episode.24 主従


 リオンは目を見開く。

 ノアはリオンの耳元からゆっくりと顔を離すと、真っ直ぐにリオンの目を見据える。温かく柔いリオンの頬に冷え切った手を優しく添えた。冷酷さを残した強気の笑みを浮かべる彼は更に付け加える。


「私たちの契約は神聖な場で結ばれたものだ。聖なる契りの解除には双方の合意が必要になるのは、お前も知っているだろう」

 

 ノアはリオンの頬に添えていた手を離す。リオンの上着の胸ポケットに手を差し込み、白いシルクで出来た小さな包みを取り出す。

 主従としての契約を結んだ十三年前に、ノアから出来るだけ心臓に近いところに身に付けておくようにと渡された物だった。用途については何も聞かされておらず、包みを開くことも禁じられていた。


「手をこちらに」


 ノアが何をしようとしているのか分からず、心穏やかではないリオンはおずおずと手を差し出す。ノアは小さな包みを丁寧に広げていった。


 

 ――包まれていたのは、一本の金色の針だった。

 


 ノアは煌めくそれを手に取り、リオンが差し出した手に触れる。

「すぐに終わる。許せ」

 言い終わると、人差し指の腹に針を突き刺した。指の上で、珠のように丸く溜まっていく赤い血をリオンはただ眺めていた。溢れてくる血滴を自身の人差し指で拭い取ったノアは指に付いた血滴を舐め取り、一度恍惚の息を溢した。手をリオンの左胸の上にそっと置く。

 それを契機に、二人の心臓を繋ぐ穢れなき白い一本の糸が見えるようになる。突如として現れた変化にリオンは驚嘆する。


 

 自分の中ではっきりと感じられるようになった、弱々しい心臓の鼓動。いつ途絶えてもおかしくない音が自分のものではないことはすぐに分かる。

 ノアは触れれば簡単に切れてしまいそうな糸を、長いしなやかな指で大切そうに弄ぶ。心臓を直接指で撫でられているような感覚に、リオンは息を漏らす。おそらく同じ感覚を味わっているであろうノアは涼しい顔をしていた。


「契約を結んだ日から、お前の心臓は私の心臓と強く共鳴している。私の拍動が止まれば、間も無くお前の拍動も止まる。私はそのような事は望まない」


 無情な彼は糸の上に爪を弱く滑らせていく。微かではあるが大きな振動が糸をしならせる。肋骨の裏側を引っ掻かれているみたいだ。

「…………ノ、ア……」

 息を乱すリオンに、ただ突き放すような冷たい眼差しを送るノアは告げる。

 

 

「――故に私は、お前と私を結んでいる契約の糸をこの手で断ち切る」

 


 言い終えると、ノアはリオンの左胸に置いた指を下ろした。それと共に、糸は霧のように消え去り見えなくなっていく。心臓の鼓動が元に戻り始める。リオンは縋るようにノアの手首を掴んだ。


「……いや、だ。お前が居ない世界なんて、俺にとっては何の意味も無い」

 きつく唇を噛んだノアは声を震わせた。


「お前は私の、最優の相棒であり、唯一無二の友人であり、そしてたった一人の家族だ。


 だからこそ、刻が満ちる前に、お前を私という呪縛から解放してやらねばならない。お前の命はお前のものであって、私のものではない。私はお前に、お前の人生を生きて欲しい。

 

 もう一度言う。私がお前に令する事は、私との契約関係の解除だ。さあ、どうする。私の命を受くか?」


 拒否するという選択肢など最初から存在しない問いだった。そのようなことを言われて、主の命に叛くことが出来る従者が一体何処にいるというのか。あまりにも狡い。リオンはその鮮やかな手際が彼らしいとも思った。

 


 入り乱れる感情の全てを呑み込み、リオンはノアの目を見据えた。誰よりも『冷酷な』たった一人の主は、鋭い眼差しを向けたまま、静かに答えを待っていた。



「――謹んでお受け致します。但し、契約の解除は三日後にするという条件を加えて下さい」



「承知した」

 リオンの返答に安堵したノアは、厳しい表情を崩す。目に溢れんばかりの涙を溜めているリオンに向かって困ったように言う。

「そんな顔をするな。お前が私の事をどこかで憶えていてくれるのならば、それで良い。充分だ」

 歪んだ視界の中に、主の姿を映す。瞬きをすることなど許されなかった。目の前にいる彼の方が、自分よりもずっと悔しく悲しい気持ちであるに違いないのだから。



――今はただ、一秒でも長く、彼の隣に居たい。



 失いそうになって初めて、共に過ごせる時間の大切さに気付いたのだった。



 ノアは寝台の上、自分のすぐ隣を手で二度叩く。手で叩かれた場所にリオンは腰を下ろした。ノアはぼうっと遠い一点を眺めている。

「この部屋、寒くないか」

「ちょっと待ってろ。毛布を持ってくる」

 立ちあがったリオンはすぐに腕を捕まれ、元の場所に引き戻される。

「こら。動くな。そこを退かれるともっと寒い」

「……注文が多いやつめ」

 動くことを阻止されたリオンは仕方なくベッドの上の布団を引き寄せ、ノアの体を包んでやる。


 それで満足したらしいノアは隣のリオンに凭れ掛かった。

「そうだ。もう一つ言う事があった。この討伐が終わるまでの間、帝国騎士団副団長として私が持つ全権限をお前に委譲する。戻りたくても、私は戦線に復帰できない。私がやり遂げられなかった事を、お前が代わりに成してくれ」


 無理を強いて、なんとか気力だけで保っていたらしい体には一切力が入っていなかった。本人は何ともなさそうに振る舞っていたが、体はとうに限界を超えていた。かつてよりも随分重くなった彼の身体に時の流れを感じる。

「……ん、ねむい。すこし肩をかせ」

 弱々しく掠れた声だった。ノアはリオンの肩に頭を預けると、直ぐに微睡み始める。リオンは愛おしいものに触れるように、気持ちよさそうに眠るノアの艶やかな黒い髪を指で透いていた。


 

 リオンは元々貧民街の出で、名前すら持たなかった。しかし、とあるきっかけでノアに拾われ、主従としての契約を交わす事になった。契約を交わしてから、リオンはノアに絶対的な忠誠を誓っていた。

 家族と呼べる存在が居なかったノアを、リオンは弟のように可愛がってやっていた。ノアもまた、リオンのことを実の兄のように慕っていた。



 幼い頃は肩を貸せとよくせがまれたものだった。


 いつの間にか旋毛が見下ろせなくなっていき、自分の方が高かった背は次第に殆ど差が無くなっていた。肩幅は広くなり、体格が男性らしくなった。丸みを帯びた輪郭が愛らしかった顔付きは、目鼻立ちがくっきりとした端正で美しいものに変わっていった。


 こうやって肩を貸してやったのは何年ぶりだろう。

 

 毅然たる態度で周囲の者を恐々とさせる彼は、いとけない寝顔を晒していた。


「……昔から変わらないな。お前は。本当に」

 従者の呟きは誰にも届く事なく、静かに消えていった。




 部屋から出てきたリオンは人が変わったように冷たい目をしていた。彼に声を掛けようと思っていたリラは思わず口を噤む。ルージュの前に跪いたリオンに、ルージュは困惑の色を浮かべた。

「……リオン?」

「ノアから副団長としての全権を委譲されました。俺を討伐戦に参加させて下さい」

 真摯な目でリオンはルージュを見る。琥珀色の瞳の奥に、野生的な獰猛さが宿っている。

「ノアは戦線への復帰を望んでいました。俺はノアの望みを叶えてやりたい」

 ルージュは躊躇っていたが、

「……そっか。分かった。君の討伐への参加を特例として承認しよう。剣持ってきてないでしょう。これ使って」

 ルージュは腰に差していた白い鞘に細やかな装飾が施された細身の剣を外し手渡す。リオンはそれを両手で受け取ると、直ぐに立ち上がり室内から出て行った。

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