第32話 黒百合の香
イェシルの話はこうだ。
「遠征訓練のちょい前にさ、非番の日に酒場に行った時、グラディウスの話について同席した相手に愚痴ったらしいんだよ。その時にはオレのこともむかつくとしか思ってなかったけど、その時に同席したやつの話を聞いてて、気付いたらオレのことが許せなくなってた……って話らしくて」
「悪意というのは簡単に他者に増幅させられるものだからね」
話し手の話術と聞き手の心持ちはあるとはいえ、私時間の酒の席など、不平不満を募らせるには十分すぎる場面だ。
「そうかもなぁ。実際酒の席の話だし、誰が悪いっていったら酔ってよく知らない奴の話に乗ったポールの奴が悪いんだけど……」
「何か気になる点があるんでしょうか?」
アカネの言葉に、視線を彷徨わせる。山道を先導していたイェシルが、視線だけを後ろに向けた。
「──先入観を与えたいわけじゃないんだ。ただ、話をしていた相手がな、……黒百合商会のやつらで」
「え……、」
「黒百合商会?」
眠る前には聞いたことのない名称だ。
通常創設者の姓を商会名にすることが多いものだが……黒百合をモチーフにしている共同経営形態だろうか。
首を傾げていれば、後を追うように飛んでいたバラッドの副音声が聞こえてくる。
《リメイク前は妖魔に憑依されていた皇后が摂政として力を得ようとする王権強固派が三軸を担っていましたが、世界観の調整に伴いその設定は消失。
現在はモーガル大臣率いる商工推進派が一角へと押し上げられ、彼の力を受けて各地で商工会が活発化しています。黒百合商会もその一つとなります》
モーガル大臣。
大臣ではないが、官吏の中にその名を持つ者がいたはずだ。野心的な男で政治に長けている頭の回る男だったが……。
(……私の知るモーガルは、商才に長けている訳ではなかったのだけれど)
《はい。なので彼が推進している政策は必ずしも国益となっているわけではありません。利益のみを最優先としている結果、その皺寄せが物流の滞りや安定しない物価として各地に現れています》
ううん……。
《一方で彼の傘下にいる者たちには多くの利益も与えており、特に推進する魔鉱産業により、一部地域では蒸気機関と魔力を融合させた産業も生み出されています》
それは素直に気になるな。黒百合商会に向かえばそれらの資料もあるだろうか。
とはいえ、三大派閥の一角の存在ともあらば、イェシルが警戒していることも頷けた。
「イェシル。君は彼が騎士団内の情報を探るためにポールに近づいたと思っているのかい?」
「……あんまし人を疑いたいわけじゃねえけど、可能性はあると思ってます。やけにグラディウスに食いついたりしてたらしいっすし」
《一つ発生したバグから連鎖している可能性はあり得ます。特に今回新規で追加された派閥ということもあり、他の箇所以上にバグが発生している可能性は否めません》
「なるほど……どちらにしても、一度足を運んでみるのはいいかもしれない」
「商会では私もいくつかお仕事を受けていましたから。下の人たちとならお話ができると思います」
会話を交わしながら山を降り、馬屋が見えてきた……ところで、違和感に気がつく。普段よりも人の数が多い。それも纏っている法衣を見るに、アカネと私が世話になっている教会の面々だ。
彼らは私たちに気がつくとハッとした顔で駆け寄ってきた。
「ああ、アカネ様!」
「良かった。探していたのです」
「どうかなさったのですか?」
聖女として、彼らに安心感を与えるような笑みを見せた女性の表情は、しかし続く言葉で僅かに強張った。
「実は、黒百合商会の方から大量の依頼が届いていまして……」
「それも全てアカネ様をご指名な上、あまりに連絡が遅いようならば聖女としての信に疑問が残るなどと不敬なことを仰っており……」
「業腹なことですが、立場の問題から私たちには何も口を挟むことができず……。至急お戻りいただけますか!?」
「え、えっ……」
「……随分と手回しをしてきたね。向こうも」
先ほどのイェシルの話とどれだけ繋がっているかは分からないが、静観は出来なさそうだ。
《信を問うということは、アカネの所有する名声にも影響が出てくる可能性があります。今後の動きにも大きく影響が出る前に、対処をすべきでしょう》
バラッドの副音声が聞こえてくる。青い鳥は当然のように止まっていた馬車へと乗り込んだ。私たちも悠長にはしていられない。
「ひとまず戻ろう、アカネ。まずは来ている依頼の状況を確認して対策を立てていこう。向こうも無茶なことをこちらに告げて逆に評価を下げるようなことはしないだろうから、優先順位さえ見誤らなければ大丈夫だよ」
「ひゃ、ひゃい」
「イェシル、見送りはここまでで十分だ。……この状況だからね、落ち着いたらまたポールにも話を聞かせてほしいと伝えておいてほしい」
「お、おう。分かった。二人とも無茶はするなよ?」
イェシルには笑みを浮かべて首肯を返す。自分もだがアカネにも無茶をさせるつもりはなかった。先にアカネを馬車に乗るように促してから、迎えに来てくれた教会の者たちに向き直る。
「依頼の一覧は持ってきてくださっていますか? 可能ならば馬車の中で目を通して今後の指針を把握しておきたいのですが」
「は、はい。こちらに」
差し出された紙束は想像よりも分厚い。……が、イーダルードへたどり着く前に一通り目を通して今後の対策くらいは立てられそうだ。礼を言って受け取った。
「アカネは街に着くまでゆっくり休んでいてくれ。帰ってひと心地ついたら、やるべきことを整理して伝えるから」
「うぅ……ごめんなさい、ヴァイスさん」
「謝る必要はないよ。私はどうしたって矢面には立てないからね、お互い様さ」
心底申し訳なさそうな顔をするアカネに笑みを浮かべて返す。……強いて懸念があるとするならば、彼女に打ち明け話をする余裕がなくなってしまったことか。
とはいえ、それはこの難所を切り抜けてからでもなんとかなるだろう。
馬車に乗り込み終えて動き出した振動に揺られながら、私は紙を捲りはじめた。
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