第18話 友達のつくりかた

 学院の時間は、全て機械仕掛けの時計塔が鳴らす鐘によって動いている。

 正一は時計塔の最上階のさらに上、屋根の上に登っていた。

 避雷針を点検し、雨樋の詰まりを除去する。

 周囲には時計塔よりも高い建物は無い。

 また、山も無いはずなのに、なぜか雨樋には落ち葉が詰まっていた。

 遙か下にある地面から風によって巻き上げられたのだろう。


「ショーン」


 こんなところで名前を呼ばれるなどと、思ってもみなかった。

 そのため、バランスを崩しておしまう。

 危うく避雷針に掴まり、事なきを得た。


「ごめんなさい、下から見えたものだから」


「いいえ。安全帯を着けなかった私が悪いのです。レイナ様が気にされることはありません」


 正一は屋根から降り、鐘楼の手すりを乗り越えて中に戻った。

 レイナは柱に背を預け、腕組みをしている。

 あまり機嫌は良くなさそうだ。


「あのさ。あなた、ママに何かしたの?」


「いえ、何も」


「本当?」


「誓って指一本触れておりません。あっ、手首に触れたかも」


「人妻になにやってんのよ!」


 襟首を掴まれて揺すられる。


「すいません、酒をガブ飲みしているのを止めようと」


 レイナは軽く眉尻を下げた。


「そう、なら仕方ないわね。ママったら、最近お酒ばかり」


「……」


 夫の透がしていることを考えれば、無理もないのかもしれない。


「ママが会いたがってるわ。今夜いつもの店で、ですって。でもわたしとしては、あまり会ってほしくないのよね」


 人妻であり、王妃である。

 娘の意見としては、あまりにも当たり前過ぎるものであった。


「王妃様とは、古い知り合いです。きょうだいのようなものですよ」


「でも、男と女だわ」


 レイナが親指の爪を噛んでいたので、自然な動きでさりげなくやめさせる。


「ご心配なら、エウファミア様を連れて行きましょう」


「……そうね。それなら不適切な事にはならないでしょう。でも、そういう次元の話じゃないのよ。ママはあなたを――うああっ!」


 時報の鐘が目の前で鳴り響き、レイナは耳を塞いでしゃがみ込んだ。

 鐘の音は条件によっては数キロ四方に届く。

 目の前で鳴れば、文字通り爆音である。

 レイナは苦悶の表情で、目に涙を浮かべている。

 このままでは、聴覚に異常をきたすおそれがあった。


「――――っ! ――――ッ!」


 レイナが足を滑らせた。

 この世界の建築は基本的に雑なので、地球のような防護柵などない。

 足場を踏み外せば、即座に落下である。


「きゃあああああっ!」


 地上に向けて落下を始めるレイナ目がけて、正一は壁を蹴って宙に舞った。

 落下に追いつくには空気抵抗を減らすしかない。

 魔法で主観時間を加速しても、落下速度だけは決まっているのだ。

 空気抵抗を無視しても毎秒約九・八メートルが限界である。

 ただしこれは理論値であり、実際には空気抵抗によって終端速度が決まってくる。

 手首を掴み、身体をひねってそのままレイナを抱きかかえる。


「あああああああッ!」


 耳元で叫ぶレイナのほうが、むしろ鐘よりもうるさかった。

 壁を蹴り、反動で向かいの研究棟へ飛び移る。


「いやあああああっ! やめてっ! もうやめてよおっ!」


 今度は研究棟の壁を蹴り、再び時計塔へ。

 空中で身をひねり、また壁を蹴る。

 それを何度も繰り返し、高度を徐々に下げていく。

 コップの水もこぼれないような、スムーズな着地ができた。

 行き交う生徒たちが、何事かと奇異な視線を向けてくる。


「この歳になると、階段も億劫でしてね」


「いいから、は、早く下ろしてちょうだい! お姫様抱っこなんて、恥ずかしいじゃない!」


「お言葉ですが、レイナ様はお姫様ですので」


「んもう! そういう話じゃないの! いいから早く!」


 下ろしてやると、レイナは顔を覆って走り去った。正一は塔を見上げた。

 高さはおよそ五〇メートルほどだろうか。


「お怪我が無さそうで何よりです」


 *


 いつもの店と言いつつ、来たのは前回一度きりだ。

 香奈はこういった言い回しを好んだので、らしいといえばらしい。

 正一はエウファミアを伴い、時間に余裕を持って店の扉をくぐった。

 マスターは正一の顔を見ると、何も言わずにミルクを出す。


「まだ何も……」


「あんたに飲ませる酒はないね。大変だったんだからな」


 そう言ってエウファミアだけに笑顔を向けた。


「いらっしゃいお嬢ちゃん。ご注文は? 当店はカクテルだけでも五〇種類ありますよ」


「ジンジャーエールをお願いするのです」


「かしこまりました、お嬢ちゃん。そうだ、チョコレートがあるんですよ。よろしければ、どうぞ」


「わあ……」


 エウファミアは目を輝かせた。


「美味しい! これ、ご主人さまも食べてください!」


「いいんですよ。エウファミア様がもらった物ですから。さ、乾杯しましょう」


 正一はエウファミアとグラスを合わせた。


「なんか、オトナって感じです」


「大人なら酒を飲めるとは思わないでください」


「大丈夫。ご主人さまが倒れたら、ボクがベッドまで連れて行きます。そしてまた看病するのです」


「お気持ちはありがたいですが、店主が許さないでしょうね」


 蓄音機から流れる静かな音楽に耳を傾けながら、ゆったりとした時間が流れていく。

 他にも数名の客がいて、思い思いにグラスを傾けていた。


「いらっしゃいませ」


 やがてドアが開き、香奈が入ってきた。

 例によって場末の歌手スタイルで、誰一人注意を払わない。

 もっとも、この世界では写真がないので、大抵の国民は王妃の顔を知らないのだ。

 香奈はカウンターの、正一の隣に腰を下ろした。


「その子が、自慢の奴隷ちゃんね」


「いや、それはあくまでも形式的なものに過ぎない。エウファミア様は――」


 エウファミアが正一を遮った。


「ボクは正一様が、法に則り正当に所有する奴隷なのです。なので、ご主人さまにまとわりつく悪い虫を払うのも、ボクの仕事の一つなのです。この意味がわかりますね?」


「あら、怖いわ」


 香奈の前にカクテルのグラスが置かれたが、香奈はそれを断った。


「今夜はジンジャーエールをお願いするわ、カール」


「仰せの通りに、香奈様」


 マスターは香奈のグラスをジンジャーエールと取り替えた。


「待ってくれ。今、彼のことをカールと呼ばなかったか?」


「そうよ。カール・ルーベン。こう見えても一〇四歳なの。彼はベヘタルの出身だわ。私たちが滅ぼした、ね」


 カールは静かに頷いた。


「不幸な戦でございました。私たちは捕虜としてオルミガ王国に送られ、奴隷としてこの店の先代に買われました。当初は人間をひどく恨んだものですが……」


「……お察しします。お詫びして許されるとは思いませんが、どうか謝罪させてください」


「お気持ちだけ受け取っておきますよ。許すかどうかは、また別の話ですが」


 正一は立ち上がると、深く頭を下げる。

 カールは続けた。


「ですが最近、思うようになったのです。不幸な出来事であったとしても、今の私にとっては必要なことだったのではないか、と。なにせ、幸せだけの人生などありませんからな。それは死んでいるのと同じ……あなたも、そう思うときがあるのではありませんか?」


「かも、しれません」


「ですが、娘はまだ八〇歳の若者です。復讐にかられ、自分自身すらも犠牲にしようとしている……私が何をどう言っても、聞き届けてはくれませんでした。お願いです。娘を止めてくれませぬか」


「娘さんは、いったい何をするつもりなのですか?」


「おそらくは勇者として召喚された王と交わり、あなたたちが魔王と呼ぶ強力な半魔を産むつもりなのでしょう。各地の魔族と連絡を取り合い、志を同じくする同士とともに、ね。一〇年もすれば、世界そのものを滅ぼすことが可能なだけの魔王が揃うでしょうからな」


 正一は固唾をのんだ。透は魔族を利用しているつもりで、逆に利用されているのだ。

 香奈は正一を真正面から見つめた。


「私も、あなたに頼みがあるのよ。本当は妻の私が一人でやらなければいけないの。でも、私は王妃としてこの国と国民を守る義務がある。これはあなたにしか頼めないし、それに――」


 香奈は軽く唇を噛んだ。


「私が心から信じられる人間は、世界中であなたとレイナだけよ、正一。私があなたに頼みたいことというのは……」


「透を止めろ、と?」


「ええ。穏やかに済めばそれに超したことはないのだけれど。まがりなりにも、私の夫だもの」


「……簡単ではないだろうね」


 香奈は苦悶の表情を浮かべ、ジンジャーエールを呷った。


「この国を、いえ世界を救ってほしいの。やってくれるなら、私は何だって協力する。私の事は好きにすればいいし、望むならレイナも付けます。出せるだけのお金と物資、人材を出すわ。もちろん犯罪歴――えん罪や不可抗力ばかりだけど――も抹消します。あなたさえよければ、透の後釜に王になってもいい」


「断ったら?」


「私も勇者よ。あなたと同じだけの力があるの。かなわなくとも、今ここで刺し違えることは可能よ」


 正一はエウファミアの方を向くと、軽く頭を撫でてやった。


「エウファミア様。聞きましたね? これがオトナの交渉というものです。相手に罪悪感を与え、同情を引き、餌をちらつかせ、そのうちに断れない状況へと追い込むのですよ」


「ご主人さま、これがやり手ババアというものですね? ボクはこんな汚い大人になりたくありません」


 香奈はカールにカクテルを頼んだ。額に青筋が浮かんでいる。


「何とでも言いなさい。奴隷なら奴隷らしく、主人を立てたら? 小娘には難しいかしらねえ?」


 エウファミアは正一の腕にしがみついた。


「ご主人さま、怖いです。寝取られ妻が何かほざいてやがります。世界の危機にかこつけて、浮気夫を懲らしめて『ざまあ』するつもりです。騙されないで」


 香奈はドレスの大きく開かれた襟に指を掛けた。

 流し目をして見上げてくる。


「少し、暑いわね」


「ご主人さま! ババアが無理して色仕掛けをしようと無駄な努力をしています!」


「あら。正一は女の前では緊張して何も言えないの。あなたみたいな子供は別だけどね。でも、私は違う。例外なのよ。これがどんな意味かわかる?」


「ご主人さまはロリコンなんです! ババアはお帰りください!」


 このままでは静かな店の雰囲気がぶち壊しになってしまう。正一は二人の間に割り込んだ。


「まあ、結婚をしていない者にはわからない苦悩があるのでしょう。それに……世界の危機には間違いありません」


「世界なんて、どうでもいいです! ご主人さまのほうが大事です!」


「それも世界あってのことですからね。誰しもが何かを守って、日々を戦っているのです。そうした人々の一人一人が、本当の勇者なのですから。私は私に守れるものを守らなければなりません」


「それが世界だと言うのですか!」


「そうです。私はそのために、あなたのお父上に召喚されたのです」


 エウファミアは正一の手を握った。


「なら、ボクがご主人さまを死んでも守ります。父に代わって」


「ありがとうございます、エウファミア様。でも、そのお気持ちだけで私は満足ですから」


 正一は香奈に向き直った。


「引き受けよう」


「あなたならそう言ってくれると信じていたわ、正一。ありがと」


 そう言って香奈は水を一口飲んだ。

 真剣な視線を向けてくる。


「――あの、さっきエウファミアが言ってたけど。まさか、あなた本当にロリコンなの? 確かに、私で足りなければレイナを付けるなんて言ったけど――」


「冗談じゃないわっ!」


 後ろのボックス席で声が響いた。フードを目深に被った女が立ち上がっている。


「わ、わたしがこんなオッサンと? じ、冗談はよしてよね。ママはいつも、せめてあなたは自分が好きな人と結婚しなさいって言ってたじゃない!」


 フードの下から現れたのは、レイナの顔であった。

 最初から店内にいたらしい。


「キモい! キモいわ! ほんと、キモ! キモいキモい! こんな雑魚オッサン、あり得ない!」


 レイナは正一を口汚く罵るが、その頬は赤くなっている。

 香奈はもう一口水を飲んだ。


「レイナ、少し黙りなさい。そもそもなぜこんなところにいるの? 明日は学校でしょう。……まあいいわ、場所を教えたのは私ですものね。で、どうなの? 正一」


「それは――」


 正一が答えようとするのを、エウファミアが止めた。


「ボクに言わせてください。こいつら、何もわかってないです。自分の都合ばっかり!」


「エウファミア様、私は――」


「言わせてください!」


 エウファミアは唇を噛みながら、香奈とレイナに人差し指を突き付けた。


「ご主人さまが牢獄で二〇年間、どんな気持ちでいたと思うんですか! 同い年の男の人が、当たり前に経験していることを、何一つできなかったんですよ! お勉強も、スポーツも、音楽も芸術も、お友達と遊ぶことも……恋愛だって!」


 顔をぐしゃぐしゃに歪めて、いつの間にかエウファミアは叫んでいた。


「ご主人さまは……まだ、一五歳の男の子の心を持ったままなんです! それは……工場奴隷のボクも……同じで! だから、ボクたちは二人で、一緒に、少しずつでも……無くしたものを……取り返していきたくて! なのに、何でも持ってるおまえたちに、ご主人さまをバカにされるのが、ボクは……ボクは許せない!」


「その辺にしておきましょう」


 正一はエウファミアの肩を抱くと、出口に向かった。

 ドアに手を掛ける前に、もう一度だけ振り向く。


「香奈。透はぼくが止める。それで……いいんだね?」


 香奈は神妙な顔で頷いた。


 *


「うぐっ……ひっく……」


 正一は泣き止まないエウファミアをなだめながら、夜道を歩いていた。


「エウファミア様。私のために、ありがとうございます」


「……ぐすっ。あいつら嫌いです」


「ですが、エウファミア様も……自分の幸せを考えてもいいと思いませんか」


「そんなのいらない。ご主人さまがいればいい」


「ですが、私はエウファミア様ほど長くは生きられません。いつか、必ず……先に死ぬのです」


「そんなのやだ」


「人間という種族の限界ですよ。仕方がないことです。その先も、エウファミア様には幸せでいてほしいと……私は思います」


 だからこそ、この世界を終わらせる訳にはいかないのだ。


「待って! 待ってよ!」


 走って追いかけてきたのは、レイナだった。


「ショーン。さっきはキモいだなんて言って、ごめんなさい。それからエウファミア」


 エウファミアは腫れた瞳をレイナに向けた。


「その、わたしたち……友達にならない?」


「……なんでボクがおまえと」


「女の子の友達だって、いたほうがいいと思うわ」


「マリアナがいる。マリアナはボクのこと友達だって言った」


「でも、マリアナだけでしょう? 友達は多ければ多いほどいいの。わたしも、友達は多くないわ。ほとんどマリアナだけよ」


「……」


 レイナは胸に手を当てながら微笑んだ。


「マリアナは、わたしにとってもお友達。友達の友達なんだから、わたしたちだって友達になれるはずよ。あなた、たった今自分で言ったじゃない」


「それはそれで、マリアナとは関係ない――」


 正一は、俯くエウファミアの背中を軽く押してやった。


「ご主人さま?」


「大人になると、友達を作るのも大変になります。でも、今なら簡単ですよ。多少のことは乗り越えられるものです」


 エウファミアはレイナに向き直った。


「……いいよ。でも、勘違いしないで。ご主人さまがこう言うからだから」


「うん、それでもいいわ。よろしくね、エウファミア」


 レイナが差し出した右手を、エウファミアは戸惑う様子で握った。


「……エウフでいい。……レイナ」


「うん!」


 二人を一歩下がったところから眺めながら、正一は胸に暖かいものが浮かび上がるのを感じていた。

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