く光る涙を思い出していた。彼女がこちらに気づき、僕に軽く会釈をする。彼女は、その赤い唇を結んだまま、口角を上げて微笑んだ。僕は咄嗟に右手を軽くあげて挨拶を返す。彼女に声をかけようか迷っている間に、僕は椅子から立ち上がり、彼女の座るカウンターへと向かっていた。隣の席を指して、

「隣、いいですか。」

と声をかけた。自分の声が耳から聞こえて脳内でこだましている。

「もちろん。」

彼女は微笑みを崩さないまま答えた。

綺麗な声だ。

そう思わずにはいられなかった。

彼女の隣の席に腰を下ろす。自分の鼓動が耳の奥でうるさいくらいになっているのを無視して、続けて尋ねる。

「どうしてここに。」

緊張で声が少し高くなっているのがわかる。彼女は歯に噛むようにクスッと笑って、

「珈琲を飲みに。」

左手でカップを顔まで持ち上げながら彼女が答える。カップを持つ手に光るものがあったのは見ないふりをした。あっ、と少し大袈裟に口を開けて、僕も微笑んだ

「みんな同じ答えだね。質問を変えなきゃ。」

「そうね。」

今度は彼女が悪戯っ子みたいにクスッと笑った。口元を隠すために挙げられた左手に銀色に輝く、とてもシンプルなデザインの指輪が店のライトを反射しているのを今度の僕は見逃せなかった。

「ごめんなさい、ちょっと意地悪したくなっただけよ。ちゃんと答えるわ。」

彼女はまた微笑んだ。彼女の整った顔立ちが微笑みでさらに輝いて見えた。

「私は苦しくなるとここへ来るの。ここの珈琲は落ち着くからね。」

「賢さんの珈琲は最高だよ。」

「そうなの。あなたはどうしてここに?」

「僕はいつもいるよ。ここに。僕はいつもこの店のあの場所に座って同じ紅茶を飲んで、考え事をしたり、日々の仕事をしたり、ここで日々のほとんどを過ごすからね。」

彼女は微笑んだ。

「素敵。」

彼女の微笑みがまた少し悲しく見えた。

「ここの珈琲はとても美味しいのにどうしていつも紅茶なの?」

彼女が不思議そうに眉を寄せながら尋ねる。僕は彼女が興味を持ってくれることがただ嬉しかった。

「ここの豆を買って家では珈琲を飲むんだ。だけど、なぜかここでは紅茶を頼んじゃうんだよな。」

「不思議ね。」

また彼女は悲しそうに笑った。

その後も僕たちは話し続けた。彼女のこと、僕のこと、日々のこと、仕事、趣味、とにかくいろんなことを。僕は今まで人とこれほどまでに深く話をした事がなかったのではないかと思えるほどに。彼女は僕に微笑みを返してくれた。僕は少しばかり、喋りすぎたかもしれないな。何時間経ったのだろう。それも忘れるくらい長い間、僕たちは話し続けた。

だけれど、彼女の薬指に煌めく指輪のことには触れることができなかった。僕はチキンだ。賢さんが僕たちに閉店を伝えるまで僕たちは話し続けていた。彼女が賢さんの言葉にハッとして時計を見る。そして笑った。

「こんなに話してたなんて。」

僕も笑った。

「今日はありがとう。もう遅いし、送っていくよ。」

僕は賢さんにお金を渡し、挨拶をしてお店を後にした。少し肌寒くなった夜道を並んで歩く。最寄駅に着いた時、彼女が僕を振り返って言った。

「ここまでで大丈夫。もうすぐそこだから。ありがとうございました。」

「わかった。今日はありがとう、またいつか。」

軽く手を振る彼女が改札口に吸い込まれていくように去っていくのを見送った。そして、僕は駅に背を向け、アパートに向かって歩き始めた。その後、彼女に携帯の番号を聞いていないことを悔やみながらアパートに着いたが、そんな後悔はすぐに忘れ、彼女との会話に思いを巡らしながら眠りについた。

僕は次の日、彼女がいないかと期待を胸に、喫茶店の扉をくぐった。

彼女はいなかった。

その日、僕は喫茶店で仕事を片付けながら彼女が来るのを待っていたが、彼女は遂に来なかった。彼女と唯一会える場所、明日、賢さんに彼女について聞いてみよう。

僕はその次の日も同じように喫茶店に入り、いつもの場所でいつもの紅茶を飲みながらいつもの仕事をしていた。仕事を一段落終わらせて、カップを片付けている賢さんの近くのカウンターに腰掛けた。

「なあ、賢さん、彼女一体どんな人なんだ?」

賢さんが洗い物をしながら答える。

「彼女のことが気になるんですか?」

賢さんは少し微笑みながら、洗い物から顔も上げずに聞き返してきた。

「い、いや、そんな、…ただ、ただこの前話をして少し興味があるんだ。だって彼女、少し悲しそうに笑うから…」

賢さんが軽く頷いた。そして洗い場から顔を上げて少し困ったようにぎゅっと口を結んで僕を見た。

「彼女はね、そうですね。いつも悲しそうです。君は…」

言いかけてやめた。賢さんは何とも言えないというように首を振ってまた洗い物を始めた。

賢さんはそれ以上話さなかった。彼女について何か知っているのは確かだったが、賢さんの口からは何も言えないといったところなのだろう。彼女に聞いてみたいという衝動を抑えるのは大変だった。この日も僕は彼女のことを何もわからないまま、謎の多い彼女にただただ惹かれているだけだった。そればかりを考えながら今日も僕は眠りについた。


 僕の仕事はと聞かれれば、作家と答えるが、それほど大層なものでもなく、細々とやっている。ありがたいことに読者もそれなりにいてくれる。この仕事は僕には性に合った仕事だと思っている。一人を好む傾向は昔から変わらないし、思いつくままに文を書いていく。自分のこだわりの文が出来上がったときにはその週ずっとご機嫌でいられる。僕は毎日賢さんのいる喫茶店で人間観察をしながら、ネタを探し、小説を書く。そんな日々を僕は大いに気に入っている。そして今、まさに今、そんな平凡な日々の中に突如彼女が現れて、僕の脳内をことごとく掻き乱している。これまで書き集めてきたものが無意味にも思えるほどに。彼女はどうしてあの時泣いていたのか、その時の僕には検討もつかなかった。


 僕はその日珍しく人混みにいた。一応人並みにファッションを嗜んでいるのだが、先日お気に入りでよく着ていた洋服が破れたので新しいものを買いに来ていた。そう、洋服を買いにショッピングモールにいたのだ。孤独を好むこの僕があえて人混みに足を踏み入れるなど、今後滅多にないことだと自分でも思いながら、メンズコーナーに急ぐ。早くここから脱出したい、僕の頭にあるのはただそれだけだった。そして、これもまた珍しく彼女のことは頭からなくなっていた。僕は、店内を行ったり来たりしながら、目を惹かれる洋服がなかなか見つからないことに少しの苛立ちを覚えていた。

彼女はいきなり現れた。少し丈が長めのスカートと淡い緑色のスウェットに身を包んだ彼女はいつもより少しラフな雰囲気がした。まだタグの付いたカーディガンとショートパンツを抱えていた彼女の後ろから、背の高いモデルのような男が姿を現した。黄緑色の上品なニットに白いパンツを着こなしたその男は、女性もののバックやら帽子やらの入った紙袋を何個も持って彼女の後ろを追っていた。まさにお似合いといった感じだった。僕もそれほど身長が低い方ではないが、その男性は僕よりもずっと背が高かったし、男の僕ですら惚れそうなほどに、男らしさの漂うセクシーな人だった。僕は瞬時に彼女の指輪のことを思い出していた。そして同時に、この人には勝てないと思ってしまった。少し圧倒されながら、僕が目を離せないでいると、見つめられていることに気づいた二人はこちらに近寄ってきた。

「こんにちは、お久しぶり、ですね。」

彼女が気まずそうに話しかけてきた。

「あぁ、お久しぶりです。」

僕も少し緊張しながら声を絞り出す。

「お、夫です。先日は、その、お話しできて、楽しかったです、ありがとうございました。」

彼女が辿々しく、言葉を詰まらせながら言った。

「どうも。妻がお世話になりました。」

彼女の夫と紹介された男が、流暢に想像通りの低く甘い声で挨拶した。

僕は少し微笑みながら会釈をして続ける。

「い、いえ、こちらこそ楽しかったです。ありがとうございました。」

少しの間、ぎこちない間が流れた。僕はそのひとときですら永遠に感じるほど、沈黙に圧迫されていた。この何もない時間を早く終わらせたい、そう思わずにはいられなかった。僕に向けられた男の視線に威圧感を覚えながら、僕は彼女の方に視線を合わせる。彼女は楽しそうでもなく、ただ申し訳なさそうにも、少し震えているようにも見えた。

「あ、えっと、では。また、いつか。」

と戸惑いながら別れを告げると、

「失礼します。」

と彼らも挨拶を返し、お互いの目的の方へと離れていった。僕は別れ際、夫と紹介された男性の血管が浮き出た男らしい左手を確認しないではいられなかった。

二人の関係性に少しばかり違和感を覚えながら、僕自身彼女に会えたことへの嬉しさのあまり、帰る道で広角が上がるのを抑えきれなかった。きっと変人に見えただろうと思う。息の詰まるほどのあの沈黙の時間は、まるでなかったかのように、僕の記憶からすぐに消えてしまっていた。

 次の日、やっと買えた紺色のセーターをきて喫茶店に行った。賢さんのいるカウンターに座り、彼女に会ったことを話しながら、この前感じた違和感はなんだったのだろうと思いを馳せた。賢さんはずっとにこにこと微笑みながら僕の話を聞いていたけれど、僕が彼女の話をすることに少し困っている気持ちを隠しきれていないようだった。彼女に偶然にも会えたことへの嬉しさに、僕は賢さんのそんな表情も気にならなくなっていた。彼女のことをもっと知りたい。賢さんは彼女のことについて何ひとつ言葉を発さなかった。


思いの外、彼女はその数日後すぐに喫茶店に姿を現した。


線が細くなっていく彼女の体はいつになく優雅で魅惑的だった。輝く黒髪を耳にかけながら彼女は颯爽と喫茶店のドアを通ってカウンターに腰掛けた。今日は柔らかそうな生地のワイドパンツにジョートブーツ、薄手のシャツにロングコートを羽織っていた。ハリウッド女優顔負けの容姿で、羽織っていたコートを椅子の背もたれにかけながら賢さんに珈琲を注文している。僕はまた、彼女のその映画のワンシーンのようなひとときに見入ってしまっていた。彼女が僕の視線に気がついたのは、賢さんが珈琲を彼女の前に出した時だった。カップから漂う珈琲の香りと白く登る湯気を背景に彼女が僕を見返して会釈した。僕はハッとして会釈を返す。今日の彼女は少し疲れているようにも見えた。彼女は珈琲を少し啜ってからカップを置き、少しの間じっとその中を見つめていた。僕の席からは彼女の表情を読み取ることはできなかったが、彼女の肩が少し震えているように見えた。

その日、彼女の指に高級感のある銀色の指輪が輝いているのを見た僕は、彼女に話しかけることができなかった。


僕は週に一回だけこの喫茶店に行かない日がある。その日は決まってドライブをすると決めている。これも小説を書くためのネタ探しだが、気分転換も兼ねている。会社員のように休暇が決まってあるわけではない。だから、週に一日だけは自分で休日を設けているのだ。今週のドライブは海辺を走ろうと考えていた。この辺りでも有名な浜辺で、僕のお気に入りでもある。その浜に車を止めて、夕方には夕日を眺めながら、珈琲でも啜ろうかと、ただ、綺麗な景色を堪能しようと、思っていた。だが、そんな思いも虚しく、この綺麗な景色にはどうしても彼女のあの淡麗な姿が浮かび上がってきてしまうのだ。彼女の黒髪が風になびき、ある日見た純白のワンピースが旗めいているのが容易に想像できた。というよりは、思い出をたぐっているような、僕はその姿を知っているような気さえした。彼女の姿がどうしても頭から離れないほどに僕は、彼女に惚れ込んでしまっているのかと自分でも呆れる。彼女の姿を思いながら、彼女はあの日、何を思い、どんな表情をしていたのだろうか、そして今、彼女は今どんな表情をしているのだろうか、そんな考えが脳裏をよぎった。結局、僕はその日も彼女のことを考えて休日を終えた。


そんな日々を過ごす僕だったが、ある日突然意識を無くしたのだ。賢さんに「大丈夫か」と顔を覗き込まれたところまでは覚えている。目が覚めた僕は、喫茶店のソファ席に横たわっていた。そばには彼女がいる。

「大丈夫?」

心配そうに眉間に皺を寄せた彼女に声をかけられる。

「あぁ、はい…」

「いきなり倒れたからびっくりしちゃった。」

彼女は、その綺麗な瞳で僕を見つめた。彼女の目は少し潤んでいるように見えた。彼女と話していると、閉店作業をしていた賢さんが慌てた様子で駆け寄って来た。僕は賢さんの慌てる様をその時初めて見た。

「無理してないか?」

賢さんは心配そうな顔を僕に向け、笑って返す僕を見て少しホッとしていた。僕は彼女に話しかけようと立ち上がった時、突然倒れてしまったらしい。僕の記憶ではまだ昼間だったが、目覚めた時にはもう日が暮れてしまっていた。

その日、彼女が喫茶店に来ていた。そういえば、僕は誰かの名前を呼んでいたような気もするが、彼女が僕の方を見ていた気もする。記憶違いだろうか。曖昧だ。

「今日はもう休んだほうがいいんじゃないか?」

書き途中の原稿を眺める僕に、賢さんが心配そうに話す。

「そうですよね。今日は特別休暇にします。」

微笑みを返す僕に、二人は安心したように頷いた。今日の僕は少し疲れているようだ。明日、少しでも長く作業できるように今日は休むことにしよう。

「すみません、お騒がせしてしまって。」

何かあったらすぐ病院に行くよう賢さんに忠告されながら、僕は喫茶店を後にした。


その後、僕の体調はさほど変わった様子もなく、至って元気に過ごした。あの時倒れたのは嘘のように、ただルーティーンを繰り返す日常に戻っていた。


いつものように朝起きて、賢さんの喫茶店で購入した豆で珈琲を淹れる。珈琲の香ばしい香りが部屋いっぱいに広がってくる。トーストに目玉焼きとベーコンを乗せて、朝日の差し込む部屋で朝食を楽しむ。ゆっくりとした朝だ。好きな曲をスピーカーで流しながら少し掃除をして、洗濯も済ませてから家を後にする。向かう先は、決まって賢さんの喫茶店。いつからこの生活をし始めたのかもう覚えていないくらいずっと、この繰り返しだ。喫茶店に着いて、いつもの隅の席を陣取り、賢さんに紅茶を頼む。珈琲が美味しい店で紅茶を飲むようになったきっかけは覚えていないが、珈琲に劣らず賢さんの紅茶は懐かしいような気持ちにさせてくれる美味しい紅茶だ。そして僕はジャスミンの香るその紅茶を片手に文章を綴る。日が暮れる頃には作業を終え、家路に着く。夕食を適当に済ませ、怠け者の僕でも続けられるくらいの軽いトレーニングをしてシャワーを浴びる。寝る前には眠気を誘うココアを啜って、布団に潜り込む。


そして僕の一日は終わる。


明日もきっとさほど変わることのないこの日常を過ごす。

でも、たまに思う。

僕はいつからこの生活をしていたのか。

でも、たまに思う。

僕はこの生活をする以前の生活を覚えていないような気がする。

夜、目を瞑る瞬間、僕はこのまま目覚めないかもしれないと思う時がある。


そんな日もある。


彼女に出会ってから、僕の生活は少しずつ変わっていった。


そして、あの日、僕が倒れた時に見た夢。記憶は曖昧だが、なぜか悲しくも懐かしくもあった。

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