All you need is a girl like a little sister(Ain't Got Nobody)


「ただいまー」


 と玄関から声が聞こえてくる。

 まずいことになった、と俺は思った。タイミングが悪かった。


 活発そうな声の主が靴を脱いでリビングにやってくるまでの短い間、俺は考えを巡らせる。

 

 まあ、慌てたって今更だ、というのが結論だった。

 そういうわけで、落ち着いて堪能することにしよう。


 スプーンでもうひとくちすくいあげたところで、もういちど「ただいまー」と言いながら妹がドアを開けた。

 厚手のコートとマフラー、手袋、着ぶくれした小さな体は、赤いランドセルを背負っている。

 

 頬は少し赤い。


 目が合うと、彼女は楽しそうに口を開いた。


「きいてきいて、今日かえってきた算数のテスト、満点……」


 嬉しげな報告の途中で、彼女は俺がくわえていたスプーンに気付いて目を丸くする。


 とりあえず、


「おかえり。寒くなかったか?」


 と言ってから、俺は容器の底をすくってプリンをまた口に含み、電気ストーブの方へとつまさきを伸ばした。


「……お兄ちゃん、何食べてるの?」


「いわゆるひとつのカスタード・プディングだな」


「プリン?」


「そう呼ぶこともある」


「……わたしの?」


「……どうだったかな」


「わたし、名前書いといたよ?」


 俺は容器にかろうじてくっついたままだった蓋に目をやった。

 困ったことに彼女の名前が書いてある。


「……なかなかに賢いやつだな」


「なんで食べたの?」


「いや……食べたかったから」


 妹は表情をくしゃりと悲しげに歪めた。


「……お兄ちゃん、またわたしのプリン勝手に食べたー!」


「ああ、うん……ごめん、つい」


「つい、じゃないよもう! これで何度目? かわりの買ってきてよー!」


 彼女は文句を言いながらこちらに近付いてくると、ストーブの前に伸ばしていた俺の足を押しのけて、かわりに自分の体を置いた。


「暖房の独占はよくない」


「どろぼうには、そんなこというシカクはありません」


 もう、とまた不服げに溜め息をつきながら、彼女はランドセルを置いて、マフラーをはずした。


 俺はプリンの空容器をテーブルの上においてから、窓の外に視線を投げる。

 季節はすっかり冬めいていた。


「……あーあ。楽しみにしてたのになあ」


「ごめんって」


「ごめんで済んだら警察はいりません」


「かわりの買ってくるから」


「わたし、いま食べたい」


「……いや、しかし、外は寒いよね、きっと」


「それはね、冬ですからね」


 妹はうんうん頷きながら手のひらをストーブの前にかざした。


「寒いなかわざわざ買い物にいくのは、ちょっと面倒だよね」


「そんなのしらない。お兄ちゃんがプリン食べたのが悪いんだもん」


「……それを言われるとな」


 ま、仕方あるまい、と思って、俺は立ち上がった。


「よし、じゃあコンビニ行くかあ」


「行くかって、わたしも?」


「うん」


「やだ。寒いもん」


「寂しいからそんなこというなよ」


「やだ」


「そんなこといわずにー」

 

 と言いながら、俺は彼女に近付いて脇腹のあたりをくすぐった(弱点なのだ)。

 こっちが触れる前から、彼女は身をよじって笑い声をあげながら床に倒れた。ぶつかった拍子に電気ストーブはエラーを起こした。


「やめてよ! ストーブ壊れるよ!」


「大丈夫大丈夫」


「もう!」


 と彼女は頬を膨らませた。

 

「ほら、行くぞ」


「だから行かないってば」


 彼女はそっぽを向いた。


「肉まんも買ってやるから」


「……にくまん」


「いらない?」


「……食べたい」


「よし、行こう」


「あ、でも……」


 彼女は口をもごもごと動かして、何かを言いたげにした。


「なに?」


「晩ごはんの前にたべたら、おばさんに叱られるかも……」


「大丈夫だろ」


「お兄ちゃん、そればっかり」


「要は、晩ごはんが腹に入ればバレないし、問題ないんだよ」


「……食べきれないかも」


「……んじゃ、半分こする?」


 うーん、と彼女はしばらく悩んでいたけど、最後には俺の方を見て困った顔をしながら、仕方ないなあ、というふうに頷いた。


「じゃ、行こう」


「あ、お兄ちゃん、プリンのごみちゃんと片付けてよ、いっつも捨ててくれないんだからー!」



 玄関を出てすぐに感じた空気の冷たさに肌が驚いた。

 吐き出した息の白さも、もう違和感がない。

 

 そろそろ、雪が降る頃かもしれない。


「寒いですねえ」と妹は言った。


「寒いですねえ」と俺は答えた。


「……それで、算数のテストがどうだったって?」


「あ、うん。それがね、満点だったの!」


「はー、満点。すごいな」


「でしょー? お兄ちゃん、満点とったことある?」


「昔はね。最近はないかなあ」


「そうなの?」


「うん。お兄ちゃんは勉強できないからね」


「そうなんだ」


「うん」


「あのね、お兄ちゃん、勉強ってね、できるようになるとおもしろいんだよ」


 たぶん、先生か誰かに言われた言葉を、そのまま繰り返してみたんだろう。

 不慣れな言葉を舌っ足らずに反復したような口調が、なんだか妙に愛らしくて、俺は彼女の頭をぽんぽんと軽く撫でた。


「……なに?」

 

 戸惑った感じの声に、なんでもない、と答えてから、彼女の手をとって繋いだ。

 特に文句はないみたいだった。


 それから彼女は、ちょっと落ち着かないみたいに視線を左右にさまよわせたあと、思い出したみたいに話を続けた。


「えっと、だからね、わたしがたくさん勉強できるようになったら、お兄ちゃんにも教えてあげるね」


 俺は笑った。


「うん。そのときはぜひ頼むよ」


 手を繋いだままコンビニにつくと、彼女はとたとたと店内を歩き回った。

 目的物であるプリンをひとつ選んだあと、ついでみたいにアポロとガーナチョコを手にとったかと思うと、いたずらっぽく笑ってカゴに入れた。


「なんか余計なもの入ったな?」


「えへへ」

 

 と彼女はごまかし笑いをした。

 俺はもちろんごまかされた。


 時間的に、店内は夕飯前のちょっとしたピークタイムみたいだった。

 俺たちは言葉もなく列に並んでから、肉まんをひとつと、あたたかい飲み物を一緒に買って、店を出た。


 軒先で肉まんを袋から出して、半分に分けて、片方を彼女に渡す。

 右手首に袋をさげて、その手のひらで半分になった肉まんを持って、左手は彼女の右手と繋いだ。

 

 ふーふー、と、やりすぎなくらい肉まんに息を吹きかけてから、彼女はそれを口にする。

 その様子を見てから、俺は特に何も考えずに肉まんを口に含んだ。

 

「おいしい?」


 と彼女はこちらを見上げて首をかしげた。


「美味しい」


「それはね、わたしが隣にいるからなんだよ」


「ふむ。というと?」


「かわいい子が隣にいると、なんでもおいしく感じるって、先生が言ってた」


「かわいい子」


「わたし、かわいいって、こないだゆうとくんに言われた」


「……おう。どこのゆうとだ」


「一組のたかはしゆうとくん」


「……」


「だからお兄ちゃん、肉まんおいしい?」


「……そうだね。なにせかわいい子が隣にいるからね」


 俺の言葉に、彼女は得意気に胸を張った。


 肉まんを食べ終えたあと、袋からあたたかい飲み物を取り出して、彼女の頬にくっつけてみた。

 くすぐったそうに身をよじりながら、彼女は左手でそれを受け取って、カイロがわりにほっぺたにあてていた。


「……あったかーい」


「それはよかったなあ」


「お兄ちゃんの手も、あったかいよ」


「それはそうだろうね」


「どうして?」


 彼女は外から帰ってきてすぐにまた出掛けたけど、俺はしばらくストーブの前で暖を取っていたのだ。

 手足の先の温度がだいぶ違っても、不思議ではない。


「そうだなあ。どうしてなんだろうな」


「お兄ちゃんにもわからないの?」


「うん」


「じゃあ、わたしが勉強してどうしてか分かったら、お兄ちゃんに教えてあげる」


 俺は笑った。


「……あったかいなあ」


 と彼女はまた言う。


「どうしてなんだろうね?」


「どうしてなんだろうな」


「……ねえ、お兄ちゃん」


「ん?」


「いつもありがとう」


「……なにが?」


「ずっと一緒にいてね」


 俺は思わず、彼女の方を見た。

 何かを期待するような、どこかすがりつくような表情。

 

 胸が詰まるような思いがして、俺は何も答えられなかった。


 そんな言葉を、わざわざ口にしてしまう子供。

 

 普通の子供は、そんなことを言わない。

 親や家族は、ずっと傍にいてくれるものだと思っているから。

 あるいは、少なくとも、今すぐにいなくなることはないだろうと思っているから。

 

 そんな言葉を口にはしない。


 そんな言葉を口にするのは、きっと、"一緒にいてもらえない"ことに慣れている子供だけだ。

“いなくなる”ことに慣れてしまった子供だけだ。


 俺は黙ったまま、彼女と繋いでいた手を離して、ぽんぽんとまた頭を撫でた。

 それからもう一度手のひらを繋ぎ直す。


 彼女は戸惑ったみたいにしながらも、ちょっと照れくさそうに笑った。

 

「そうだね」と俺は言った。


 いくつかのことを考えて、でも結局、口に出すのはやめておいた。


「大丈夫だよ、一緒にいるから」


 いろんな言葉を飲み込んで、そう答えた。


 少なくとも、彼女が、俺を必要としなくなるまでは。

 あてにできる誰かを見つけられるまでは。


「……あったかい」と、また彼女が言った。


「うん」と俺は頷いた。


 本当は、彼女の手はとても冷たくて、離しておく気になれなかった。

 俺の手のひらの温度なんて、何の足しにもならないかもしれないけど。


 彼女が繋いだ手のひらに力を込めたのが伝わってくる。

 とても小さな手。


 寒々しい冬の景色のなか、俺たちはゆるやかに家路を歩く。

 彼女が、白い息を吐き出しながら、ちいさく笑った。


「……えへへ。あったかいなあ」

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